ゆったりとした天文趣味の話(5)…P.H.ゴス・後編2012年01月09日 19時20分53秒

(前回のつづき)

このゴスの伝記は、息子のエドムンドの目を通して叙述されていますが、巻末にはゴスの妻(前妻をガンで失った後に迎えたイライザ)の手記が付録として収められています。同じような内容ですが、こちらも見てみます。

「この時期〔引用者註:晩年の数年間〕のこととして、夫が天体の研究に打ち込んだことを述べないわけにいきません。私たちは良い望遠鏡を持っていました。秋晴れの、星がいっぱいの晩には、それを使って主要な星座や二重星、それに星雲に関して、しっかり学ぶことができました。

この望遠鏡は、ある事故のせいで台無しになってしまいましたが、バザーの折に、ロチェスターの牧師さんから、もっと性能の良い望遠鏡を手に入れることができたので、それを使って私たちは、遠い遠い世界の素晴らしい光景を、さらに眺めることができるようになりました。このきわめて興味深い探究は1887年の終わりまで続きましたが、私にとって貴重な暮らしは、そこで幕を閉じたのです。

その年の冬の晩は冷え込んでいました。開け放った窓辺で熱心に立ったまま望遠鏡の調整をしていたせいで、夫は気管支炎の発作を起こし、1888年の初めには、深刻な病状になっていました。医者によって心臓の具合が悪いことも見つかり、それでも二人でちょっと散歩に出たり、ごく短い時間、田園まで馬車で出かけることはありましたが、夫の健康がすっかりだめになっていることが分かるのに、時間はかかりませんでした。」

夫婦で仲良く天体観測に励んだ様子が、何ともほほえましい。
ゴスは天文学に関しては完全に素人でしたから、上のこと(=夫婦で仲良く)は、当時の一般的なアマチュア天文ライフの一端を物語るものとも言えそうです。おそらく、この時期、天体観測は一般の女性も参画できる趣味として、徐々に認知されてきたのでしょう。

ゴスが天文趣味に目覚めた1862年というタイミングも興味深いです。
これはちょうどウォード夫人の『望遠鏡指南』(1859)が出て、好評を博していた時期にあたります。一般的に、この頃から天文趣味の裾野がぐんぐん広がり始めたので、ゴスもその波に乗った形です。かつての啓発家が反対に啓発されたわけで、当時の天文趣味の勢いを物語る話ではあります。

   ★

限りない創造の驚異は、何の補助具もない肉眼では見えずとも、顕微鏡の助けを借りれば十分視野に入ってくる。その驚異へと至る小道を切り開くことこそ、本書の目的であり、その取り扱う内容である。

すべての目に見える事物において、神の力と智慧の顕現は偉大かつ華麗であるが、同様にこれらの栄光は、さらに予想もつかないほどの広がりを見せており、ただ光学機器製作者の技術がそれを明らかにするまでは、打ち捨てられ、見過ごされてきたのだと断じても差し支えあるまい。

まるで東洋の伝説に出てくる強力な魔神の所業のように、この真鍮の筒こそは、それまで見えなかった驚異と美に満ちた世界への錠を開ける鍵であり、それを一目見た者は、決してそれを忘れることはないし、感嘆の言葉が尽きることもないだろう。」

ゴスが、まだ天文趣味に目覚める前の1859年に著した『顕微鏡とともに過ごす夕べ Evenings at the Microscope』の序文の一節です(1896年のアメリカ版から訳出しました)。ゴス自身が、天体観測について何か本を書いた話は聞きませんが、上の文中の「顕微鏡」を「望遠鏡」に置きかえれば、彼が天文趣味に何を求めていたかは明らかです。

ゴスが使った機材や、その天文活動の詳細は不明ですが、「魔法の筒」を駆使して、博物学と天文学に熱狂した、もう1つの実例として、ここではゴスに注目してみました。


(↑過度に装飾的なヴィクトリア時代のプレパラート。
背景はゴスの『顕微鏡とともに過ごす夕べ』、1896)

   ★

さて、ここまで書いてきて、ふと思ったのですが、天文趣味と他の興味関心―博物学でも、古物趣味でもいいですが―を両立させた人を挙げるとなると、賢治も、足穂も、抱影もそうですし、さらに言えば、アリストテレスも、ニュートンも、フックも、ハーシェルも…となって、話が終わらなくなります。

以下は、改めて話のポイントをしぼって、驚異の部屋への志向性と天文趣味が併存した例に内容を限定することにします。

ちなみに、古物の陳列室や「珍品のつまったキャビネット」を自慢したジョン・リーはその資格十分です。ウォード夫人やゴスの場合も、博物標本や採集・観察用具が山積した様は、きっと現代の目からすれば十分「驚異の部屋」的香気を放ったことでしょう。

次回は少し毛色の変わった例を見ることにします。

(このシリーズは少し間を開けてさらに続きます。なお、「ジョバンニが見た世界」も、画像の準備ができたら再開の予定です。)

コメント

_ たつき ― 2012年01月17日 22時30分15秒

玉青様
玉青様にはあきれられるでしょうが、私は神秘学を主に学んでいるものです。新興宗教にはまっているのではなく、学問としての精神史のようなものです。
そして不思議なことに、上記のタルホにしろ賢治にしろ、どこかで神秘的なものにかかわっています。
私は星占いは嫌いですが、視野が広い人、ものごとを深く見ることができる人は、自然と宇宙にまで心が広がっていくような気がします。天と地と、共に受け入れられる人。
わたしはこのブログにそうした広がりを感じて、お邪魔しています。が、この手の輩がうっとうしければ、どうぞ削除して下さい。

_ 玉青 ― 2012年01月17日 23時50分17秒

前のコメントを書き込みしている間に、こちらにもコメントを頂戴しました。
(ラファエル前派についてもありがとうございます)。

ものごとを深く考えていけば、いずれ「言葉にできない領域」にぶつかるのは必然でしょうが、その場に至ったときに「言葉にできないことは、ストイックに語らずにおこう」と考える人と、「言葉にできないことは、言葉以外の方法で認識しよう」と考える人に分かれるような気がします。言うまでもなく科学は前者で、神秘学は後者のアプローチですね。

文学者は言葉が商売道具ですが、志向性としてはむしろ後者でしょうか。
言葉を使って、言葉を超えた世界に至ろうというのは、ちょっと見には矛盾した行為ですが、すべての芸術と同じく、文学者の使う言葉は、言葉を超えた一種の「象徴」であるという点に、その秘密があるのかもしれませんね。

それにしても今宵の星空。
宇宙を見上げる時に覚える、この圧倒されるような畏怖の念。
こればかりは、科学者も文学者も宗教者も神秘家も等しく感じる思いでしょう。
そうした思いを仲立ちに、これからもこのブログでは、いろいろな視点から話題を綴っていきたいと思います。

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