蒐集と収集2015年01月18日 08時47分22秒


(Beetle collection at the Melbourne Museum, Australia. 出典:Wikimedia Commons)

イベント「博物蒐集家の応接間」(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/01/09/)まで2週間を切りました。それを前に、そもそも蒐集家とは何だろうか…と考えています。

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蒐集」と「収集」の字面の違いが、時おり話題になります。
すると、「草の根を分けて鬼のように集めるのが“蒐集”だ!」と言う人が必ず現れて、確かに「蒐集家」と書くと、「収集家」よりも、いっそう狂的な要素が感じられます。

「収集」とは「収め集めること」ですから、収集家というと、何となくきちんと集めたものを整理している人のイメージがあります。もっとも、その収集物の量が、必ずしも蒐集家に劣るとは限らず、膨大な量の収集を誇る人もいるでしょう。つまり、「蒐集」と「収集」を分けるのは、量ではなく、その様態だと感じます。
(たとえば牧野富太郎博士は、「収集家」ではあっても、「蒐集家」ではない気がします。でも、ご本人を知る人に言わせれば、「いや、立派な蒐集家だよ」となるかもしれません)。

純粋に個人的見解ですが、「コレクター」という言い方も、わりと「収集家」に雰囲気が近く、系統的な収集を行う人がコレクターで、行き当たりばったりの買い物を繰り返している人は、単なる買い物依存症で、コレクターとは言えないだろう…という思いがあります。

買い物依存症というのは、自分の内なる不安に対する、(不適切な)対処行動として買い物に走っているだけですから、収集それ自体を目的としておらず、そこにモノへの愛情は微塵もありません。

これまでのところを整理すると、

 ●蒐集家  収集行為が狂的様相を帯びるに至った人。モノへの惑溺が著しい人。
 ●収集家≒コレクター  理性的収集活動を行う人。研究者的相貌を持つ人。
 ●買い物依存症者  病者。本人が困っていれば治療の対象。

ということになります。

自分のことを振り返ると、たぶん買い物依存症にいちばん近く、コレクターからいちばん遠い気がします。私の収集行為に系統性はほとんどありません。ただ、本人はあまり困っていないので、治療につながっていないだけの話です。でも、モノへの愛着がないわけでもないので、蒐集家の資格もちょっとはあります。だから「応接間」にもしゃしゃり出るのです。

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収集行為へのこだわりは、古典的な精神分析にかかると、「肛門期固着」の一語であっさり片づけられてしまいます。すなわち、幼児期に体験した排便コントロールの快を、モノの売買、獲得/放出という行為に象徴的に置き換えて、延々と繰り返しているだけだ…というわけです。そこでは、モノをため込むことは、便をため込むこととパラレルと見なされているのです。

でも、カラスや犬も、光り物や無意味なガラクタを集める例が知られているので、収集欲は、精神分析学が考えるよりも、いっそう人としての深い部分、精神の古層に発している可能性があります。

私がいちばんしっくりくる考えは、収集とは「世界の創出」に他ならないというものです。そして、この場合の「世界」とは、往々にして「自分の似姿」である気がします。

「かるがゆえに、女性には収集癖のある人が少ないのだよ。何となれば、女性は子どもという似姿を産み出すことができるのだから」…という怪説を、以前取り上げた気もします(それを言ったのが自分だったか、他の人だったかは忘れました)。

ちなみに、カラスや犬も、収集癖があるのはもっぱら雄に限られるそうです。
…と書くと話が締まるのですが、そういうデータを見たことはありません(否定するデータも同様にありません)。

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今ふと思いました。蒐集家とは結句、「寂しくも充実した人」なのでしょう。