プラハの天文時計…(5)2015年10月15日 06時53分05秒

(昨日のつづき)

暦表盤の謎を探るため、まず基本文献をチェックすることにしました。

以下は、Henry C. King 『Geared to the Stars』(1978) から、プラハの天文時計の歩みを概観したパラグラフの適当訳です。(原文は全体が1パラグラフですが、読みやすいよう適宜改行しました。文字だけだと分かりにくいので、ウィキの絵入り解説と併せてお読みください。)

(この大著の冒頭を飾る口絵は、まさにプラハ・オルロイ)

 「プラハの天文時計はとりわけ興味深い。それは、街路から見える文字盤とからくり人形が興味深いというにとどまらず、度重なる修繕と改修にもかかわらず、その主要な外観が多くのオリジナル部位を残しており、15世紀初頭の形態をしのばせるからである。

Z. HorskýとE. Procházka を読むと、この時計は当初アストロラーベ盤しか持たなかったことが分かる。アストロラーベ盤は、同心環によって囲まれ、環はイタリア時間またはボヘミア時間を示すよう、日没時に手動でゼロに調整された。文字盤の周囲は(今もそうだが)石工Peter Palerによる動物彫刻のモチーフで飾られ、動く人形は骸骨模型が唯一で、日没とともに始まる時刻に合わせ、1時間ごとに打鐘装置(striking-train)が時を告げた。

1490年頃、Jan Růzě が指揮した追加作業の中には、おそらく暦表盤の付加が含まれていただろう。暦表盤は手動でセットしたが、主円盤上のボヘミア時間を示すリングとクランクで連結されていた。

その後、1566年にJan Táborskýが、暦表盤に独自の駆動装置を取り付け、アストロラーベ盤の外縁に、現在あるような二組の12時間目盛り(1つは正午に始まり、もう一つは真夜中に始まる)を付け加えた。さらに4年後〔1570年〕、彼はこの時計に関する貴重な手書きの解説文を書き終えている。

1629年もしくは1659年、さらなる改良が加えられ、そこには自転軸を中心に月球を回転させる装置と、新たな打鐘装置の組み込み作業が含まれていた。6人ずつ二組に分けられ、正午になると手動で動かす十二使徒像が加わったのは、少なくとも1659年以降のことであり、あるいは時代はもっと下るかもしれない。

1865年、その頃は完全に放置状態にあった時計に、新たな技術変革が加えられた。すなわち、新しい打鐘装置が取り付けられ、チェコの画家Josef Mánes が暦表盤を描き直し、旧式のフォリオット式脱進機が外された後に、クロノメーターが時計仕掛に加わったことで、伝動装置は1分間隔でリリース可能となった〔←この辺のテクニカルな説明はよく分かりませんが、時計の心臓部に思い切った現代化が図られたのでしょう〕。

時計は1945年5月8日の市街戦で大きな被害を受けたが、その後、新しい暦表盤(オリジナルデザインを写したもの)と、毎時報ごとに動く新しい十二使徒像が与えられた。」

なるほど、この古風な時計も、結構ひんぱんに改変されているんですね。今ある姿を、中世そのままと思ってはいけないようです。

肝心の暦表盤に話を戻すと、取り付けられたのはおそらく1490年で、当初は手動で回していたのが、1566年に機械化され、さらに1865年に盤のお色直しが行われた後、今ではその複製品に置き換わっている…という流れのようです。

でも、この「お色直し」が単なる塗り直しを意味するのか、あるいはまったくの描き下ろしなのか、さらに複製版を作ったのは誰なのか、ちょっと曖昧な点が残ります。

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疑問を抱えて、さらに検索していたら、次のページに出会いました。ここにはかなり詳しい事情が書かれており、信頼できるものと思われます。


■The Prague Astronomical Clock: Mánes’ calendar plate
 http://www.orloj.eu/en/orloj_manes_kalendar.htm

それによると、1865年に暦表盤の修復を行なったのは、キングの本にあるとおり、画家のヨゼフ・マーネス(Josef Mánes、1820-1871)で間違いなさそうです。

(Josef Mánes、1820-1871)

マーネスは、以前の古い暦表盤のデザインを生かしつつ、このいかにも中世風な作品を描き上げました。したがって、この暦表盤は彼のオリジナル作品といってよいものです。そこには、当時のチェコで高揚していた民族主義の影響もありました(西欧のゴシックリバイバルと似た現象かもしれません)。

マーネス自身、尋常ならざる熱意をもってこの仕事に取り組みましたが、彼にとって不幸だったのは、発注した市側が彼に十分な代価を支払わず、しかも仕事にいろいろ横やりを入れてきたことです。

きわめてストレスフルな状況で、もともと丈夫でなかった彼の健康は、徐々に蝕まれていきました。友人たちは「天文時計に関わったものは早死にする」という古来の言い伝えを告げ、彼を諫めましたが、彼のこの仕事にかける情熱はそれを上回り、1866年8月、ついに暦表盤は完成しました。完成した暦表盤は幸い大好評で、はなやかなお披露目式が行われましたが、作者マーネスは既に病の床にあり、式典には出席できませんでした。

その後、「これほど見事な作品を雨風にさらしては勿体ない、代わりにコピーを取り付けてはどうか」という意見が起こり、E. K. Liška(1852-1903)が指名されました。現在時計塔に掲げられているのがそれです。

皮肉なことに、複製盤作者のリシュカに支払われた代金は、マーネスのそれを上回るものでした。1882年の元旦、複製盤のお披露目式が再度はなやかに行われましたが、列席者のうち、オリジナル盤の作者マーネスが、11年前に亡くなっている事実に思いをはせた人が、はたしてどれ程いたか…。

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というわけで、最後は思わぬ人間ドラマになりました。
歴史というのは、やはり常に興味深いものです。

(この項つづく)