新天文対話…昭和30年代の天文教育のすがた(1)2012年06月16日 20時47分26秒

豊郷小の問題は、過去の記事をネットで拾い読みすると、いろいろ過激な文字が飛び交っていて、改めて人間の心の闇を見る思いがします。

「豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間」の話題、屋内の天文教具については、他校の様子も含めて、独立した記事にまとめる予定でしたが、今は豊郷小について語る心境にはとてもなれませんので、純粋に他校のみに絞って記事にします。

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ここで改めて天文趣味について。

動物や植物や鉱物は手で触れることができます。
しかし、天体は(一部の例外を除き)純粋に眺めることしかできません。
人の世をはるかに超えた世界への憧れ。そこに天文趣味は成り立つのでしょう。

しかし、人類はいつか宇宙を旅して、彼方の星にすっくと降り立つかもしれません。
未来への想像がふくらむ遥かな宇宙ロマン。それも天文趣味の一側面です。

しかし、我々は既に光の粒を介して、遠くの星と直接触れ合っているとも言えます。
見ることは共にあること。 存在をめぐる思索と観照。
そこにこそ、天文趣味の奥深さはあると思います。

天文趣味とは、人間のそうした言わば<素の感情・精神>に根ざすものですから、あまり難しく考えずに、上のようなことを自由に語って、子どもたちの目が、広大な宇宙へと向いてくれれば、それで十分だといえます。


しかし、学校の勉強ともなれば、趣味の涵養とはちがって、「知識」の伝達がメインですから、何をどう配列すればいいのか、現場の先生も、中央のエライ先生も、ひどく悩むことになります。その一端は、すでに6月3日の記事でも書きました。

月、太陽、星座のめぐりを実際に観測して、そこから宇宙の体系を理解させる…そんな天文学史の歩みをなぞるカリキュラムを、本気で志向したら大変です。

「天体・気象領域で学習効果を高めるためには、継続観察を怠ってはならない。〔…〕天体・気象領域での変化は、生物の変化のように単純ではなく、長期の、しかも観察から観察までに長い間隔をおき時間をかけなくては現象の変化をつかめない。」

「このように長期の観察を要するが継続観察に対する反省として、
○小学校の観測は何のためにするのか、ともすると気象台、
 天文台のまねごとに終わりやすく、そのねらいが不明確である。
○毎日の観測には非常な根気がいる。根気強くやりとげる態度が、
 この領域のねらいなのか。
○小、中学校で同じような観測をしているのではないか。
 などが問題点になっている。
 (いずれも『手引』 p.97より)

往々にして、継続して観測すること自体が目的化して、何のために観測しているのか途中で分からなくなる…という指摘です。なんだか滑稽なようですが、笑えない話です。

とはいえ、当時の先生たちは、そう筋論で凝り固まっていたわけでもなく、もっと自由に、あの手この手で、子どもたちに宇宙について語って聞かせようと、奮闘していました。何といっても「宇宙ブーム」の最中ですから、先生たちもそうせねば気が済まなかったのでしょう。

(と前置きしつつ、この項つづく)

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