ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(2)2013年05月18日 11時24分35秒

さて、「銀河鉄道の夜」に関連して活版所を見に行きます。

これを「ジョバンニが見た世界」の‘番外編’とするわけは、本編である「午後の授業」や「時計屋の店先」のシーンは、ジョバンニがピュアな憧れの目を向けた世界であるのに対し、「活版所」の方はそうではないからです。(本当なら、そこに子供らしい好奇心を向けてもよいのですが、何せ生活のかかった苦役の場でしたから。)

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連載の開始にあたり、「天文古玩的・活字趣味」について、少し思うところを記します。
そもそも「活字趣味」という語があるのかどうか、それからして不明ですが、実際そうとしか呼びようのない趣味を有する人がいます。すなわち、刷られた印刷物ではなくて、刷るための技術や道具に興味を持つ人たちです。
 

この活字趣味と、理科趣味やヴンダー趣味は、何となくかぶる部分があります。
つい最近まで、印刷というのは、知識を伝達する最前線の仕事であり、技術でした。
それは絶えざる機械技術の発展に裏打ちされており、特に19世紀以降の鋳鉄製の黒々とした活版印刷機には、スチームパンク的「科學」の匂いが強く感じられます。

(印刷所を描いた版画、ミラノ、1885年)

印刷技術は、科学と産業の「親」であり、「子」でもあったわけですが、同時にどこか秘法めいた感じも伴います。鉛やアンチモンを溶かして活字を鋳込む作業は、ちょっと錬金術めいているし、その職工たちの間には、長い歴史の中で培われたギルドの伝統が、かなり最近まで残っていたはずです。時と所によっては、入職にあたってフリーメーソン的な儀式があったかもしれません。

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…というようなことを考えていたら、最近、次のような本を目にしました。そこには、革命前(原著が出たのは1762年)のパリの印刷職人の暮らしが生き生きと描かれています。


二コラ・コンタ(著)、宮下志朗(訳)
 『18世紀印刷職人物語』、水声社、2013

当時、「礼拝堂(シャペル)」等の名で呼ばれた印刷職工の組合は、まさにギルドそのもので、独自の加入儀礼、相互扶助システム、きびしい罰則規定を有していました。

たとえば加入儀礼について言うと、そのころの新入り徒弟には、「礼拝堂」の正式メンバーとなるための「エプロン授与式」が待っていました。
儀式のスタートは月曜日の午後4時。場所は町場のしかるべき居酒屋。その一室に先輩職人が居並び、職工長がおごそかに演説をしたあと、手ずから新入りに真新しいエプロン(印刷職人の作業服)を着せてやる…これがエプロン授与式です。一同の喝采と乾杯につづき、あとは飲めや歌えの大騒ぎ。こうして新人は正式メンバーとして認められ、残りの徒弟期間を無事勤め上げれば、「職人」として一本立ちし、「旦那(ムッシュー)」と呼ばれる資格を得ることができたのです(そして、このときも職人への昇格儀礼がありました)。

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ちょっと話が脇にそれました。
活字趣味と理科趣味の微妙な絡み具合は、理科趣味アイテムのお店「きらら舎」さん(http://kirara-sha.com/)に「活版印刷室」のカテゴリーがあることにも感じ取れます。
同店オーナーのSAYAさんには、今回の連載と同時並行で進めている「小さな活版所づくり」にもご協力をいただきましたが、そんな話も今後の記事の流れの中でできると思います。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2013年05月18日 16時38分55秒

待っていました、活版所編!

 確かに理科趣味と言えるかどうかはわかりませんが、活字印刷は啓蒙の騎手としてロングランナーでしたね。
 もっとも、日本では、江戸時代に出版の普及があり、技術も知られていたにもかかわらず採用されませんでしたので、西洋文化とか文明開化の香りがします。

_ たつき ― 2013年05月19日 04時51分13秒

玉青様
活版所にこんな儀式があるとは知りませんでしたが、やはり活字印刷されたものには特別の感じがします。北村薫さんもそんな想いを書いていました。私が十代のころが活版からコンピューターによる印刷へ変わるときで、そのころ私は編集学校のようなところへ通っていたのですが、そこで「朝日ジャーナル」のみが活字を通しており、その美しさを他の雑誌と比べるように言われたのを思い出します。

_ 玉青 ― 2013年05月19日 15時44分42秒

〇S.Uさま

日本における活版印刷術は、朝鮮伝来の技術あり、南蛮渡来の技術あり、木活字のみならず、独自に金属活字の鋳込みも試みていましたし、書物に対する需要を考えれば、江戸時代を通じて大いに発展してもよかったのに、結局江戸のごく初期で途絶えてしまいました。

思うに、日本では字種の多さが最大のネックとなって、
(活字鋳造の手間+組版の手間)>(版木を彫る手間(+版木摩耗による再刻の手間))
となり、結局技術が維持発展しなかったのでしょう(西洋では不等号の向きが逆)。

幕末以降の最大の変化は、電気応用の母型製造技術により活字が自由に鋳造できるようになったことで、近代印刷術はまさに「科学の申し子」だったと感じます。その過程で、本木良永の3代後の裔、本木昌造が嘉永年中大いに活躍をした…というようなエピソードも最近本で知りました。

〇たつきさま

そして最近では、印刷も紙もすっ飛ばして、直接データをディスプレイで読む傾向に拍車がかかっていますね。
まことに、20世紀後半~21世紀前半の情報伝達をめぐる技術的変化は、千年単位の歴史で見ても、おそらく特異的かつ革命的なものなのでしょう。紙の本への愛着は捨てられませんが、そういう興味深い時代に立ち会えたことは、ある意味ラッキーだったと思います。

_ S.U ― 2013年05月19日 17時26分56秒

>日本では字種の多さが最大のネックとなって、
>(活字鋳造の手間+組版の手間)>(版木を彫る手間(+版木摩耗による再刻の手間))

 そのような説明は出来ると思いますが、それだけでは納得の行かない部分もあります。
 以下は私の個人的な見解ですが、たとえば、江戸時代でよく売れていたのは黄表紙とか庶民向けの実用書などでしょうが、こういうのは、使われている文字の数も少なく、特に黄表紙は平仮名と簡単な漢字だけでせいぜい200~300字レベルで足りたのではないかと思います。出版数では、再版ものよりも、短期のシリーズもの(連続刊の長編小説など)やら、焼き直しや改訂されるものも多かったでしょうから、これらは、その都度活字を組み直しても良いわけで、活字のほうがいちいち木を彫るよりも実は速かった可能性もあると思います。

 また、続け字や草書体が好まれて、それが活字化できなかったという説もありますが、これも怪しく、黄表紙の平仮名は活字風に文字が分離していますし、漢籍では楷書体が普及していたので、行書・草書風でないといけないことも全然なかったはずです。挿絵が多かったというのが実は問題だったかもしれません。

 紙型が発明される以前の西洋では、古い版の保管や図版とテキストを同ページへの配置はどのように処理されていたのでしょうか。銅版は重いし腐食も起こるので、保管はけっこうやっかいそうに思います。

 また、江戸時代の日本の似た問題として、馬がいて馬子がいて、武士にも庶民にも旅行のサポートが充実していたのに、なぜ馬車がなかったのかという問題があります。これは治安上の問題とされているようですが、活字にも治安上の問題があった可能性はないでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年05月19日 20時48分02秒

私が今参照しているのは、川田久長氏の『活版印刷史』(印刷学会出版部、昭和56)という本で、この分野に関しては基礎文献の1つらしいのですが、ここで問題になっている「日本で活版印刷がなぜ衰えたか?」については、やや説明に弱い点があるように思います。そんなわけで、できれば上記のような単純な理屈で片づけたかったのですが、S.Uさんは、どうも痛いところを突いてきますね。(笑)

参考として川田氏の文章を、そのまま引きます(pp.30-31)。

 「このようにして活字版の印刷は一時流行の状態をさえ呈して次第に発達をとげ、出版の中心地であった当時の京都には出版を行う書肆の開店するもの、慶元の間(西暦1608年-1623年)において十四を算するというの景況であった。そして寛永年間(西暦1624年以降)に至って、出版事業はいよいよ企業として確立するようになったが、寛永の後半(西暦1633年以降)から活字版の刊本は次第に影をひそめて、昔のとおりの整版本(木版本) に復帰するというありさまを現出した。その原因は元来活字版印刷によると、一通り活字を揃えればそれによって各種の書籍を刊行することができるので、出版の経費は比較的些少ですむけれども、一時に需用が増加して印刷部数が多くなったり、またたびたび重版の必要に迫られてくると、活字版は組版のまま保存してあるわけではなし、また幾通りも組版ができているわけでもなかったから、早急な重版には不都合であった。そこで再び一枚の板木に刻んだ整版を便利とし、専らそれによる傾向に復帰するに至ったのである。これはあたかも現在において、印刷部数の多いもの、版を保存し重版の必要あるものは、活字の原版から紙型を取り、鉛版を鋳造して一枚のブロックにするのと同一の行き方である。
 しかしその当時の活字版衰退のもう一つの原因として、わが邦の所用活字がおびただしい数にのぼるので、新らしく活字を取揃えるのに多くの手数と費用とを要した点を、看過するわけにはいくまいと思う。
 そして一たび衰退の色をあらわした江戸初期の活字版は、その後というものは、わずかに世をはばかる少部数の出版か、あるいは、好事家の特殊な印刷に利用される以外に、はとんどその使用の途を失ったのである。」

どうでしょう、この説明はS.Uさんの疑問に答えるものではないと思いますが、今これ以上の説明を思いつきません。(ただ、「治安上の理由」については、実際、地下出版に活字版が使われた例があったような書きぶりなので、そうした意味合いもあったかもしれません。)

なお、草書体が活版の普及を妨げたというのは、日本を代表する美本、「嵯峨本」が、草体の活字を工夫し、目覚ましい効果を上げていたことからも否定されるように思います。

>紙型が発明される以前の西洋

欧文は和文に比べれば組版がはるかに容易ですし(と言ってもそれなりに大変だったでしょうけれど)、人件費の安かった昔のことですから、18世紀以前は、重版のたびに組版を繰り返していたんじゃないでしょうか。少なくとも、すぐに刷る当てのない版をそのまま残しておくことはしなかったはずです。

図版については、銅版画が挿絵の主流だった時代(18世紀以前)は、凹版の版画と凸版である文字との混在は不可能で、挿絵は原則として別紙に刷っていたようです。その後、凸版である木口木版が発明され、文字と挿絵の混在が可能となり、これがほぼ19世紀いっぱい続いた…というのが、大雑把な歴史だったかと思います。
(参考: http://www1.parkcity.ne.jp/bibkid/evans.html

_ S.U ― 2013年05月20日 07時33分53秒

これは、細かいところまでの分析ありがとうございます。
江戸時代初期には、活字本が商売の表舞台にいたこともあるのですね。

 私は印刷技術については、西洋のことも日本のこともほとんど知らないので、まったくの素人考えだったのですが、江戸後期には、蔦屋重三郎のような出版プロデューサーもいたし、平賀源内や司馬江漢のようなもの好きもいたので、部分的にでも活版が復活しても不思議はない、明治・大正時代を待つ理由は特になかろうと考えました。また、明治に活字が使われだした頃は、新聞にも小説にも難しい漢語やルビが使われ、江戸時代よりもかえって状況は悪かったと思います。
 
 今、玉青さんの資料とご説明を拝聴するに、江戸後期の木版彫りはけっこう早かったみたいですね。木版で十分早かったので、忙しかった源内や蔦屋が(源内が本当に忙しかったかどうかは知りませんが)わざわざ活字本製造態勢に投資する動機がなかったのかもしれません。また、治安という意味では、そんな新奇なことをしてお上に目立ってもいけないということもあったのかもしれません。

 西洋はAだったのでA'が採用された、日本ではそれと違ってBなのでB'になった、という説明をよく聞きます。しかし、AとBに大差がない場合や、BだからB'になる必然性があまりないように感じることもしばしばです。こういう場合は、A'に落ち着くかB'に落ち着くかは、実は微妙な好みかほとんど偶然によるものであって、どちらかに一方に落ち着いあとの成り行きで一方だけが進歩していくことも多いのではないかと思います。

 ご紹介の西洋と日本の歴史を見ると、むしろ技術的制約が先にあって、江戸の出版物でテキストと同居の挿絵が多いのも、続け字云々も木版の利点があとで生かされた、とみるほうが良いように思います。

 以上、話半分にお取りいただければ幸いです。

_ 玉青 ― 2013年05月20日 21時36分49秒

いやあ、私はてっきりS.Uさんが印刷技術の歴史を熟知されたうえで、あのような痛い質問をされたものとばかり思ったので、大いに呻吟しながらお返事を書きました。(笑)

まあ、いずれにしても、例のご質問は、技術史上たいへん興味深い問いであることは間違いないと思います。(鉄器を受容しながら、その後青銅器に戻ったようなものですから。偶然説も捨てがたいですが、やっぱりそれは歴史の必然だったと考えて、ついつい理由を探したくなります。)

_ S.U ― 2013年05月21日 06時08分02秒

いやはや面目次第もございません。
 私の質問・疑問・ボヤキの節は、いずれも素朴な素人考えから来るものとお受け取り下さいますようお願いいたします。ましてや、答えを知りつつ相手を試すような意地の悪い質問を発するようなことは決していたしませんので、どうかご安心を願います。

 私の経験によりますと、素人質問は、概して2分8分くらいの比率で玉石混淆になっておるようです。私の質問もその程度の比になっておれば幸いです。

>歴史の必然だったと考えて、ついつい理由を探したく
 たいていの場合は隠された理由があるのでしょうし、分析を旨とする科学としてはそれが正しい態度でしょうから、それでいいんでしょうね。
 要は、それらしい答えが見つかってもそれが主要な要因とは限らない、歴史も時に偶然に支配されるのはやむをえない、ということではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年05月21日 20時57分17秒

玉をも欺くS.Uさんのご質問は知らず、私の答はおよそ知ったかぶりと、やっつけ仕事と、はったりの合成物ですから、どうぞそのようにお受け取り下さい。(それと、痛みにはごく弱いので、あまり痛くないように、そっとお願いします・笑)

_ S.U ― 2013年05月22日 05時31分12秒

はい。こちらも気をつけたいと思いますが、たいていの場合は、素人の無知で不躾な質問として今後ともご寛恕下さいませ。

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