小さな活版所(2)2013年06月16日 10時00分45秒

「土星堂活版舎」は、言ってみれば、天文古玩堂出版部という位置づけになるので、活字や土星スタンプ以外にも、理科趣味・賢治趣味・足穂趣味を感じさせるメタルスタンプ類をいろいろ揃えて、それらしい雰囲気を出そうと思いました。

解剖図、顕微鏡、蛇腹カメラ、


ステゴサウルス、


蒸気機関車、シダの葉、

そして、天球儀。



こうして並ぶと、何となくそれっぽい。

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小さな活版所としては、これぐらいで十分でしょう。
が、実は土星堂の設備投資はまだまだ続くのです。
といって、こういう↓素敵な古い手押し式印刷機を買ったわけではありません。

(eBayで売られていた、手摺りの印刷道具一式)

もちろん置くスペースがあれば(そして資金が許せば)、ぜひこんなのが1つ欲しいですが、土星堂は純粋にイメージだけの活版所ですから、ここまでやっては完全にやりすぎです(名刺の隅にギュッと活字を捺すぐらいはするかもしれませんが、実際に印刷をする予定はありませんから)。

しかし、もうちょっと手前のところで、何か気分を盛り上げるモノがないか…と探したら、ちょうどいい品が見つかりました。

(この項つづく)

小さな活版所(1)2013年06月15日 17時24分58秒

さて、そろそろリハビリを終えて、普通に記事を書こうと思います。

記事がストップする前のことを思い出すと、「銀河鉄道の夜」の活版所の話題を書いていたので、まずはその続きから。
先月は一貫して、古い絵葉書に、昔の活版所のたたずまいを求めましたが、今度は活版そのものについて、そのモノとしての魅力を探ることにします。

   ★

私は活版のことは何も知りませんが、活字の形は大好きです。
で、突然ですが、私も小さな活版所を立ち上げることにしました。
もちろんガチャンガチャンと派手に輪転機を回すというわけにはいきません。



それでも、平仮名やらアルファベットやら、鉛活字をスタンプ代わりに1文字ずつ捺していけば、理論的にはどんな作品でも(聖書まるごと1冊だって)、自分の手で印刷することができるはずです。


「小さな活版所」とはいえ、なかなか活字の種類も充実していて、「明朝体」、「宋朝体」、「教科書体」と各種の字体が揃っています。
ただし、今のところあるのは「銀河鉄道の夜」の6文字だけですが…。


活字ケース代わりに使っているのは、古い文選箱です。
ジョバンニが手にした「小さな平たい函」がこれで、たくさんの活字の中から、当面必要な字だけを拾ってこの箱に並べ、組版作業の職人に引き継ぐわけです。


 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子テーブルに座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
 「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込こむと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。  (「二、活版所」 より)


片手で持って作業できるよう、幅は約9センチ、長さは16.5センチの、ごく小ぶりな、浅い木箱です(岩波新書より一回り小さいサイズ)。小さな活版所には、ちょうどお似合いでしょう。

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この活版所の名前も、もう考えてあって、正式名称を「土星堂活版舎」といいます。
それに合わせて、会社のロゴマークを特注で作ってもらおうかとも思いましたが、土星のメタルスタンプを見つけたので、当面はこれを社印がわりに押すことにします。



(土星堂活版舎の紹介はさらにつづきます。
なお、小さな活版所の立ち上げに当たって、文選箱や活字選びに関しては、きらら舎のSAYAさんにいろいろお骨折りをいただきました。どうもありがとうございました。)

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(7)2013年05月26日 06時38分02秒

最初のほうに登場したモンリジョン印刷所にも、少年工がたたずんでいましたが、次に「少年のいる印刷所風景」をいくつか見てみます。

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まず、非常に気になるのが下の写真。
 

海を越えたアメリカの光景で、時代は20世紀初頭。「印刷所で働く印刷工と見習い植字工」と題して売られていたものですが、この少年と青年は、インクまみれの職場に不似合いな、ひじょうに小奇麗なナリをしています。
「ん?ひょっとして、これはハイスクールの印刷室か何かかも?」と最初は思いましたが、下の絵葉書を見るに及んで、やっぱりこれは印刷所かと思い直しました。
 
(1908年の消印を持つ古絵葉書)

こちらは、ニューヨーク州ミドルタウンの印刷所で働く2人の少年を写したもの。ベストにネクタイをキリリと締めた、これまた伊達な姿です。
どうも、大西洋の東と西では、印刷工の社会的地位が異なったような気がします。

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舞台は再びフランスに。
もちろん、探せばフランスの印刷現場にも、上のような少年はいたかもしれませんが、でも、その一方で非常に辛い現実もありました。

(*1910年頃。Imprimerie/Ecole Professionnelle d’Auteuil のキャプションあり。)

印刷工を目指して、職業学校で印刷術を学ぶ少年たちを写した絵葉書です。みな、とても真剣な表情ですが、彼らは実はある種の影を背負っています。というのは、この「オートゥイユ職業学校」というのは、フランスの孤児育英団体が運営する学校で、彼らはみな親のない子供たちだからです。
 

上も同じ団体が経営する孤児院の一室。やはり印刷術の実習風景です。こちらは1950年代の絵葉書なので、時代を考えると、少年たちは戦災孤児なのかもしれません。

下はこの絵葉書とほぼ同じ時期、この孤児院で2年間過ごした人の思い出がつまったサイト。

ANCIEN DE L'ORPHELINAT SAINT-MICHEL-EN-PRIZIAC
  près de LANGONNET dans le MORBIHAN

 http://www.ancien-de-saint-michel-en-priziac.fr/index.html

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ジョバンニは孤児ではありません。両親も姉もいます。しかし、父親は異国に行ったまま行方不明。監獄に入っているという噂もあります。母は病気でふせっており、姉も生活を助けるために働いているのか、不在がちのようです。友達とも疎遠になり、いまは本当に一人ぽっちの、寂しい、不安な心を抱えた少年です。

活版所でひたむきに働くジョバンニの姿を思うと、フランスの孤児たちの横顔が、そこに重なって感じられます。

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(6)2013年05月25日 06時33分58秒

世の中は広いもので、小さい活版所の絵葉書も、探したらチラホラありました。
 たとえば下の絵葉書。

(*1910年頃)

壁際にマリア像が見えますが、キャプションには「LA GRANDE TRAPPE / PRES MORTAGNE / IMPRIMERIE」とあって、どうやら仏・モルターニュ近郊に立つ「トラップ(トラピスト)修道院」内の印刷工房を写したもののようです。

そういう特殊な場所なので、規模も小さく、設備も作業手順も素朴で、いっそ前代の印刷所の様子を彷彿とさせます。

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変わっているという点では、下の写真(これは絵葉書ではなく写真です)もちょっと変わっています。
 
(*1920~30年代?)

これまでフランスの絵葉書ばかり取り上げてきましたが、こちらは一転してブルガリア。「VUZDURZHATELI」(禁酒主義者、の意)という名称の印刷所ですが、写っている男女の表情が、妙にインテリ臭い。ひょっとしたら、政治的な印刷物を手掛けた(半)非合法組織なのかも…。これはこれで、時代の空気を強く感じさせる一枚です。

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さて、ふたたびフランスに戻って首都パリへ。
 

キャプションには「Une des salles de l'Imprimerie(印刷所の一室)」とだけあって、具体的な場所は不明。文字通り「名もなき印刷屋さん」の内部です。裏返せば、これこそ、20世紀初頭の平均的な活版所の姿なのかもしれません。
(「一室」ということは、隣接して活字ケースの並んだ部屋や、大型の印刷機械の置かれた部屋があったのでしょう。)

純粋に個人的な印象ですが、「銀河鉄道の夜」を映像化するなら、こんな雰囲気がふさわしいように思います。大通りに沿って、時計屋やパン屋と並んで立っている活版所なら、いくら“大きい”と言っても、限界があるでしょうし、少なくとも大工場のような風情は、ちょっと違う気がします。

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ジョバンニが働く活版所のイメージが徐々に見えてきたところで、次回はジョバンニ自身の姿を追って、「少年のいる印刷所風景」を見にいきます。

(この項つづく。絵葉書に探る活版所の世界は、次回で完結の予定)

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(5)2013年05月24日 05時45分32秒

「活版所(4)」に登場した印刷所は、さすがに大きい気がしたので、もうちょっと小ぶりの印刷所を…と思い、前回の記事でもそう書きました。が、手元の画像を見ると、結構大きめのものが多いです。「工業化の進展とともに、印刷所も資本集約型の様相を帯びるに至ったか…」と、最初は思いました。でもよく考えたら、わざわざ絵葉書にするぐらいのところは、大きくて当たり前です。

ジョバンニのバイト先は「大きな活版処」だから、大きくてもいいのですが、同じ「大きい」のでも程度があるし、やっぱり数として多かったのは、あえて絵葉書に写らないような、小規模な印刷所だったろうと想像します。

したがって、以下の画像が、ジョバンニの活版所を考える上で、どの程度参考になるかは分からないのですが、重厚な機械の表情が面白いし、少なくとも当時の印刷技術の一側面を伝える参考資料として貼っておきます。(いずれもネットオークションからの借用画像で、少し画像をいじってあります。)

 
(*「Echo du Nord」紙の、植字・組版作業。1910年前後)
 

(*同じく「Echo du Nord」紙の、印刷工程。1900年頃)

 
(*1925年の消印がある絵葉書。仏エルブフにあるAllain 社の光景。当時は印刷事業以外に文具・事務用品の卸などもやっていた会社らしい。)


 
(*1908年の消印有。パリで発行されていた日刊紙「LE PETIT JOURNAL」の印刷部門の光景)

 
(*1920~30年代。仏ヴェルダンにあった出版社、H. Fremont et filsの絵葉書)

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ジョバンニの姿を求めて、「活字や印刷機のある光景」をもうちょっと探ってみます。

(この項さらに続く)

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(4のおまけ)2013年05月22日 05時57分52秒

昨日の絵葉書の拡大画像を、あらためて見たら、大人にまじって少年植字工がいるのに気が付きました。これぞジョバンニか…?

(本来の「つづき」はまた次回)

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(4)2013年05月21日 20時36分50秒

さて、この後は当時の印刷所の様子を、絵葉書で見ていこうと思います。
なお、以下「*」の付いた画像は、手元にオリジナルがなくて、ネットで見つけた画像です。本来なら出典を明記すべきですが、オークションサイトから引っ張ってきた、うたかたのような画像なので、特に出典は示しません。

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「銀河鉄道の夜」によれば、ジョバンニの活版所は相当大きいようなので、まずは思いっきり大きい例です。
 
(Imprimerie de Montligeon, 1910年前後)

フランスのノルマンディー地方オルヌ県、ラ・シャペル=モンリジョンという町で創業したモンリジョン印刷所の全容。さらにその奥に見える尖塔のある建物は、ノートル=ダム・ドゥ・モンリジョン大聖堂で、この大聖堂と印刷所はともに、町の発展を願うビュゲ神父という人が19世紀の末に建てたものです。

何だか大きすぎて、ジョバンニの住む町にはありそうもない風情ですが、意外にそうでもありません。というのは、ラ・シャペル=モンリジョンは、もともとごくちっぽけなコミューンに過ぎず、寂れてゆく町の先行きを案じたビュゲ神父が、世界中から寄付金を集めて大聖堂を建立したおかげで、ようやく町はにぎわいと経済力を取り戻したという話。(ちなみに、モンリジョン印刷所は、現在別の場所に移転して盛業中です。)

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続いて、モンリジョン印刷所の内部を見てみます。
 

↑は活字を拾って版を組む植字工たち。1925年の消印のある絵葉書です。
 
(*)

こちらも同じ部屋でしょうか。
欧文の印刷は、アルファベットと数字、その他の記号のみで用が足りるので、版を組む際も、直接活字ケースから字を拾えばよく、植字工はめいめいの活字ケースを前に黙々と作業を進めています。

前回の記事の末尾でチラッと書いたように、日本ではこの前に「文選」という作業工程が入ります。以下はてっとり早くウィキペディアから関連記述のコピペ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E9%81%B8_(%E5%87%BA%E7%89%88)


「文選(ぶんせん)とは、活版の工程の一つで、原稿に従って活字棚から活字を順に拾い、文選箱に納めること。採字とも。

欧文組版では活字の種類が少ないので活字ケースから活字を取り上げながら植字(ちょくじ、しょくじ)することが可能であり、これを拾い組みとよぶ。しかし、日本語(和文)や中国語の組版での拾い組みは著しく効率が悪いうえ、活字を拾うこと自体に専門的能力が要求されるため、文選と植字を別工程とした。文選工は活字を拾うことに専念し、植字工は活字を並べて約物を挟むことに専念する。

和文の組版環境において、熟練した文選工は、同じく熟練した植字工が組版を整える約1/2のスピードで文字を拾っていく。このため、植字工1名と文選工2名の組み合わせで、遅延なく工程を進行させることができる。 半分というと遅いように聞こえるが、膨大な数の和文活字を、約物やインテルを挟んで整形していく(だけの)作業の半分の時間で進めていくことができるというのは、各活字が活字棚のどこにあるかを身体で覚えている必要があるため、生半可なことではない。

欧文活字の拾い組みでは、大文字は植字台の上部に立てかけられていたケースに、小文字は植字台の下部のケースに収められていた。英語で大文字小文字の区別をケース(case)と呼び、さらに大文字のことをupper case、小文字のことをlower caseと呼ぶのはここから来ている。

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」で、主人公ジョバンニが文選のアルバイトをしている姿を描いている。この場面では活字をピンセットで拾っているが、活字合金は鉛を主体とした軟らかいものであるため金属製の器具で扱うと傷を付けるおそれがあるため、少なくとも日本では、多くのところでは素手で扱っていたという。」
 

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つづいて「たくさんの輪転器がばたりばたりとまわ」っている、印刷室の様子です(1910年頃)。

(*)

以前ご紹介した、二コラ・コンタ(著)『18世紀印刷職人物語』によれば、同じ印刷所の内部でも、印刷工と植字工は気風が違って、互いに反目していたそうです(植字工は、自分たちの仕事の方が上等だと考えていたとか)。1つ上の絵葉書の、ネクタイを締めた植字工たちの様子を見ると、20世紀初頭でも、そういうのは残ってたんじゃないかなあ…という気がします。

(この項つづく。次回はもうちょっと小ぶりの印刷所を見に行きます。)

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(3)2013年05月19日 15時17分49秒

幼いジョバンニが、一家の生活費の足しにとバイトしていた活版所。
それを何とか目に見える形にできないか?というのが、今回の連載の目標です。

(「ぎ」「ん」「が」)

まずは原文から。

「〔…〕 家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

 ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

 六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

 ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。」         

                                     (「二、活版所」 より)


私はこれまで漠然と、「町の印刷屋さん」を想像していました。しかし、改めて本文を読むと、そこは、「たくさんの輪転器」が回り、職人たちが「たくさん働いて居」る、「大きな活版処」だと書かれています。とすると、これは個人営業の小店舗などではなくて、相当大きな会社組織の印刷所のように思えます。

ジョバンニたちが暮らすのは、子どもの足でもすぐ町外れまで出て、そこから先は丘やら林やら広がっているような田舎町です。それでも通りにはネオンが輝き、大きな活版所が盛んに輪転機を回しているくらいですから、大都会とは言えないまでも、「地方の小都市」くらいの規模はあるのでしょう。

   ★

ここから先、ジョバンニが働く活版所を考究するアプローチはいろいろありえます。

1つは「モデルアプローチ」。
つまり、賢治が創作の際に思い浮かべたモデル地(=実在の場所)を探るという方向性です。今の場合だと、たとえば賢治の故郷・花巻を作品の舞台に比定し、彼が『春と修羅』の印刷を頼んだ活版所こそ、ジョバンニの活版所のモデルだとする説などがそうです。

(『春と修羅』奥付。印刷者として花巻の吉田忠太郎の名が見える。)

これについては、花巻商工会議所が開設し、米地文夫氏が案内人を務めるサイト、「賢治・星めぐりの街」(http://www.harnamukiya.com/index.html)に詳細が記されています(以下のページを参照)。

■(24)「銀河鉄道の夜」と活版所跡
 http://www.harnamukiya.com/guidebook/page24.html

(おまけ。『春と修羅』の掉尾を飾る作品、「冬と銀河ステーション」)

   ★

もう1つは「創作アプローチ」です。

「銀河鉄道の夜」の文章そのものに基づき、そのフィクショナルな世界を、想像を交えて再構成するという方向性です。まあ、これはアプローチというより、作品を読みながら、読者がみな脳の中で自然に行っていることですから、読者の数だけ答があって良く、特に正解があるわけではありません。
しかし、さらに進んで、それを絵や映像で表現するとなれば、より多くの読者を納得させる造形なり、ディテールなりが、自ずと決まってくると思います。

そのためには、時代や場所等、作品世界に関する考証が必要不可欠。
「銀河鉄道の夜」の舞台として、賢治は漠然と「南欧あたり」(具体的にはイタリアか)を想定しましたが、いかにハイカラ好みの賢治とはいえ、彼が実際に参照しえた南欧の風景や文物は非常に限られていたはずで、むしろ「かくやあらん」という「空想の南欧」だからこそ、現実の南欧よりもいっそう美しく、夢幻的なストーリーをそこに描くことができたのでしょう。

   ★

これら2つのアプローチのうち、文学史的に興味深いのは前者でしょうが、ジョバンニが見た世界を考えるには、当然後者のアプローチに拠らねばなりません。
とはいえ、モデルアプローチの成果は、創作アプローチの考証材料ともなりますし、創作アプローチで解釈しがたい点は、モデルアプローチに拠らざるを得ない部分もあるでしょう(※)。つまり、両者は相互排他的なものではなく、結局、「モデルはモデル、作品は作品」ですから、2つのアプローチは、基本的に別次元の事柄を扱っているのだと思います。

   ★

さて、くだくだしい前置きが続きましたが、1900年前後のヨーロッパにおける、実際の活版印刷の現場を見に行きます。それらのイメージを重ね合わせた先に、ジョバンニの活版所も浮かび上がってくるものと予想します。

(この項つづく)


(※) たとえば、ジョバンニが靴をぬいで店に上がったり、一枚の紙切れを手掛かりに、小さな平たい函活字を次から次と拾うという作業描写。
 前者はもちろん日本家屋をイメージして書いたのでしょうし、後者の作業工程(文選、ぶんせん)は、欧米の印刷所にはないものですから、これも賢治が身近な印刷所で見聞したことを、作品に生かしたのだと推測できます(さすがの賢治も、欧米の印刷所の具体像を描くだけの知識は持たなかったのでしょう)。

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所(2)2013年05月18日 11時24分35秒

さて、「銀河鉄道の夜」に関連して活版所を見に行きます。

これを「ジョバンニが見た世界」の‘番外編’とするわけは、本編である「午後の授業」や「時計屋の店先」のシーンは、ジョバンニがピュアな憧れの目を向けた世界であるのに対し、「活版所」の方はそうではないからです。(本当なら、そこに子供らしい好奇心を向けてもよいのですが、何せ生活のかかった苦役の場でしたから。)

   ★

連載の開始にあたり、「天文古玩的・活字趣味」について、少し思うところを記します。
そもそも「活字趣味」という語があるのかどうか、それからして不明ですが、実際そうとしか呼びようのない趣味を有する人がいます。すなわち、刷られた印刷物ではなくて、刷るための技術や道具に興味を持つ人たちです。
 

この活字趣味と、理科趣味やヴンダー趣味は、何となくかぶる部分があります。
つい最近まで、印刷というのは、知識を伝達する最前線の仕事であり、技術でした。
それは絶えざる機械技術の発展に裏打ちされており、特に19世紀以降の鋳鉄製の黒々とした活版印刷機には、スチームパンク的「科學」の匂いが強く感じられます。

(印刷所を描いた版画、ミラノ、1885年)

印刷技術は、科学と産業の「親」であり、「子」でもあったわけですが、同時にどこか秘法めいた感じも伴います。鉛やアンチモンを溶かして活字を鋳込む作業は、ちょっと錬金術めいているし、その職工たちの間には、長い歴史の中で培われたギルドの伝統が、かなり最近まで残っていたはずです。時と所によっては、入職にあたってフリーメーソン的な儀式があったかもしれません。

   ★

…というようなことを考えていたら、最近、次のような本を目にしました。そこには、革命前(原著が出たのは1762年)のパリの印刷職人の暮らしが生き生きと描かれています。


二コラ・コンタ(著)、宮下志朗(訳)
 『18世紀印刷職人物語』、水声社、2013

当時、「礼拝堂(シャペル)」等の名で呼ばれた印刷職工の組合は、まさにギルドそのもので、独自の加入儀礼、相互扶助システム、きびしい罰則規定を有していました。

たとえば加入儀礼について言うと、そのころの新入り徒弟には、「礼拝堂」の正式メンバーとなるための「エプロン授与式」が待っていました。
儀式のスタートは月曜日の午後4時。場所は町場のしかるべき居酒屋。その一室に先輩職人が居並び、職工長がおごそかに演説をしたあと、手ずから新入りに真新しいエプロン(印刷職人の作業服)を着せてやる…これがエプロン授与式です。一同の喝采と乾杯につづき、あとは飲めや歌えの大騒ぎ。こうして新人は正式メンバーとして認められ、残りの徒弟期間を無事勤め上げれば、「職人」として一本立ちし、「旦那(ムッシュー)」と呼ばれる資格を得ることができたのです(そして、このときも職人への昇格儀礼がありました)。

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ちょっと話が脇にそれました。
活字趣味と理科趣味の微妙な絡み具合は、理科趣味アイテムのお店「きらら舎」さん(http://kirara-sha.com/)に「活版印刷室」のカテゴリーがあることにも感じ取れます。
同店オーナーのSAYAさんには、今回の連載と同時並行で進めている「小さな活版所づくり」にもご協力をいただきましたが、そんな話も今後の記事の流れの中でできると思います。

(この項つづく)

ジョバンニが見た世界(番外編)…活版所2013年05月16日 22時05分27秒

現在、朝日新聞の夕刊で、紙の本をテーマにした「本をたどって」という連載が続いています。昨日の第7回は、「活字は忍び、でっぱる」と題して、活版の話題を取り上げていました。


記事の冒頭、『銀河鉄道の夜』が引用されており、「うーむ、これは」と思いました。
何が「うーむ、これは」かと言えば、半年前から銀鉄の活版所について記事を書くと言いながら手を付けていなかったのが、こんな記事を見せられては、いよいよ年貢の納め時か…と思ったのでした。

何が年貢なのか、何が納め時なのか、さっぱりわからない話ではありますが、活版についてあまりにも無知だし、それが理科趣味とどう結びつくのかもはっきりしないので、書くのをためらう気持ちがあったのは事実です。

でも、これも1つのきっかけには違いないので、思い切って書き始めることにします。

(この項つづく)