『科学のフェアリーランド』 (2)2007年10月02日 23時16分13秒

(第5講の扉絵。巨大な鍾乳洞の奇観。黒々とした木口木版画が19世紀のムード)

前書きによると、この本は以前子供向けの講演会で行った連続講義を下敷きにしており、参加した子どもたちの声に背中を押されて出版に踏み切った、と書かれています。

内容は以下の全10講から成ります。

第1講 科学のフェアリーランド―この国への入り方、活用法、そして楽しみ方
第2講 太陽の光とその働き
第3講 私たちの住む大気の海
第4講 旅する1滴の水
第5講 二人の大彫刻家―水と氷
第6講 自然の声。私たちは如何にしてそれを聞くのか
第7講 桜草の生活
第8講 ひとかけらの珊瑚が秘めた歴史
第9講 巣の中の蜜蜂
第10講 蜜蜂と花

内容は物理、気象、地質、植物、昆虫等、多岐にわたりますが、身近な現象の背後に横たわる、目に見えぬ原理(すなわち「科学の妖精」)を説くという姿勢で貫かれています。なお、題目に天文に関係するものがありませんが、それは同じ著者による姉妹書(『魔法の鏡を通して』)で扱われています。

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科学のフェアリーランドには、どうやったら入れるのでしょう?

その方法は1つしかありません。おとぎ話に出てくる騎士や農夫のように、両目をしっかり開けてごらんなさい。目指すものは常にあります。想像力という妖精の杖で触れれば、あなたの周りのすべての物が、何かを語りかけてくれるでしょう。

他の子どもたちが元気に遊びまわっているというのに、道路の脇に連れ出され、仰向けに寝かされている病弱な子どもを見ると、私はよくこんなことを思います。自宅や病院で暮らす病気の子どもたちでも、自分の周りにある事物に秘められた物語を語って聞かされたなら、どれほど多くの喜びに包まれるだろうかと。

子どもたちはベッドから出る必要すらないのです。日光はいながらにしてその上に降り注ぎますし、日光はひと月かそこらでは語り尽くせぬほど多くの物語を秘めているのですから。暖炉の炎、ベッド脇のランプ、コップの水、天井の蝿、卓上に生けた花、どんなものでも、あらゆるものが、独自の物語を持っており、自然界に住む目に見えない妖精の姿を教えてくれるのです。(第1章より)

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書名には、こんな意味がこめられています。
上の文章の後段には哀切なトーンがありますが、何か作者の実体験が反映しているのかもしれません。

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以下脱線。
米村でんじろう先生は確かに才能豊かな方だと思いますが、亜流の方による安易な科学手品ブームが、「科学する心」の涵養につながるとは、私にはどうしても思えません(手品のネタを考える側の能力は確かに涵養しているでしょうが)。

探求心は、当たり前のことを不思議がる力に根ざし、それは豊かな想像力を前提としている…などと、門外漢の私が力みかえる必要はないんですが、どうもそんな気がします。

妖怪博士・井上円了は、「当たり前のことが当たり前であること、これぞ最大の不可思議」として、それを妖怪以上の怪、「真怪」と名づけたそうです。話の脱線ついでにそんなことも思いました。