タルホ氏、月ロケットを前に手をこまねく2012年09月01日 12時09分55秒

昨日はTVの「高校生クイズ」を見ていて、記事が書けませんでした。
それにしても、あそこに出てくる高校生はものすごい知識量ですね。論語も読み下していたし、計算を解くのも実に速かったです。本当に唖然としました。

   ★

高校生クイズにかじりつく前、家路をたどりながら、まあるい大きな月が家並みの上に浮かんでいるのを眺めていました。今日の月齢は14.5ですから、天気さえ良ければ、昨日よりも一層丸い月が眺められることでしょう。

で、月といえば、2010年11月19日(この日付自体には何の意味もありませんが)の「天文古玩」のコメント欄で、月をテーマに長い長いやりとりがありました。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/11/19/5521069#c5524732

例によって、常連コメンテーターであるS.U氏との間で交わされたものですが、内容は足穂と月ロケットの関係、すなわち「宇宙偏愛者・稲垣足穂氏は、現実のアポロ計画をどう評価していたのか?」というテーマに関するものです。

宇宙開発技術に一定の評価を与えつつも、足穂氏はアポロ計画そのものに対しては、どうも悪しざまに言いがちです。でも、稲垣足穂その人と「タルホ的なるもの」は違うし、後者は足穂氏当人の意見を超えて、やっぱりタルホ的たることを止めないのではないか、その辺の区別をしないと、話が混乱するのではないか…というような議論を当時したのですが、ふと、このやり取りを思い出したのは、一昨日の朝日新聞で、以下の記事を目にしたからです。

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「窓 編集委員室から: 作家たちのアポロ11」

 人類初の月体験をしたアポロ11号船長ニール・アームストロングさんの死去で、1969年7月21日の興奮がまた一歩遠のいた。

 船長の左足が月の大地を踏んだのは、日本時間で21日正午前。この日の朝日新聞夕刊は、アポロ11号の話題でほぼ埋め尽くされた。紙面を読んで興味深いのは、作家たちがこの「快挙」をどうとらえたかだ。

 野坂昭如さんはテレビを見て「人間が実に無感動に写ったが、それが人間がコンピューターの一部になってしまったようで、イヤな気がした」。飛行機好きだった稲垣足穂さんも「最近の〝技術的発狂状態″が、人間らしい想像力と思考力によってコントロールされることを望む」。祝勝感一色の中でも、科学技術への警戒を忘れていない。

 医学部出身の安部公房さんは、違う角度からみる。科学者との対談で「非常に手が届きにくいだけに神秘的な概念を人間に許す根拠になっていた天体に、人間が立つということで、月がいやでも物質化されてしまう。精神史の上で、この影響は決して無視できない」。かぐや姫のような説話世界が現実世界に変わったことに意義を見いだしている。

 アポロ11号の船長の一歩は、科学技術の功罪をみんなで考える一歩でもあった。我々はその歩みを重ねてきたと言えるだろうか。 <尾関 章>
                                   (朝日新聞 2012.8.30 夕刊)
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足穂氏は、新聞紙面でもアポロに毒づいていたようです。
「ヰタ・マキニカリス」を口にし、マシーンに入れ上げた足穂氏が、単純に「機械 vs.人間性」のような図式で物を言ったとは思えませんが(言葉が上滑り気味なのは、記者氏のまとめ方がまずいせいかもしれません)、月ロケットが潜在的に「タルホ的」でありながら、やっぱり生身の足穂氏は、そこに郷愁を託すことができなかったのは事実のようです。

足穂氏もやはり時代の子であった…ということかもしれませんし、実は足穂氏自身、自己の内部に生じた複雑な亀裂にいちばん戸惑っていたかもしれません。

あの真ん丸の月に人間がひょいと飛び乗って、地球に向かって手を振った…なんていうのは、そう悪いイメージではないんですけれどね。。。

コメント

_ S.U ― 2012年09月01日 17時16分13秒

 おぉ、そんな新聞記事がありましたか。見逃しておりました。ありがとうございました。廃品回収入れから今取り出して見ました。

 足穂とアポロ月飛行の両方の信者である私にとっては、これは依然として避けて通りたい問題ですが、もうずいぶん首をつっこんでしまいましたね。

 この新聞取材を見ても、足穂先生は腰が引けていて言いたいことの万分の一も書いてもらっていないように思います。記者のせいではなく、まともな受け答えができなかったのではないでしょうか。でも、素直に読むことも可能で、足穂の脳裏にあったのは、人間が機体の一部となって傾いたり捻ったりして継続的な飛行をコントロールする初期のの飛行機だったのだと思います。アポロは部品が多すぎましたし、制御卓に座っている人間も多すぎました。

 加えて、ご指摘のように足穂は間違いなく「時代の子」でした。出典は指摘できませんが(見つけられたらお教え下さい)、初期の飛行機や飛行家を「時代精神」に類する言葉で讃えていますし、1913年の武石浩玻の墜落事故死に関わることは「...総ては予定されていたのだ。」(「ライト兄弟に始まる」第4章)と書いています。少年タルホにとっての運命的出会いであったことは否定できないのでしょう。あぁ来年で100年ですね。

 さらに、足穂が天体たる月に人間が足を降ろすことにどういう考えを持っていたかも議論しましたが、これは今回の新聞ではふれられていないようですし、前回のやり取りをいま乗り越えることはできませんので、また次のサイクルにしたいと思います。

_ ねこぱんち ― 2012年09月01日 18時26分26秒

私見ですがタルホにとっては現実に月面着陸するという事はある意味『無粋』な事に見えたのかもしれませんね。タルホが追い求めていたのは「模型」としての機械であって実用的なものは軽蔑に値すると考えていたのだと思います。ただそれっきりの存在であって何かのために酷使されないもの。つまりオブジェとしての存在。あらゆる役割から解放されて自由という存在の強度を獲得したもの。ヒコーキ、天体、少年、妖怪、機械、ナンセンス・・・。タルホが追い求めていたのはそういったものだと思います。
かくいうわたしも現在のテクノロジー製品よりもアナクロな物品に愛着を覚えます。タイプライター、懐中時計、パンチカード、蒸気機関車。功利という枷が時代の波によって外されたこれらはオブジェとして大変魅力的です。

_ 玉青 ― 2012年09月02日 17時39分21秒

○S.Uさま

この話題、2年ぶりに蔵から出してみましたが、熟成の進み具合は今一つでしたので、もう少し寝かせてみましょう。
ただ、アポロそのものは、世間的にどんどん熟成が進んでいるようですね。いまやアポロ経験のない人の方が、世界人口でいうと多数派だと思いますが、われわれ「アポロ・チルドレン」も、我が身の熟成具合を省みて、いやはやどうも…(笑)

○ねこぱんちさま

タルホが愛したのは対象の「オブジェ性」であり、月もロケットもまた然り…というのは、深くうなずける説です。そううかがってみると、いろいろ納得できる点が多々あります。
「功利という枷」が取り払われた、なんとなくぽつねんと在るもの、そういうものが彼の(そして読者の)琴線に触れたのでしょう。
彼が唯一「功利」を認め、かつ愛したものがあるとすれば、グラスを満たす琥珀色の液体ぐらいかもしれませんねえ。(^J^)

_ S.U ― 2012年09月02日 20時11分17秒

えっ、もう2年も経つのですか。たいへん驚愕いたしました。2年くらいでは無理ですね...

 初期の飛行機は、当然いろいろな技術的、精神的要素を含んだモノだったのですが、それらが、足穂においてあまりに統一的にマッチして一つの論理に繫がってしまったために、後世の者がその全体を相対化することが難しくなってしまったのだと思います。必然でマッチしたのか偶然でマッチしたのか取り違えている危険性もあります。

 月飛行も、我々の世代にはある程度統一的にマッチしており、それは足穂の飛行機で絡み合っている要素とある程度共通しているのですが、足穂の論理から、それを再構成することは至難の業のように思います。晩年の足穂にも、この難問は解けなかったということなのかもしれません。結局は、我々が別個にアポロの論理を作り上げて足穂と比べるしかないのかもしれません。でも、共通点は、ちょうど半分くらいの気がします。そうすると作業はやっかいそうです。

 熟成がすぎると妙に変質してしまうかもしれませんが、やむを得ませんので、場所を取らせて申し訳ありませんが、もう少し寝かせておいて下さい。

_ 玉青 ― 2012年09月03日 22時09分45秒

ええ、そうしましょう。
私の部屋は、モノを置くスペースはなくても、ネタを置くスペースは豊富にありますから。(^J^)

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