峰雲照らす天の川 ― 2021年08月08日 09時25分03秒
残暑お見舞い申し上げます。
暦の上では秋とはいえ、なかなかどうして…みたいなことを毎年口にしますが、今年もその例に漏れず、酷暑が続いています。
さて、しばらくブログの更新が止まっていました。
それは直前の4月17日付の記事で書いたように、いろいろよんどころない事情があったせいですが、身辺に濃くただよっていた霧もようやく晴れました。止まない雨はないものです。そんなわけで、記事を少しずつ再開します。
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今日は気分を替えて、壁に掛かっている短冊を取り替えました。
草山に 峰雲照らす 天の川 亜浪
作者の臼田亜浪(うすだ あろう、1879-1951)は最初虚子門、後に袂を分かって独自の道を歩んだ人。
平明な読みぶりですが、とても鮮明な印象をもたらす句です。
まず眼前の草山、その上に浮かぶ入道雲、さらにその上を悠々と流れる天の川…。視線が地上から空へ、さらに宇宙へと伸びあがるにつれて、こちらの身体までもフワリと宙に浮くような感じがします。季語は「天の川」で秋。ただし「峰雲」は別に夏の季語ともなっており、昼間は夏の盛り、日が暮れると秋を感じる、ちょうど今時分の季節を詠んだものでしょう。
個人的には、この句を読んで「銀河鉄道の夜」の以下のシーンも思い浮かべました。
そのまっ黒な、松や楢の林を越こえると、俄にがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘(わた)っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫だしたというように咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。
ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。 (第五章 天気輪の柱)
ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。 (第五章 天気輪の柱)
ジョバンニが、親友カムパネルラと心の隙間を感じて、ひとり町はずれの丘に上り、空を見上げる場面です。そのときの彼の心象と、この亜浪の句を、私はつい重ねたくなります。そしてジョバンニの身と心は、このあと文字通りフワリと浮かんで、幻影の銀河鉄道に乗り込むことになります。
言の葉の森 ― 2021年08月13日 17時50分49秒
今日は雨。午後からはしばし豪雨。
近況です。せっかくブログを再開したのだから、もっとバンバン記事を書きたいのですが、なかなかそうはいかない理由があります。そのことを書きます。
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私の部屋の本棚には、読めない本がたくさん並んでいます。そこに書かれた言葉がさっぱり分からないからです。読めない本でも、手元に置くだけで心が豊かになることもあるので(日本語の本でもそういうことはあります)、これまではそれで良しとしていたのですが、一抹の寂しさや良心の呵責がなくもない…。というわけで、一念発起して語学の勉強を始めることにしました。
具体的にはドイツ語とラテン語です。
手にしたのは一番初歩の入門用テキストで、der、des、dem…とか、amo、amas、amat…とか、口をパクパクさせるところからやり始めました。でも、何せ若いころとは違って、一つ覚えると一つ忘れてしまうので、なかなか前途は険しいです。この調子だと天文古書を読めるようになるのは、いったい何時のことか…。正直、読めるようになる気がしませんけれど、努力するのとしないのとでは自分の中での納得感が大いに違いますから、結果はどうあれ、ささやかな自己満足のために、これはしばらく続けることにします。
ただ、語学の勉強は初歩でもそれなりに労力を要することで、ブログと両立するのはなかなか大変です。これが上で書いた「理由」です。まあ、いずれこの努力が天文古玩趣味に役立つことを夢見て、今日も口をパクパクさせることにします。
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こんなふうに恥を捨てて公言すると、自ずと勉強を続けないわけにはいきませんから、これもブログのひとつの効用でしょう。一種の起請文ですね。
確実な未来 ― 2021年08月14日 17時23分05秒
今日は天文とは関係ない、純然たる自分用メモです。
部屋の片づけをしていたら、本の下からヨレヨレになった紙切れが出てきました。
以前気になった新聞記事のコピーです。いつかきちんと読みたいと思ってとっておいたのですが、ついそのままになっていました。
権利関係でお叱りを受けるかもしれませんが、きわめて重要な記事なので、ここに全体を貼っておきます。
■記者解説 人口減 楽観の先の国難
朝日新聞2020年10月19日(筆者 編集委員・真鍋弘樹氏)
朝日新聞2020年10月19日(筆者 編集委員・真鍋弘樹氏)
このブログでも、人口構造の歪みと今後の日本のかじ取り如何?みたいなことを呟いた気がしますが、このことは繰り返し考えないと、本当に道を誤ると思います。
未来は不透明で不確実だといいますが、向こう100年ぐらいに関していえば、人口予測は気味の悪いほど当たります。裏返せば先が見えているのだから、先手を打つこともできるはずです(簡単に打てるとは言いませんが)。政治に期待するのはそのことです。
まあ、私にしたって別に人口至上主義を唱え、産めよ殖やせよと言いたいわけではないんですが、「こんなに不安まみれで、先の暗い世の中だったら、そら人口も増えんわな…」と素朴に思うし、多くの人も同様に感じているんじゃないでしょうか。
記事の最後に引用された、明治大学の金子特任教授の次の言葉にも、大いに頷かされます。 「社会の持続可能性を維持できないほどの低出生率は、いわば国民投票のようなものであり、今の国のあり方に対してノーと言っているのに近い」。
ともあれ、日本の(そして自分の)将来の姿を想像する際、下のグラフは実に示唆に富んでいます。
コペルニクスの肉声を求めて ― 2021年08月21日 09時36分13秒
新型コロナというのは、最初の頃は「ああ怖いねえ」と言いながら、テレビのニュースで見るものだったと思います。少なくとも私はそうでした。でも、その後「リング」の貞子みたいに、コロナはテレビの「向こう」から「こちら側」に這い出してきて、日々のささやかな営みも、不穏な存在によって絶えず脅かされています。
とはいえ、不安と恐怖に圧倒されるばかりでなく、一方で日常をしっかり守ることも大事ですから、記事を続けます。
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語学の勉強を細々と続けています。
前々回の記事の画像には、コペルニクスの『天球の回転について』が写っていますが、もちろんコペルニクスを原書で読もうとたくらんでいるわけではありません。でも章題とか目次とか、部分的にでも読めたら嬉しいし、ドイツ語の本だったら児童書ぐらいは読めたらいいなと思っています。
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コペルニクスの『天球の回転について』は大部な本で、全6巻から成ります(…といっても本の体裁が全6冊というわけではなくて、現代風にいえば、これは「第1部~第6部」に相当し、本としては全体が1冊の本です)。
(1927年に仏のHermann社が出した『天球の回転について』1543年初版の複製本)
その原典を全訳したのが、高橋健一氏による『完訳・天球回転論』(みすず書房、2017)で、これは非常な労作と拝察しますが、残念ながら現在品切れで、古書価も相当なことになっていますから、私の手元にはありません。
私の手元にあるのは、同氏がそれ以前に出された『コペルニクス・天球回転論』(同、1993)です。これは全6巻のうちの総説的な第1巻を訳出し、解説を付したものです。まあ白状すれば、私はこの抄録版すらちっとも目を通していないのですが、その「まえがき」には大いに心を打たれました。
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そこにはこうあります(太字による強調は引用者)。
コペルニクス研究に取り組み始めてから、かれこれ10年近くになる。本格的に取り組むようになったのは、九州大学教養部のゼミナールで『天球回転論』を読んだときからであった。学生はたった一人しかいなかった。この個人授業で、学生は日本語訳と英訳とを読み、私はラテン語原典に目を走らせていた。学生の熱心さがこちらにも乗り移り、時間を延長してゼミをするのが通例となった。こうしてテクストを精読するうちに、新しい日本語訳の必要性を痛感するようになった。
読んだ瞬間、うらやましい!と思いました。
何と濃密な時間がそこにはあったことでしょう。こういうことが最近の大学でもありうるのかは不明ですが、話に聞くオックスフォードやケンブリッジの「チューター制」を思わせる光景です。こういうのはコストカッターの手にかかると、真っ先に屠られてしまいますが、こういう環境からしか生まれない知的営為というのも確かにあるでしょう。現に高橋氏の訳業がこうしてあるわけで、またその薫陶を受けた有為な学生とは、現在早稲田で科学史を講じておられる加藤茂生氏です。
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にわかに表現しにくいですが、「こういう世界」に私は憧れます。
ひとりひとりの人間は、根無し草のように世界に漂っているのではなく、時代と国を超えて多くの人と結びついている…というのは、ある意味当然のことですが、そのことを本やモノを通じて実感したいというのが、これまで倦まず綴ってきたことです。
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コペルニクスの肉声が、かすかにでも聞き取れたら…と思いながら、今日もテキストを開きます。
おらがコペルニクス ― 2021年08月22日 11時08分58秒
ときに、昨日の写真撮影の小道具に使った絵葉書に目を向けてみます。
写っているのはもちろんコペルニクスです。
キャプションには「ニコラウス・コペルニクス 1543-1943 没後400年」とあって、これは同年(1943)発行された記念絵葉書です。そして上部には、同じ年に発行された記念切手が貼られ、彼の命日(5月24日)にちなんで、1943年5月24日の消印が押されています。こういう「葉書・切手・消印」の3点セットの記念グッズを、郵趣界隈では「マキシムカード」と呼ぶのだとか。
コペルニクスはポーランドの国民的英雄なので、その銅像は首都ワルシャワとか、トルンとか、あちこちにあるのですが、上の絵葉書は彼が学生生活を送ったクラクフの町にある銅像です。
(バルーンの位置がクラクフ)
背景は彼の母校、ヤギェウォ大学(クラクフ大学)のコレギウム・マイウスの中庭。ただし現在、像はそこにはなくて、戦後の1953年に、同大学のコレギウム・ウィトコフ正面にあるプランティー公園に移設されました(LINK)。
(現在のコレギウム・マイウス中庭。中央下の水盤?みたいな所に、かつて像が立っていました。ウィキペディアより)
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コペルニクスは後世に、もめ事の種を2つ残しました。
1つは言うまでもなく地動説です。これで世界中は大揉めに揉めました。
もう1つはコペルニクス自身のあずかり知らぬことで、揉めた範囲も局地的ですが、「コペルニクスはドイツ人かポーランド人か」という問題です。
上の絵葉書の消印を見て、その論争を思い出しました。
そこにははっきりと、「ドイツ人天文家(des Deutschen Astronomen)没後400年」と書かれています。消印の地は地元クラクフ(Krakau)なのに何故?…というのは愚問で、1943年当時、ここはドイツ軍の占領地域でした。しかも、ナチスのポーランド総督は、ここクラクフを拠点にして、領内に目を光らせていたのです(Krakauはクラクフのドイツ語表記です)。
ですから、ポーランドの人にしてみたら、このマキシムカードは忌むべき記憶に触れるものかもしれません。
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民族意識というのはなかなか厄介です。
日本語版ウィキペディアのコペルニクスの項(LINK)は、
「19世紀後半から第二次世界大戦までのナショナリズムの時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが、国民国家の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。」
とあっさり書いていますが、そう簡単に割り切れないものがあって、実際ドイツとポーランドのWikipediaを見ると、その書きぶりから、この問題が今でもセンシティブであることがうかがえます。
「ニコラウス・コペルニクス〔…〕はプロイセンのヴァルミア公国の聖堂参事会員であり天文学者」
「ニコラウス・コペルニク〔…〕ポーランドの碩学。弁護士、書記官、外交官、医師および下級カトリック司祭、教会法博士」
(※ポーランド語版はさらに、「この『ポーランド人天文家(Polish astronomer)』という語は、『大英百科事典』も『ケンブリッジ伝記大百科』も採用している」…という趣旨の注を付けていて、相当こだわりを見せています。)
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広大な宇宙を相手に、普遍的真理を求める天文学にとって、こういうのは些事といえば些事です。でも人間は一面では卑小な存在なので、なかなかこういうのを超克しがたいです。むしろそういう卑小な存在でありながら、ここまで歩んできたことを褒めるべきかもしれません。
ガラスの星空 ― 2021年08月25日 07時16分24秒
昼はツクツクボウシの声を聞き、夜はコオロギの声を聞く。
暦はすでに秋を迎え、実感としても秋近しですね。これでコロナが収束してくれれば、言うことはないのですが、こちらの方はとてもそんな長閑な話ではなさそうです。
とはいえ、気分だけでもちょっと涼しげな品を載せます。
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14cm×15cmという、わずかに横長の箱。
パカッとふたを開けると、
中にこういうものが入っています。
そこに書かれた文字は、「COELUX Das kleine Schulplanetarium」――「コールクス 小さな学校用プラネタリウム」。うーむ、なんとも素敵な名前ですね。「Coelux」という商品名は、たぶんラテン語の「宇宙 Coelestis」と「光 Lux」をくっつけた造語でしょう。
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これが何かといえば、要は幻灯機で拡大して眺めるガラス製の星座早見盤です。
いかにプラネタリウム大国のドイツとはいえ、全国津々浦々の学校でプラネタリウムを演示するのは無理ですから、こういう愛らしい工夫が求められたのでしょう。
メーカーはシュトゥットガルトにあったテオドア・ベンツィンガー幻灯社(Theodor Benzinger Lichtbilderverlag)で、考案者はクルト・フランケンバーガー(Kurt Frankenberger)という人です。
フランケンバーガー氏は伝未詳ですが、ベンツィンガー社の方は、ネット情報によれば20世紀初頭から半ばにかけて営業していた会社のようです(参考LINK)。よく見ると「D.R.P angem.」とも書かれていて、これは「ドイツ帝国特許出願中 Deutsches Reichtspatent angemeldet」の意味ですから、1945年以前の品であることは確実で、全体の雰囲気としては1930年代頃のものと思います。
裏返すと、これが星座早見盤であることがよく分かります。使い方も全く同じです。
光にかざすとこんな感じ。実際にはこれが何倍にも拡大されて、教室の壁に投影されたわけです。そして盤をくるくる回しながら、先生が星空の説明をするのを、生徒たちがじっと見守った…そんな光景がありありと目に浮かびます。
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同工の品としては、以前フィリップス社の幻灯早見盤を採り上げました。
(ただし、グリムウッド氏が製造年代を「1950年頃」としているのは、上に書いたような理由で若干訂正が必要と思います。)
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下界の憂いをよそに、まもなくガラスのように澄んだ空に、秋の星座が静かに光りはじめます。
あの日、鉛筆は青いノートに虫たちの生を記録した ― 2021年08月27日 06時27分54秒
夏休みももう終わりです。
でも、今年は夏休みが終わるのか終わらないのか、混乱している現場も多いと聞きます。夏休みが伸びて嬉しい…と、子どもたちが心底思えるならまだしもですが、やっぱりそこには不安な影が差していることでしょう。
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そういえば今年の夏休みが始まるころ、1通のメールが届きました。
古書検索サイトの「探求書リスト」に登録してあった本が見つかったという知らせでした。リストに登録したのはもう何年も前なので、一瞬キョトンとしました。
実のところ、本自体の記憶も曖昧です。しかし、小学校の図書室で繰り返し読み、それを繰り返し読んだ時の「気分」だけは、ずっと後まで残っていました。その気分をもう一度味わいたくて、一生懸命探した努力がようやく実ったのです。
それは『昆虫の野外観察』という本です。
■杉山恵一(著)
昆虫の野外観察 (カラー版観察と実験14)
岩崎書店、1974
昆虫の野外観察 (カラー版観察と実験14)
岩崎書店、1974
内容は身近な昆虫の生態を、小学生向けにやさしく解説した本で、格別特色のあるものではありません。「では、昔の自分はなぜこの本に夢中になったのか?」と考えながらページをめくっていたら、その理由が分かりました。
それは本の最後に「野外観察のしかた」という章があって、さらに「観察記録の実例」というのが載っていたからです。子ども時代の私がくり返し読んだのは、この「観察記録の実例」でした。以下はその一例です。
「1963年4月23日 晴
東京都町田市
道路わきの電柱にキイロアシナガバチがとりついて、その表面からセンイをけずりとっているのを見た。頭を上にしてとまり、6本の足をふんばり、少しずつ下にさがりながら、口でセンイをけずりとっている。ときおり口をはなし、前足を口のあたりにもってゆく。センイを丸めているらしい。5分間ほどで仁丹粒ほどのかたまりをつくって飛びたった。電柱の表面には、ナメクジが通ったようなかじりあとがついていた。そのほかの箇所にも何本もこのようなあとがあるところから、この電柱にはかなり多くのハチが、巣の材料をとりにきたことがわかる。」
東京都町田市
道路わきの電柱にキイロアシナガバチがとりついて、その表面からセンイをけずりとっているのを見た。頭を上にしてとまり、6本の足をふんばり、少しずつ下にさがりながら、口でセンイをけずりとっている。ときおり口をはなし、前足を口のあたりにもってゆく。センイを丸めているらしい。5分間ほどで仁丹粒ほどのかたまりをつくって飛びたった。電柱の表面には、ナメクジが通ったようなかじりあとがついていた。そのほかの箇所にも何本もこのようなあとがあるところから、この電柱にはかなり多くのハチが、巣の材料をとりにきたことがわかる。」
おそらく、著者の杉山氏自身の実見であろう、こういう観察記録がそこにはたくさん載っていました。もちろんそれまでも昆虫の生活をじっと覗き見ることはありましたが、それを客観的な記録にとどめるということが、当時の私には非常に科学的な営みに感じられたのです。単なる「虫捕り」で終わらずに、小さな昆虫学者たらんとするならば、こうした活動こそやらねば!…みたいな気分だったのでしょう。「ファーブル昆虫記は、ファーブル先生でなくても書けるぞ!」という心の弾みもあったかもしれません。
★
当時、リング綴じの小さな青いノートを野帳としてポケットに入れていたのを覚えています。そこには杉山氏の文章をまねて、いくつかの観察記録が書かれていました。でも、ここが私の限界で、鈍(どん)な私はそこからさらに鋭い観察眼をはぐくむことなく、この観察ブームは一時のことで終わったのでした。
それでも一時のこととはいえ、身近な自然観察を真剣にやったのはとても良いことでした。今もその真剣さを懐かしく思うからこそ、何十年も経ってからこの本を探したのだと思います。
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これは私個人のちっぽけな経験に過ぎませんが、こういう小さな経験が人生において決定的に重要であったりします。似たような思い出のある方ならば、おそらく頷いて下さるのではないでしょうか。
ゴシックの館 ― 2021年08月28日 10時27分16秒
自分が強く心を惹かれる対象があって、自分の中でははっきりしたイメージがあるんだけれども、果たしてそれを何と呼んでいいか分からない。それを名状する言葉がない。
…時として、そういうもどかしい状態があると思います。
ブログ開設当初の自分も、そういう思いを強く抱いて、試みに「理科趣味」という言葉を作り出し、それが指し示すものをせっせと掘り下げてきました。その甲斐あって、この言葉にはある程度内実が備わり、今や分かる人には分かる言葉になったと思います。
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似たような言葉に、自分の身を置く空間を指す言葉として「理科室風書斎」というのがありました。まあ単純に、昔の理科室みたいな趣を備えた書斎ということなんですが、これはあまり一般化もしなかったし、理科室という言葉で自分の理想のすべてが言い尽くされているわけでもないので、言葉としてちょっと弱かったですね。
書斎の写真集(紙の本でもネットでも)を見ると、あきれるほど素晴らしい空間がたくさん紹介されています。中でも自分が強く惹かれる一連の部屋があって、でもそのスタイルを一体何と呼べばいいのかが謎でした。
ところが、です。
今日たまたま画像を探していて、その有力な候補を見つけました。
その検索語は「gothic home library」。
言われてみれば「なーんだ」ですが、ゴシックスタイルと書斎を結び付けて考えたことはこれまでありませんでした。でも両者が結び付いたとき、「自分が惹かれるのは、要はこういう空間なんだな」ということが、何となくスッと分かりました。
(gothic home library の画像検索結果)
上の画像は少なからず金満的な匂いがしますが、私の場合、金満という以上に「暗く静謐」というのが大事な要素なのでしょう。
そして以下の解説記事を目にして、その思いを一層強くしました(以下はMike & Margarita のYarmish夫妻によるインテリアサイト「DigsDigs」のコンテンツです)。
紹介されている写真を順々にご覧いただくと分かりますが、中には理科趣味のきわめて濃い部屋もあります。そして、言葉本来のゴシック趣味を反映したアーチウィンドウとか、教会風の内装であったりとか、(無論お金はかかっているのでしょうが)金満というよりも、むしろ精神性に強く訴える部屋もあったりで、そういう風情を好ましく思う自分がいます。
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おそらくこのブログの周辺の方には、同じような嗜好の方もいらっしゃると思うので、今後の方向性を考えるための参考に供します。
謎の学校天文台 ― 2021年08月29日 08時34分00秒
1枚の絵葉書を買いました。謎の多い絵葉書です。
そこに写った2枚の写真には、それぞれ「天文台」、「屋上観望台 望遠鏡」とキャプションがあります。一見してどこかの学校の竣工記念絵葉書と見受けられます。しかし、どこを写したものか、まったく手がかりがなくて、それが第1の謎です。
(裏面にも情報なし)
(右側拡大)
背景に目をやると、ここは人家の立て込んだ町の真ん中で、遠近に煙突が見えます。戦前に煙突が櫛比(しっぴ)した都市といえば、真っ先に思い浮かぶのは大阪ですが、まあ煙突ぐらいどこにでもあったでしょうから、決め手にはなりません。
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この天文台の載った建物は、隣接する木造校舎に接ぎ木する形で立っていて、この真新しい鉄筋校舎の竣工記念絵葉書だろうとは容易に想像がつきます。
1つ不思議に思うのは、この天文台が計画的に作られたものなら、当然新校舎内の階段を通って屋上に出ると思うのですが、実際には旧校舎の「窓」から、急ごしらえの階段をつたって屋上に至ることです。なんだか危なっかしい作りです。となると、この天文台は計画の途中で、無理やり継ぎ足されたのかなあと思ってみたり。でも、そのわりにこの天文台は立派すぎるなあ…というのが第2の謎です。
【8月29日付記】
記事を上げてから思いつきましたが、この新校舎の各教室に行くには、旧校舎から水平移動するしかなくて(壁の一部を抜いたのでしょう)、新校舎内部には一切階段スペースがなかったんじゃないでしょうか。だとすれば、第2の謎は謎でなくなります。
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実際、この天文台はひどく立派です。
この絵葉書は大正年間のものと思いますが、当時の小学校――写真に写っている風力計や風向計は、高等小学校レベルのものでしょう――にこれほどの施設があったというのは本当に驚きです。
以前紹介した例だと、大正12年竣工の大阪の船場小学校にドームを備えた天文台がありました。
船場小は地元財界の協力もあって、特に立派だったと思うんですが、しかし今日のはそれよりもさらに立派に見えます。
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そして、左の写真に写っている望遠鏡も実に本格的です。
(左側拡大)
メーカー名が不明ですが、乏しい知識に照らすと、野尻抱影の愛機「ロングトム」↓に外見がよく似ています。
口径4インチのロングトムよりも若干小ぶりに見えますが、架台を昇降させる特徴的なエレベーターハンドルがそっくりです。日本光学製のロングトム――というのはあくまでも抱影がネーミングした愛称ですが――は、昭和3年(1928)の発売。ただし同社はそれに先行して、大正9年(1920)に2インチと3インチの望遠鏡を売り出しており、ひょっとしたらそれかな?と思います。この辺はその道の方にぜひ伺ってみたいところ。
■参考リンク:March 2006, Nikon Kenkyukai Tokyo, Meeting Report
上記ページによれば、日本光学製の3インチ望遠鏡(木製三脚付)のお値段は、大正14年(1925)当時で500円。小学校の先生の初任給が50円の時代です。
しかも、この屈折望遠鏡のほかに、ドーム内にはもっと本格的な望遠鏡(反射赤道儀か?)があったとすれば、破格な上にも破格な恵まれた学校ですね。
ちなみに、望遠鏡の脇のロビンソン風力計の真下は、自記式記録計が置かれた観測室だったはずで、それと隣接して理科教室があったと想像します。そこで果たしてどんな理科の授業が行われたのか、そのこともすこぶる気になります。
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こんなすごい学校と天文台のことが、今となってはまるで正体不明とは、本当に狐につままれたようです。
(※最後に付言すると、上の文章には、「これが小学校だったらいいな…」という私の夢と願いが、強いバイアスとしてかかっています。実際には旧制の中学や高校、あるいは女学校なのかもしれません。)
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