石田五郎氏のこと (1)2013年02月13日 00時53分47秒

雨の音を聞きながら風呂に入っていたら、途中からシャリシャリという音がまじり出し、どうやら雨がみぞれに変わったようです。冷たい滴が空から無性に降ってきます。

   ★

かなたに星に惹かれる歌舞伎役者あれば、こなたに歌舞伎に惹かれる天文家あり。
団十郎の天文趣味について書いていて、ふと思い出したのは故・石田五郎氏(1924-1992)のことです。

石田氏は岡山の天体物理観測所に長く勤務され(1969年以後は副所長)、その経験を洒脱な文章でまとめた『天文台日記』は、私の大のお気に入りの本で…ということは、以前書いた記憶があります(今も中公文庫BIBLIOに入っているので手軽に読めます)。

石田氏が「万年副所長」に甘んじたのは、学界の種々の事情があったのかもしれませんが、思うに予算と人事に消尽させられるトップよりは、氏の精神活動をより自由ならしめるには、かえって好都合だったのではないでしょうか(本当のところは分かりませんが)。

まこと石田氏は、研究者の枠に収まらぬ、幅の広い趣味人でした。

少年時代から野尻抱影に私淑し(中学1年の時に、4か月分の小遣いをためて、抱影の『星座神話』を買い込んだというエピソードがあります)、のちに直接親交を結ぶと、自然そこには師弟の関係が生まれ、後に石田氏は翁のことを「初代天文屋」と呼び、自らは「二世天文屋」を名乗るようになりました。豊かな知識を背景にした星のエッセイストとして、両者は師弟であり、畏友でもありました。

二人を結びつけたものは、星に寄せる思いは言うまでもありませんが、芝居(歌舞伎)好きという共通の要素があったことも大きかったようです。抱影は浜っ子、石田氏は江戸っ子(生家は上野の商家)で、ともに洒脱なことが大好きで、芝居好きもその延長だったのでしょう。

   ★


手元に、『天文屋 石田五郎さんを偲ぶ』という、ご友人たちが出した私家版の追悼文集があります。そこには「天文関係」、「出版関係」、「親族」といった寄稿者の区分と並んで、特に「歌舞伎関係」の一章が設けられています。

石田氏は十七代目の市村羽左衛門(2001年没)と昵懇の間柄で、岡山で羽左衛門と梅幸の芝居巡業があったときには、特に許されて黒衣(くろこ)姿で舞台袖に座ったそうですが、これは素人としては破格のことで、それだけ石田氏が芝居に入れ込んでいた証しでしょう。

(口絵頁より。左・黒衣姿の石田氏、右・市村羽左衛門)

また羽左衛門の息子、当代の市村萬次郎さんも根っからの天文好きで、岡山の天文台には巡業のたびごとに10回訪れたと文集にあります。その関係もあって石田氏と羽左衛門とは家族ぐるみの付き合いがあったということです。以下はその萬次郎氏の文章より。

 「父〔=羽左衛門〕が芝居の質問に手紙で答えたのが切っ掛けでした。この出合いは、物理・天文好きの私としては願ってもないことでした。事実、歌舞伎の地方巡業で岡山へ行った時には、必ずといっていい程、鴨方の天文台へおじゃますることになりました。たとえ台風が来てて、どしゃぶりの雨となり、雷が落ちて停電になろうとも、ロウソクの明かりの下、星と芝居の話に花を咲かせました。

 後に先生が人に紹介して下さる時に、「僕より星のことにくわしいよ」と冗談を言われましたが、「先生の方が私よりずっと、芝居のことにくわしいです」とこれは本気で答えました。実に細かに芝居のことを御存じでした。それは決して表面的に数多くのことを知っているということではなく、芝居のことが心から好きだったからこそ、自然と身についた知識であったと思います。」

雨の宵、天文学者と歌舞伎役者が、ろうそくの明かりを点して、夜通し星と芝居の話題で語り明かす…。何とも風情がありますが、「主」が石田氏でなければ、とてもこうはいかないでしょう。

   ★

いろいろ湧いて出る思いに誘われて、石田氏の短文集『天文屋渡世』(筑摩書房)を手に取って、以前は気付かなかったことにいくつか気づいたので、ちょっとメモしておきます。

(この項つづく)

星と東方美術2012年07月25日 20時41分58秒

話が理科趣味からどんどんアウェイになっていきますが、天文趣味からはそれほど遠ざかるわけではありません。
なんといっても、御大・野尻抱影その人が、晩年に仏教美術と天文趣味を融合させた『星と東方美術』(恒星社厚生閣、1971)を上梓しており、星好きとして、大手を振ってその跡を慕うことができるからです。


抱影の仏教美術への関心は、京都・奈良から吉野・高野まで巡歴した中学生時代にさかのぼるので、天文趣味と同じぐらい年季が入っています。しかし、星の和名の収集に続いて、星と仏教美術との関係に取り組むようになったのは、戦後もずっと経ってからのことのようです。星の翁も、齢を重ねるとともに、自然と仏臭いものに惹かれたのでしょうか。今の私もちょっとそんな気分かもしれません。

ちなみに、この本の「あとがき」は、抱影の実弟・大仏次郎が書いています。抱影の本に彼が文章を寄せたのは、これが最初で最後だそうです。二人とも、このテーマに何か感じるものがあったのでしょう。

   ★

と言いつつも、私はこの本を積ん読状態のまま、ずっと放置していました(パラパラ見た程度)。今日、改めてページを開いたのですが、先日の宿曜経の話題をはじめ、これはもうちょっと早く読んでおけば良かったなあ…と思いました。

とりあえず、以下目次です。

はしがき
1 北辰妙見菩薩巡礼
2 薬師寺本尊台座の四神像
3 朝鮮陵墓の四神像
4 七星剣の星文考
5 求聞持〔ぐもんじ〕虚空蔵と明星
6 法隆寺の星曼荼羅
7 インドの九曜と星宿
8 聖徳太子絵伝の火星
9 南極老人星
10 道教美術の星辰像
11 海神天妃媽祖〔まそ〕
12 璿璣〔せんき〕と天文玉器
13 古代インド二十八宿名考
14 敦煌の古星図
あとがき 

さて、この本の中で、抱影がもっとも紙幅を割いているモノについて、これから述べようと思いますが、これは十分もったいぶる価値があるので、次回にまわします。

和名星座早見盤…星のない星まつりの宵に2012年07月07日 10時59分45秒

今日は七夕。
梅雨の最中の新暦7月7日に実施することの愚は、これまで数限りなく言われてきましたが、この場合、名称からして「七」という数字に大きな意味があるので、なかなか月遅れで実施するという便法が普及しないようです。

今日も案の定、雨もよいの星まつりです。
まあ、飛行機でひょいと雲の上に出れば、そこは満天の星空ですし、そもそも満天の星などというのは、この宇宙ではごくありふれた光景であって、「頭上から水が降ってくる」ことのほうが、汎宇宙的にはよっぽどの奇現象ですから、この星の住人としては、雨を愛でる心がもっとあって良いのかもしれません。いっそ、七夕は「雨まつり」の日にしてはどうか…

   ★

さて、無駄口はやめて、今日の一品はこれです。


渡辺教具製の「和名星座早見
(メーカーによる紹介ページはこちら → http://blue-terra.jp/products/1107.html

以下に紹介文を転載させていただきます。

「国内初の日本名早見盤。監修は国立天文台の渡部潤一先生。もとになっているのは天文学者 野尻抱影先生が残された研究です。従来の西洋星座との対比もできるよう、紺色の上に和名をオレンジ色で載せました。裏面は着色によって星座の位置を学べる12星座絵入り。すばる、おりひめ、ひこぼし、いかり星、うおつりぼしな どが記載されています。」
(※ただし、私のはバージョンが古いのか、裏面は真っ白で星座絵はありません)。


↑は今日の午後11時半の空(明石標準)です。

ぐっと真上を見上げれば、ちょうど天頂に輝いているのが織姫星(ベガ)。彦星(アルタイル)は、そこから南東の位置、天の川の対岸に立って、織姫をさし招いています。そして二人をとりまく十文字星(はくちょう座)、ひしぼし(いるか座)、南斗六星(いて座)、くるま星(かんむり座)…

   ★

日本における星座理解は、基本的に中国からの直輸入で、日本独自の体系がフォーマルに作られることはついになかったようです。

したがって、この「和名星座早見」に採られているのも、<地方色の強い民俗語彙の中で、わりとポピュラーなもの>、<元々それほどポピュラーではなかったが、野尻抱影が激賞したため、後世二次的に広まったもの(中には真珠星(スピカ)のように、抱影翁の創作めいた名も含まれます)>、そして<中国名そのままのもの>が混在していて、全部の名称を横並びに捉えることはできません。しかし、試みとしては面白く、こうした切り口から星に興味を持たれる方もいらっしゃることでしょう。

   ★

ともあれ、雲の上の星たちに、今宵は(今宵も)一献ささげることにしましょう。

【18:00 付記】 ぼやいてみるもので、午後からは青空がグングン広がってきました。これならば、じかに星と対面してグラスを干せそうです。(結局やることは同じです・笑)

星の美と神秘(3)…「銀河の魚」のこと2011年06月18日 10時29分44秒

これら2つの話を読み、また「銀海洋洋として異獣神魚その内に泳ぐが如し」という銀河の描写を読めば、たむらしげる氏の名作「銀河の魚」を思い起こさないわけにはいきません。

「銀河の魚」は、最初コミック作品として発表され(初出は「マンガ少年」1980年9月号)、その後アニメーション化され、その一部はYouTubeでも見られたり、見られなかったりします。
 
(↑すみません、ネットから適当に引っ張ってきたイメージです。以下も同じ)

主人公は天文学者の祖父と暮らす少年、ユーリ。
ユーリは祖父を手伝って星空を観測しているうちに、1つの見慣れない星を見つけます。こぐま座の脇に出現したその星のために、愛らしい小熊の姿は、巨大な怪魚へと変形してしまいます。天上で異変が起きていることを察知した二人は、妖星を討つべく、ボートに乗って川をさかのぼり、やがて光り輝く「星魚」の群れ泳ぐ銀河の中へと…

(「ゆるやかな川の流れをどこまでもさかのぼってゆくと〔…〕ぼくらのボートの下を汽車が通り過ぎ…水の底にもうひとつの海があった」 ‐コミック版より‐)

このストーリーが、中国の故事と同じ構造を持っているのは明らかです。
たむら氏が中国文学から想を得たのかどうかは不明ですが、おそらくは偶然の一致なのでしょう。いや、単なる偶然の一致というよりも、人間のイマジネーションには、時と所を超えた共通性があることを示す例なのかもしれません。

   ★

物語の方は、みごと銛(もり)で妖星を仕留めたユーリと老人が、また川を下って自宅に戻り、それを天上の小熊がやさしく見守るシーンで終ります。

   ★

野尻抱影は1977年に没したので、「銀河の魚」を目にする機会はついにありませんでしたが、もしそれが叶えば、たむら作品にどんな感想を抱いたか、翁に伺ってみたい気がします。

星の美と神秘(2)2011年06月16日 22時31分18秒



本業の方で突発的な出来事があり、ちょっと間隔が空きましたが、話をつづけます。

   ★

この本で「おや」と思ったのは、銀河についての話題です。より詳しく言うと、地上の川をさかのぼると銀河に至るという話。

抱影翁の引く例でいうと、『荊楚歳時記』〔6世紀の成立〕に、前漢の人・張騫(ちょうけん)が、いかだに乗って銀河まで遡ったという話が出ているらしい。

改めて『荊楚歳時記』を見ると、七月の条にこのエピソードは出てきます。
漢の武帝が張騫を中央アジアに派遣したのは歴史的事実ですが、700年も経つとすっかり伝説化して、いかだで黄河をさかのぼった張騫が、旅先で牽牛・織女と出会うという話に転化しています。しかも、同じ頃、地上からは二星のそばに客星の出現が観測された…という、もっともらしい潤色まで施されて。

『星の美と神秘』には、さらに『剪灯新話』〔明代の伝奇集〕に出てくる、次のようなエピソードも紹介されています。

成令言というのは元代・天暦年間の人といいますから、今からざっと700年前のこと。
初秋のある日、小舟を千秋観〔というのは道教寺院の1つでしょう〕の下に泊めた令言は、鮮やかな銀河を仰ぎ見て、宋之問の古詩「明河篇」を吟じているうちに、世を捨てて仙人になりたいという思いを抱きます。すると小舟がするすると動き出し、まるで何かに引っ張られるように、一瞬のうちに千里を進み、ついに見慣れぬ場所にたどり着きます。

抱影翁の訓みによって原文をあげれば、寒気人を襲ひ、清光目を奪ふ。玉田湛湛として、琪花(たまのはな)瑶草(たまのくさ)その中に生ずるが如く、銀海洋洋として異獣神魚その内に泳ぐが如し」。

令言はそこで織女と言葉を交わして…と話は続くのですが、翁の引用は途中で終っているので結末は不明です。

   ★

いずれも、地上の川をさかのぼれば、人はいつか銀河に行くことができるという、切なくも美しいイメージが基本にあります。「銀河鉄道の夜」のように、突然、場面が転換するのではなく、地上と天上は切れ目なく連続しているのだ…という観念が、今の私には一層好ましく感じられます。

(この項つづく)

星の美と神秘2011年06月13日 21時31分53秒



気分も天候もウェットなので、何となく雨について記事を書きたいと思いました。
で、話題を求めて野尻抱影翁の 『星の美と神秘(昭和21、1946)という古めかしい本を手にとったところ、果して「雨霖鈴」という文章が載っていました。

梅雨連日、檐〔ひさし〕をめぐる点滴の音に、私は屡々〔しばしば〕雨霖鈴の故事を思ひ出す…」 という書き出しで始まる、漢詩文に取材したエッセイですが、内容は唐の玄宗皇帝をめぐる2つのエピソードをつなげたもので、あまり星とは関係がありません。

それよりも、他の文章にふと目を引き寄せられたので、当初の予定を変えて、そちらについて書こうと思います。

(前口上だけで次回につづく)

『星恋』、ふたたび(2)2011年01月03日 20時45分15秒

改めて本の帯を見たら、興味深い文章なので、やっぱりこちらも書き写しておきます。

<星戀のまたひととせのはじめの夜>―凍える静寂(しじま)の中に煌く星座。星の光りは無窮の彼方から地上の孤独な魂たちに語りかける無償の私信であろう。該博な学殖と透徹した詩人の直観力をもつ著者たちが、変らぬ星への恋慕の念にも似た若々しい情熱で捉えたロマン溢れる星のコスモロジー。野尻抱影生誕百年、ハレー彗星・火星大接近、「天狼」四十周年を記念して、深夜叢書が星を愛するすべてのひとと、俳句を愛するすべてのひとの“掌の宇宙”に贈る綺羅星の名著。

なるほど、抱影生誕100年とハレー彗星接近のほかにも、火星大接近と「天狼」(てんろう;山口誓子が主宰していた句誌)の40周年も、かけていたのですね。

それにしても、「地上の孤独な魂たちに語りかける無償の私信」とか、「掌の宇宙に贈る綺羅星の名著」とか、いちいち煽りが効いてますね。書いたのは編集担当の方でしょうか。

   ★

さて、本書の内容ですが、基本的に中央公論版をそのまま復刻したもので、特に文章の変更はありません。ただ、口絵として、誓子の自筆句と著者2人の写真が掲げられている点と、巻末に「『星戀』以後」と題した誓子の新作16句が追補されている点が異なります。(…と思ってよく見たら、「海を出し寒オリオンの滴れり」の一句は既出なので、本当の新作は15句のようです。)


↑野尻抱影と山口誓子のツーショット。左が誓子、右が抱影。
彼らは『星恋』以前から、互に深く認め合っており、だからこそこの『星恋』も日の目を見たわけですが、二人が実際に顔を合わせたのは、この写真を撮ったとき、すなわち昭和40年が初めてでした。考えてみればすごいことですね。

星に恋した者同士は、それだけで既に十分心が通い合っており、対面する必要を感じなかったということかもしれませんが、互いの肉声を初めて聞いたときには、すこぶる感慨深いものがあったことでしょう。

   ★

せっかくですから、内容見本として、抱影と誓子の「星恋」の文と句を載せておきます。



写真では分かりにくいかもしれませんが、活字が藍色のインクで刷られているのも、星をテーマにした本として気が利いています。

『星恋』、ふたたび2011年01月01日 21時09分58秒

新年あけましておめでとうございます。
かすてん様、S.U様、日文昆様におかれましては、年末のご挨拶をいただき有難う存じます。またお三方を含め、早々と新年のご祝詞を頂戴した方々に、この場を借りて篤く御礼申し上げると共に、「天文古玩」にご縁のある皆々様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。 本年も何とぞよろしくお願いいたします。

   ★

2011年のスタートです。
「天文古玩」もまもなく5周年を迎えます。
最近は、過去の記事の繰り返しが多くて、なんとなくブログの命数も尽きかけているのかなと、私自身、おそれを抱くこともあります。ここで何か新機軸を打ち出すべきなのか、それとも偉大なるマンネリに徹するべきなのか―。

おそらく後者でしょう。何となれば、星空こそが偉大なるマンネリズムなのですから。
(でも、このページにも、たまには新星や彗星のような奇現象が現われるかもしれません。)

   ★

さて、繰り返しといえば、去年の正月に野尻抱影と山口誓子共著の句文集『星恋』を取り上げました。(去年の1月にタイムワープして、1月2日、4日の記事を参照してください。→ http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/01/

その際は、この本の初版である鎌倉書房版(昭和21年)、それから昭和29年に再版された中央公論版を取り上げました。ついでなので、さらに昭和61年に深夜叢書社から出た『定本・星恋』も見てみます。

この深夜叢書版は、昨年暮れにコメント欄を通じて『星恋』についてお問い合わせをいただいたことがきっかけで入手しました(ご縁をいただいたmicaさん、ありがとうございました)。


貼り箱入り、変形四六版・布装・書名空押しのカッチリした造本で、たしかに定本の名にふさわしい表情です。プレアデスの写真が箱を彩るのは、俳句の本として異例とはいえ、いかにもというデザインです。


昭和52年(1977)に抱影が死去してから9年後に『定本』が出たわけは、本の帯にも書かれていますが、ここでは誓子が定本に寄せた「あとがき」を書き写してみます。

 「私が伊勢の海岸で静養してゐたとき、昼は伊勢の自然を見て歩き、夜は伊勢湾の天にかがやく星を仰いで、星の俳句を作ってゐた。

 星のことは野尻抱影先生の著書を読んでゐたから、野尻先生は、私の星の先生だった。その野尻先生からお手紙を頂いた。いま星の随筆を書いてゐるが、それにあなたの星の俳句を借りたい、と云って来られたのだ。星の先生の随筆に私の星の俳句を取り上げて頂くことを、私は無上の光栄とし、先生に見て頂くために星の俳句を作り続けた。

 野尻先生の随筆に私の俳句を添へて『星戀』が出版された。『星戀』を読んで、私の星の俳句が先生に支持されてゐることを知り、私は喜びに堪へなかった。

 『星戀』は、昭和二十一年、鎌倉書房から出版され、昭和二十九年、中央公論新書として出版された。

 今年は、野尻先生御生誕百年に当り、ハレー彗星接近の年である。この年に『定本・星戀』が出版されたのである。

  昭和六十一年四月
                    西宮市苦楽園にて
                                山口誓子」

昭和61年といえば1986年。すなわち1910年以来76年ぶりのハレー彗星接近の年で、その余波がここにも及んでいたわけです。(なお、抱影生誕100年は、正確には前年の1985年11月ですが、まだ「生誕101年」には間があるので、生誕100年を記念する出版物という意味合いで、こう称したのでしょう。)

今年は2011年。考えてみれば、あれからさらに四半世紀が過ぎ経ったわけです。
時の歩みは容赦がないですね。

(この項つづく)

「抱影」の誕生2010年10月05日 20時02分13秒

科博の話題からそれますが、一昨日の日曜、家でゴソゴソ調べていたことは、「飛行機の形をした科博の謎」の他に、実はもう1つあって(←つくづくヒマですね)、そちらもついでにメモしておきます。

   ★

日曜の朝、新聞を開いたら、でかでかと「抱影」の文字があって、反射的に目が引き付けられました。

残念ながら、それは野尻抱影翁とは関係なくて、北方謙三の小説の広告でしたが、「そういえば、抱影はいつから抱影と号するようになったのかな?」という疑問が浮んだというのが、もう1つの話題です。これについては、石田五郎氏の『野尻抱影』(リブロポート)を開いたら、そこにアッサリ答が書かれていました。

   ★

野尻抱影(本名・正英 まさふさ;1885-1977)が、「抱影」の号を使うようになったのは、明治37年(1904)、彼が19歳のときです。

明治36年(1903)の11月に、『明星』から分かれて文芸誌『白百合』が創刊されたとき、その中心にいたのが抱影の親友・相馬御風(1883-1950)で、その関係から、抱影も『白百合』創刊時からの同人でした。抱影はここで、バイロン、アンデルセン、モーパッサンなどの小品の翻訳を発表しています。

「はじめは「野尻陽炎」というペンネームを使ったが、
〔前田〕林外たちにすすめられ第七号からは「抱影」を
使うようになった。金剛経の「夢幻泡影」からとった
ものであるという。」(『野尻抱影』41頁)

「‘泡’影」がなぜ「‘抱’影」になったかは、石田氏も書いていないので分かりません。先輩同人に岩野泡鳴(1871-1920)がいたので、「泡」の字を遠慮したのかもしれません。

このとき抱影は、自分が将来「星の文人」になるとは予想もしなかったでしょうが、‘星影を抱く者’という美しいイメージを喚起する「抱影」と号したのは、彼にとっても、また彼を慕う天文ファンにとっても、至極幸いなことでした。(野尻抱影が「野尻泡影」や、ましてや「野尻陽炎」でなくて、本当に良かった!)

   ★

『白百合』という雑誌は、その出自からも分かるように、明治浪漫主義の色濃い内容の雑誌です。山本一清も、野尻抱影も、青年期に浪漫主義思潮の洗礼を受けた人で、彼らの天文趣味には、その影響が終生付いて回った…ということを、以前書いた気がします。

彼らの末流である現代の天文ファンにも、その影響は及んでおり、天文趣味の追求が、「科学的営為」のみならず「文学的営為」の色彩をも帯びるのは、そのせいではないでしょうか(天文入門書の中で、星座の神話と伝説に多くのスペースが割かれていても、特に奇異と感じないのは、「刷り込み」が余程強固なのでしょう。)

まあ、天文ファンも千差万別なので、一括りに語ることはできませんけれど、少なくとも一部においては、そうしたウェットな星菫趣味に、賢治や足穂の硬質な抒情が加わったことにより、非常に奥行が生まれたのは確かで、それこそが日本の天文趣味の一大特徴ではないかと、ちょっと我田引水気味ですが、そう思います(このことも以前書いたかもしれません)。

特報!! 稲垣足穂は昭和11年7月6日、「星の文学」と題してラジオ出演を果たしていた!2010年04月28日 20時15分56秒

S.U氏の直前のコメント(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/04/26/5043767#c5048739)に注目。そこからリンクされているのが下記のページ。

■稲垣足穂のラジオ出演
 http://www.d1.dion.ne.jp/~ueharas/others/taruhoradio.htm

ひえー!!!!!!
S.U氏の執念の探索の成果。
これって足穂研究者の方には既知のことでしょうか?それとも新知見?
筑摩の「稲垣足穂全集」所収の最新の年譜は未見ですが、少なくとも『タルホ事典』(潮出版)の高橋康雄氏編の年譜には出ていない情報です。

S.U氏のコメントは、私が以下のようなレス(下書き)を打っている間にいただいたものですが、100%己の不明を愧じます。全面訂正いたします。
しかし、以下に記した内容を考え合わせると、足穂の逼塞時代のイメージは大いに再考を要するものと思います。

 ■□ 以下、死せるコメント □■

私は、忠郷きょうだいの人物造形が、いかにもフィクション臭いので、会話に出てくるラジオの件もそうにちがいない…と単純に決めつけてしまったのですが、しかし、この2つの話題をごっちゃにすることはできませんね。現に、作品の舞台や設定は、部分的にせよ、足穂のリアルライフと重なっているわけですから、ラジオの件もそうであっていけない理由はありません。

とはいえ、抱影が昭和初年にラジオ出演した頃の状況(↓)を読むと、「明石でぶらぶらしているだけのアル中の人」だった足穂には、ちょっとそぐわない感がなくもありません。

「抱影の講演は話題が豊富多彩で評判がよくその後二百回も続けた。当時のラジオ出演といえば今日のテレビ出演よりも大変なことで世間的な知名度は一挙に上昇した。この頃の番組のPRは寄席のビラのように巷にはり出され、野尻抱影の名が錦城斎典山や歌沢×××や常磐津○○大夫の間に英語の岡倉由三郎と並んで印刷されていた。」(石田五郎、『野尻抱影』、p.169)

当時のプログラムを詳細に調べる手だてがあればいいのですが、どこから手を付ければいいのか、ちょっとツールが思い浮かびません。(NHKに直接聞くのが早い?)

** 以下、蛇足と考え削除 **