阿呆船来航2021年01月27日 22時12分16秒

去年9月に、15世紀の皮肉文学、『阿呆船』に触れました(LINK)。

聖職者も、王侯貴族も、商人も、学者も、ことごとく腐敗堕落した世相をメッタ斬り…みたいな内容の本ですが、腐敗堕落した人はいつの世にもいますから、出た当時はもちろん、その後も世の中に不満を抱く人々に愛読され続けて今に至ります。

私も大いに溜飲を下げたいと思って、名ばかり聞くこの古典を、実際手に取るために注文しました。

(尾崎盛景訳 『阿呆船』(上・下)、現代思潮社刊、1968)

(1494年に出た『Das Narrenschiff』の複製本。1913年刊)

(同上)

邦訳はもちろん、さらに原典まで注文したところに、私の鬱屈ぶりがよく表れています(…というのは嘘で、本当の理由は、邦訳は挿絵が大幅に割愛されていることを知ったからです)。

とはいえ、結局これは注文しなくても良かったのかもしれません。
本を読まなくても、阿呆船の世界は、眼前にあざやかに広がっているのですから。

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昔から愚昧な為政者は少なくありません。民がやせ細り、国力が衰えているのに、かまわず放蕩三昧をしたり…というタイプが代表でしょう。ただ、そういう人の中には、政治はまったくダメだけど、文芸の才があったり、あるいは自ら才能はなくても、芸術や学問の強力な庇護者になったり、というパターンもあります。

しかし、今の日本の為政者は文化にてんで関心がないし、単に愚昧なだけです。
彼らは我欲-金銭欲や権力欲、支配欲を満たすことしか念頭にないように見えます。思わず「禽獣のような」というフレーズを使いたくなりますが、もちろん従容と自然の中で暮らす鳥や動物たちの方が、彼らよりもよっぽど上等な生き方です。

どっちにしろ、菅政権も長くはないだろうと思って、このところ黙って見ていましたが、昨日の補正予算案の報道に接して、これはダメだと改めて思いました。動物たちには申し訳ないけれど、やっぱり「禽獣のような…」という表現が浮かびます。少なくとも、あれが「人間らしい振る舞い」だとは思えません。

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私の見るところ、彼らの振る舞いの中心にある「セントラルドグマ」は次の2つです。

1 何とかなる。
2 何とかならなくても、困るのは他人(下々の者、後続世代)なので構わない。

要は圧倒的なシンパシーの欠如です。
彼らに人間的な心がまったくないとは言いません。でも、いざ政治的な行動をとるとき、その人間的な心がすっぽり抜け落ちてしまう、つまり一種の解離が生じている点が大きな問題です。

じゃあ、それに対する処方箋はあるのか?
…という点ですが、そのことで本人が苦しんでいるならば、そして本人も自分を変えたいと思っているならば、方法はきっとあるでしょう。でも、そうでなければ、彼らを外部から変えることはできないし、採りうる方法は、その弊害があらわになった段階で、政治の場から去ってもらうしかないように思います。

(なんとなくスガ氏と麻生氏に似た二人)