抱影翁のはがき(2)2007年11月01日 21時06分36秒

(↑昨日の葉書の表。万一迷惑を感じられる方がいるといけませんので、画像では番地をカットしてあります。)

先日話に出た石田五郎氏も、その著 『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』 の中で、翁の生前に300通を越える葉書を受け取ったことを書かれています。

 「抱影の書体は何子貞と蜀山人とをつきまぜた独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい。」(同書304頁)

…というのは、「馴れるまではヒエログリフ並みの難字である」と言っているに等しく、最初はだいぶ読解に苦労されたのでしょう。

ところで、私は何子貞の何物たるかをまったく知らなかったのですが、上の記述は、翁の没年(1977)に出版された『星・古典好日』の「あとがき」(筆者は松島靖氏)に拠ったらしく、それを読むとその辺の消息がよくわかります。

 「野尻先生はお星さまのような文字をお書きになると居合わせた誰かがいった。野尻さんの書は清の何紹基に出ているものの如くである。何紹基、字は子貞、清朝末期の大書家であった。隷書を良くしたというが、楷書、行書において自由無礙、八達自在、きまった法、形などに囚われず、全く自由な書風を開いた。野尻さんはこの何子貞を学ぶと共に本朝では蜀山人の風をも追ったらしい。その時代、清の何子貞に傾倒したことは大見識である。また蜀山人に注目したことは江戸の最高の洒落っ気を手に入れたことである。かくして野尻抱影その人は、現代独歩の奇書を書くことになったが、毛筆は次第に心して遠ざけたかのように見える。」

翁の文章には漢詩や古歌の引用も多く、その業績を理解するには和漢の素養が必須だろうと思うのですが、なかなかどうも、己の無知を恥じることが多いです。