休業2007年10月11日 23時11分42秒

飛び込みの仕事があったり何だりで、記事はお休みです。
ディスプレイを見続けているので、目が血走っています。

石田五郎(著) 『星の歳時記』2007年10月13日 22時14分46秒

(左:扉、右:外箱)

岡山天文台というと、どうしても話は石田五郎氏に戻ってしまいます。
氏は同天文台の開設時からその運営に関わり、後に副所長を務めた方です。(以下の記事も参照)

http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/31/581998
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/11/01/583075

さて、写真は天文随筆家としての氏の出発点となった、『星の歳時記』(昭和33年、文芸春秋新社)。後に筑摩から文庫化もされています。挿画は氏の友人でもあった吉田漱氏。

これはいい本ですね。
昭和31年から朝日新聞に連載していた同名の記事をまとめたもので、著者は当時まだ30代前半。東大の助手時代の仕事です。

当時はちょうど岡山天文台の建設が急がれていた時期で、この本が出た昭和33年の暮れに現地で起工式が行われました。そして2年後の昭和35年に、石田氏は一家を挙げて岡山に移り住みます。したがって、所収の文章はみな岡山天文台の開設準備と並行して書き継がれた文章ということになります。

 ◇  ■  ◇

 蔵王山腹の峨々(ガガ)温泉に泊ったのは数年前の秋で、谷に沿って横にのびた一軒きりの宿はとり入れ前の農家の自炊客でにぎわっていたが、古びた檜の湯ぶねのまわりに腹ばいで湯を浴びる人々の口誦むひなびた盆踊唄にも山深い湯宿の静けさが感じられた。

 夜になって帳場の下駄をつっかけて戸外に出ると、谷をふきぬける風は思わずよろけるほどの激しさであったが、両側から細長くせばめられた空にそってのびる青白い銀河は濃淡屈伸の妙をみせてすばらしい眺めであった。

 射手座、蠍座など夏の輝かしい部分は西南に沈み、天頂の白鳥座のあたりから、ケフェウス、カシオペヤ、ペルセウスへと一気に北東に流れ落ちる。

 近年、他の渦巻小宇宙にみるような渦巻の腕がわが銀河系宇宙にも存在することは、青色星の研究や電波観測によって確認されたが、その腕の一本はこの秋空の領域にものびて、さまざまのガス星雲、散開星団、あるいは年若い星々のつくる星組合をちりばめている。

 山の秋風は冷たくて、すぐに戻って湯つぼにとびこんだが、夜おそくなると帳場のわきから二階の客室に上る階段が、古風な揚げ板で下からぴったりふさがれてしまうのは何とも不思議な気持ちであった。

 ◇  ■  ◇

「秋空の銀河」という節の全文です。秋冷の気の迫る、昭和20年代の東北の温泉場の雰囲気と、そこから見上げた星空の景が涼やかに、そして滋味豊かに描かれています。抑えた筆致が好ましい。

 ★

今年で没後15年。1992年はジョン・ハーシェル生誕200年ということで、日本ハーシェル協会の会長として、南アフリカやロンドンへと忙しく飛び回っておられた直後の訃音でした。私自身は、まだハーシェル協会に関係する前でしたので、直接お目にかかれなかったのが、何とも残念です。

バロック時代の理科室風書斎2007年10月15日 21時38分06秒

(ナイケル 『ナイケル陳列館誌』 1727より、出典は下記)

これまで理科室の起源をヴンダーカンマーに求めてきたわけですが、私が目指している 「理科室風書斎」 もまたヴンダーカンマーに根ざしているらしいことを発見。

上の写真は、以前取り上げた(http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/09/24/1817757)、小宮正安 『愉悦の蒐集』 からの転載です(190頁)。バロック時代のヴンダーカンマー構築者、カスパール・フリードリヒ・ナイケルの陳列室。

小宮氏によると、ナイケルは収集品には必ず説明書を付けるべしと提案し、実践した人だそうで、そのため混沌としたヴンダーカンマーから、近代博物館が生れるきっかけを作った人物とも目されているそうです。まあ、性分として整理整頓が好きな人だったのでしょう。

で、挿絵を見ると、ナイケルの背後には動物の骨格やら何やらの標本類が並び、正面には豊かな装丁を施した書籍がぎっしり書棚に詰まっています。その間で部屋の主は、標本をかたわらに参考書をひもときながら研究に余念がありません。

これはまさに理科室風書斎の姿そのものです。リアルな標本と、2次元の情報(本)に取り囲まれた、学問の佳趣に思う存分にひたれる空間です。18世紀前半には、こうしたライブラリーと博物コレクションが融合した、知の総合センターが誕生していたことが分かります。

もちろん、私の部屋がこんな様子のわけはありませんが、イメージとしては微かに相通ずるものがあります。

中休み2007年10月16日 21時52分02秒


このところ「紙もの」ばかり続いたので、この辺で少しソリッドな物も載せたいなあ…という気がします。いっぽうで、「そのうち、理科室ネタでワッと書きたい」ということを、しばらく前に書いた記憶があるので、そっちの方向に筆を進めようかなあ…とも思います。いや、しかし季節の話題も捨てがたいし…と、たかだかブログの記事一つ書くにも迷う場面が多々あります。

小説やフィクションだと、いつのまにか登場人物が自律性を帯びて、書き手のコントロールが効かなくなるという話をよく聞きますが、気ままなブログにも幾分そうした気味はあって、自分の思考の流れとか、文脈とかいう制約から、書こう書こうと思いながらなかなか書けずに、積み残しになっている話題も多いです。

そんなことを考えつつ、ちょっと中休みのつもりで、今年の年頭の抱負について、今の時点で総括しておこうと思います。

(詳細は明日)

今年の抱負を振り返って…人体模型のこと2007年10月17日 21時47分55秒

(優しい表情の日本的人体模型)

今年の元旦に掲げた目標は以下の3点でした。

(1)人体模型について、まとまった記事を書く。
(2)「理科室風書斎」をキーワードに部屋を整理する。
(3)「銀河鉄道の夜」の作品世界の具象化。

まず最初に「人体模型総説」的な記事を書くぞ、と高らかに宣言しているあたりに、当時の自分の興味のありようが現れています。

資料も結構マメに探したりして、かなり気分が高揚しており、挙句の果てにカナダの人体模型研究者を見つけて、直接教えを乞うところまで行ったのですが、メールがうまく届かず、先方と接触できなかったあたりから、ちょっとペースダウンしたように思います。

私の腹積もりとしては、こんな計画だったのです。

 ★  ★  ★

まず、前史として、フィレンツェのスペコラ博物館に代表される18世紀の蝋製解剖模型(ワックスモデル)から説き起こし、19世紀に入って、フランスのオゾーが紙粘土の一種(パピエ・マッシュ)で人体模型の量産を始めたあたりまでを足早に紹介します。

次いで、明治になってその技術が日本に移入され、島津製作所あたりで国産化に成功し、オゾー風のリアルな模型が徐々に日本化され、「日本的人体模型」が生み出されるに至った過程を追います。

さらに、20世紀初頭に日本で独自に生れた技法(紙縒りの技術を生かした血管系の再現など)や、日本風のやわらかい彩色や面貌が欧米で評価され、海外進出を果たした歴史に触れます。

また側面史として、島津の人体模型製作術が服飾用マネキンに応用され、マネキン産業がドル箱となったエピソードや、戦後、島津の標本部が独立して京都科学として分社化され、同時に紙塑製模型から樹脂製模型への転換が図られたことを述べて、通史を終えます。

ついで各論として、理科室と人体模型の結びつきを論じます。明治以降、理科の単元が整備されていく中で、人体模型がどのように学校現場に入り込んでいったか、理科教育史における人体模型の位置付け、人体模型がなぜ実際の授業で使われることがないのか、その謎解きをして、さらには人体模型VS骨格模型の徹底比較、人体模型の面相論といった、色物的な内容も綴っていきます。

最後は人体模型のフォークロアで、理科室の怪談と人体模型の結びつきを、時代をおって見ていくことで、理科室空間の盛衰をも間接的に叙述します。

 ★  ★  ★

こうして書いていると、本当に面白そうですね。どなたか書いて下さる方があれば、ネタはすべて提供するのですが。。。まあ、たぶん誰も手がけないでしょうから、これは老いの楽しみにとっておきます。

さて、残る(2)と(3)の現状報告はまた明日。

今年の抱負を振り返って…理科室風書斎2007年10月19日 21時48分58秒


さて、今年の抱負の2番目、「理科室風書斎をキーワードに部屋を整理する」について考えてみます。

これは自分でもなかなか頑張りました。
現在の自分の部屋を見て、何を連想するかを尋ねれば、たぶん10人が10人理科室と答えるでしょう。もっとも、そこには若干のトリックもあって、人体模型を置いた時点で、そこに理科室以外のものを連想することは困難なので、それだけ取り上げてもあまり威張れないかもしれません。まあ、それだけ強力なアイテムだということですが。

ただ、今年の初めにはなくて、今はある理科室アイテムを数え上げると、それだけでもかなりの数になりますし、仮に人体模型を除いても、理科室濃度は4割増しぐらいの感じです。

言葉で説明するより、その実態をバンと画像で紹介すればいいのですが、ブログ運営上の問題(?)もあり、その辺は小出しにしていきます。

いずれにしても、理科室関連の話題は今後ひんぱんに顔を出すことでしょう。

今年の抱負を振り返って…ジョバンニの世界へ2007年10月20日 19時55分47秒

(小林敏也・画、パロル舎版『銀河鉄道の夜』より)

次いで今年3番目の抱負は、「銀河鉄道の夜の作品世界の具象化」というものでした。

小説「銀河鉄道の夜」において、私がもっぱら心惹かれるのは、「北十字とプリオシン海岸」のような天空の情景ではなくて、冒頭の「午後の授業」の教室風景であったり、「ケンタウル祭の夜」における時計屋のショーウィンドウであったり、つまりは具体的な天文アイテムと結びついた、より現実的な光景なのです。

  先生が凛とした口調で語る銀河構造論。そこに登場する星図や
  ガラスの銀河模型といった天文教具。授業を受けながらジョバ
  ンニが思い浮かべた銀河のモノクロ写真や、友人の父親である
  博士の書斎の光景…。

  時計屋の店先を飾る、古風な星座絵、金色の望遠鏡、緑の葉を
  あしらった星座早見盤、数々の宝石とともにゆったりと廻る人
  馬像、店頭に満ちあふれる華やかな祝祭のムード…。

この二つのシーンには、ともに心憎い天文アイテムが数多く登場しますが、いっぽうはアカデミックで、静謐なモノクロの世界であり、他方は古典的な神話に彩られた、官能的でカラフルな世界というように、鮮やかな対照を見せています。そして、いずれもが賢治の心象風景であり、銀河鉄道の世界を構成する両輪です。

古風な天文趣味に心を寄せる人であれば、両者相まって陶然とするようなイメージを、ただちに脳裏に浮かべることでしょう。もちろん、人によってイメージの細部は異なるでしょうし、実際、絵本化された「銀河鉄道の夜」を見ると、それぞれの画き手がいろいろな描き方をしていることがわかります。

ただ、現実にこの世に存在するもので、その場面を再現しようと思えば、自ずと選択肢は限られてきますし、そうなるとあとは組み合わせの問題で、そう滅多やたらと自由な場面構成はできません。

で、年頭の抱負は果たしてどうなったか。
結論を言えば、それは十分な成果を収めつつあると申し上げましょう。アイテムのいくつかは既に手元にあり、いくつかは我が家に向けて旅の途上であり、いくつかは獲得の目算が立ちました。遠からず、まとめてご紹介することにします。

(昨日につづき、今日も口上だけで、「実物はまた今度」となってしまい、ちょっと何ですが…。)

結晶構造模型2007年10月21日 16時04分25秒

岩塩(NaCl)の結晶構造を示す模型。

私のイメージの中にある理科室は、もっぱら第2分野(生物・地学)で覆われているので、こういう第1分野(物理・化学)系のモノがこのブログに登場するのは、本の紹介を除けば、あるいは初めてかもしれません。

単純明快な立方晶系。塩素を表わす緑の球と、ナトリウムを表す赤い球が、互い違いに整然と並んでいます。理科室にひんやりとした、クールな味わいを求める人には、こうした透徹した明晰さが好ましく思えることでしょう。

ただし、私がこれを買ったのは、緑と赤というカラーリング(生命の色ですね)と、鉄芯がすっかり錆で覆われた風情が、他の生物標本とも程よく調和すると思えたからです。まあ、その当否はともかく、不整形なモノたちの中にこういう硬質な品が一寸あると、部屋の空気も引き締まるような気がします。

上の写真は何か構図が変ですが、だんだん室内に物が増えて、置き場所も不足してきたため、この模型はついに天井進出を果たしました(釣り糸でぶら下がっています。もはや末期的な症状)。

この洒落た分子模型は、残念ながら時代・国籍とも不明ですが、全体の古び方からすると60年代ぐらいのものでしょうか。前の所有者はデュッセルドルフで購入されたそうですので、ドイツ製かもしれません。1辺の長さは球の中心から計って約20センチほどです。