ヴンダーカンマーと理科室2007年09月24日 18時51分38秒

■小宮正安(著) 『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』
 集英社新書ヴィジュアル版、2007

この前、書店で平積みになっているのを見て購入しました。写真はすべて著者撮り下ろしの力作です。(アメリカならすぐに大判の写真集を作るところですが、新書版で出るのが縮み志向の日本ならでは、ですね。)

さて、この本を読んで大いに啓蒙されたことがあります。

以前、理科室のルーツは、自然物・人工物の一大集積たる珍品部屋(cabinet of curiosities)ないし驚異の部屋(Wunderkammer)なのではないか…と書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/03/02/274348)。それは大筋で正しいと思うのですが、ただ、その経過はなかなか屈曲していて、一筋縄ではいかないぞ、ということをこの本に教えられました。

小宮氏の論旨は、氏がヴンダーカンマーと何を対比させているかを見れば明らかです。この本の最終章は「ヴンダーカンマーの黄昏」というタイトルで、ヴンダーカンマーが、啓蒙主義によって攻め滅ぼされていく様を描いています。

ルネッサンス期に生まれたヴンダーカンマーは、「驚異に満ちた混沌」「一切智の空間」をその本質としていたのですが、啓蒙主義の時代となって、理性による「分類と秩序」がそこに対抗原理として持ち込まれ、ヴンダーカンマーは最終的に博物館と美術館へと分離・変質して姿を消した、というのが氏の論旨です(従来は「発展・継承」と捉えていたと思いますが、氏はそこに切断を見ます)。

近年、細分化された学問を超えた「総合的な知=博物学」の復権がスローガン的に叫ばれることがありますが、実は博物学の誕生こそが「知の細分化」の露払いを担ったわけで、これはある意味マッチポンプな主張です。

私自身、これまで博物趣味をヴンダーカンマーの直接の後身としてイメージしており、だからこそ理科室に堆積する博物標本のテイストを、ヴンダーカンマーの残影と思っていたわけですが、それは事態を単純化しすぎていました。要するに、ヴンダーカンマーは、現代の我々からすると、二重の意味で包括的な智の体系であり、それだけ遠い存在なわけです。

ただし、理科室趣味の香気は、理科室を作り上げた教育者の意図とは一寸ずれている部分があって、一部にはヴンダーカンマーへの先祖返り的な志向が強くあるように思います。理科室好きの中にも、怜悧な理知の輝きを愛する人と、反理性的な秘儀・秘教的なものに強く惹かれる人が並存しているように見えるのは、そうした歴史が影響しているのではないでしょうか。

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