タルホ、大いに怒る ― 2025年12月28日 08時35分41秒
昭和46年(1971)の日付けを持つ、稲垣足穂の自筆葉書が手元にあります。
「御便り拝見 そちらはそちらで「顔」ということもありますから 出版紀念会をおやりになったらよいでしょうが、私は、メッセージなど、そんないじましい小細工を弄すことをするのは真平です。文学作品刊行は原則として「有害無益」 まして出版紀念会など、一般人に対して威張る根拠がどこにあるか。そのようにおつたまえ〔ママ〕下さい」
文字も文章も乱れているし、しかもそれを速達で送りつけているのは、怒り心頭だったのでしょう。1971年当時の足穂は坊主頭で、逆立てる頭髪を持ちませんでしたが、気持ちの上では怒髪天を衝く思いだったかもしれません。
葉書をもらった藤井宗哲(ふじいそうてつ、1941-2006)は、臨済宗のお坊さんで、鎌倉建長寺で修行僧の食事を調える「典座(てんぞ)」役を務め、後に日本料理研究家として、また演芸評論家として文名を挙げた人。1971年当時は、まだ30歳の青年僧です。(気付先の鎌倉雪ノ下の「くるみ」は、今も続く甘味喫茶です。)
国会図書館のデータベースを見ると、藤井が関わった出版物は、1974年に出た落語協会(編)『艶笑・廓ばなし』が最初で(藤井はその解説文を書いています。ずいぶんさばけたお坊さんですね)、1971年当時はまだ著書を持ちませんでしたから、これは第三者の出版記念会に足穂のメッセージがほしいと、藤井を通じて依頼があったことへの返書でしょう。
返事をもらった藤井も、まさか文面通り相手に伝えることもできず、相当困ったと思いますが、でも足穂の文学観を知る上で、これは貴重な一枚だと思います。何せ文学作品刊行は「有害無益」と言い切っているのですから。果たしてそれまでの自身の行いは何だと思っているのか、少なからず不思議な気もします。
へそ曲がりの足穂のことですから、所詮文学は「よしなしごと」であり、「狂言綺語(きょうげんきご)の堕地獄のわざ」と観じていたか、文学の目的は「書くこと」それ自体であり、それによって名利を求めるなどもってのほかと考えたか、いずれにしても出版記念会などは俗も俗、俗の最たるものと考えていたのは確かでしょう。
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ただ、足穂の怒りの矛先は、もっぱらその出版記念会の主に向けられており、藤井に対する悪感情はなかったと思います。藤井と足穂の関係は、同じ1971年に足穂夫人である稲垣志代さんが出された『夫 稲垣足穂』に生き生きと描かれています(222-3頁。〔 〕内は引用者)。
二、三年に一度か二度、托鉢姿の藤井宗哲さんが訪ねてこられる。
彼は京都から埼玉まで、歩いて行ったことがあった。紅葉で有名な高尾のお寺にいたかと思うと、大阪湾の見える河内の山からお便りがあったりする。和歌山からは、自作のじゃが芋を持ってきてくれた。
稲垣は「あれがほんまの雲水や」といっていたが、訪問が重なるにつれ、しだいに風格も備わり、坊さまらしいお辞儀も鮮やかになってきた。稲垣は、
「どうやらほんものらしいなってきたなあ。挨拶が板についてきた」
彼は、稲垣の作品をどこでみるのか、新聞のコラムから雑誌の編集後記評まで知っていて、自ら稲垣門下の一員だと称していた。
鎌倉の建長寺から修行中との便りがあり、その後養斉の家〔※桃山町養斉は足穂が住んだ土地の名〕にみえて、お寺での修行の日常など語られた。私は「人間わざでない」と感心させられた。稲垣は、
彼は京都から埼玉まで、歩いて行ったことがあった。紅葉で有名な高尾のお寺にいたかと思うと、大阪湾の見える河内の山からお便りがあったりする。和歌山からは、自作のじゃが芋を持ってきてくれた。
稲垣は「あれがほんまの雲水や」といっていたが、訪問が重なるにつれ、しだいに風格も備わり、坊さまらしいお辞儀も鮮やかになってきた。稲垣は、
「どうやらほんものらしいなってきたなあ。挨拶が板についてきた」
彼は、稲垣の作品をどこでみるのか、新聞のコラムから雑誌の編集後記評まで知っていて、自ら稲垣門下の一員だと称していた。
鎌倉の建長寺から修行中との便りがあり、その後養斉の家〔※桃山町養斉は足穂が住んだ土地の名〕にみえて、お寺での修行の日常など語られた。私は「人間わざでない」と感心させられた。稲垣は、
「薄いカユと、親指の先ほどの焼きミソと、タクアン二切れでやっていく自信は、ぼくにもある」
といったが、私は思った。
<しかしあなたには、それに斗酒がつく>
といったが、私は思った。
<しかしあなたには、それに斗酒がつく>
まあ、それだけ心安い相手だから、これだけ毒づくこともできたのでしょう。
★
1900年12月26日、稲垣足穂誕生。
一昨日は、彼の125回目の誕生日でした。
それを記念して、今日は兵庫県芦屋の「月光百貨店」さんで「Taruholic Cafe タルホリックカフェ vol,3」が開催(14~20時)されるというご案内を先日いただきました。俗世のしがらみで伺えない私も、こうして足穂の肉声をお届けすることで、イベントに協賛させていただきます。
葉書のタルホは大いに怒っていますが、こうして稲垣門下が連綿と続いていることを知れば、きっと相好を崩すと思います。
コメント
_ S.U ― 2025年12月28日 15時16分40秒
_ 玉青 ― 2025年12月29日 10時44分32秒
いやあ、記事では上のように書きましたけれど、足穂の酔言(本当に酔っていたかもしれません)を真に受けるにも及ばず、これは深遠な文学論の開陳というより、単に件の出版記念会の主のことを、日ごろから余程いけ好かない人間と思っていたためではないでしょうか。これが好ましい相手からの依頼だったら、なんぼ足穂でも、メッセージのひとつやふたつ喜んで書いたろうと思います。まあ、乙に澄ました鎌倉文士(とは書いてませんが)など、足穂からすれば屁みたいなものだったのでしょう。要は、「文学作品刊行は原則として「有害無益」」という一文の頭には、「あんな奴が書いた」という気分が隠れていた…というのが、私の想像です。
_ S.U ― 2025年12月29日 15時22分26秒
おぉ、これは、両説出ましたね。
足穂も新刊にメッセージを書いたことはありましたかね。この時は誰だったんでしょうね。
そうだとしても、足穂は「文学」とは自称しないような気は、本気でしています。別に文献の根拠があるわけではありませんが。
足穂も新刊にメッセージを書いたことはありましたかね。この時は誰だったんでしょうね。
そうだとしても、足穂は「文学」とは自称しないような気は、本気でしています。別に文献の根拠があるわけではありませんが。
_ 玉青 ― 2025年12月29日 18時02分26秒
そこですね。足穂は全く心にもないことを書いたわけではなく、やっぱり自身も含めて、文学に対する有害無益の思いは心のどこかにあったのでしょう。その辺は「重ね合わせ」の心理状態だった…と見るのが至当かもしれませんね。
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どういうことなのでしょうか。初めて知りました。
思いますに、ひょっとすると、足穂は、何らかの事情によって、文学作品の創作とはとうの昔に決別した、ということなのかもしれません。足穂の書き物が文学でなければ、彼が言っていた「すべて『一千一秒物語』の注釈」ということなのでしょう。あるいは、過去作品の校訂と文化哲学評論だったのかもしれません。たとえば、彼自身は昭和10年代のどこかで文学創作は止めたことになっていて、『明石』あたり以降の作品は文学ではない、と解釈できませんでしょうか。どこかの時点で「自分は文学をやめる」と言っていたらこれが証明できますが、そういうことはないでしょうね。