プラハの3人の男2025年09月13日 16時20分59秒

9月4日の記事で、チェコのプラネタリウムのハットピンを載せましたが、そのときチェコの「天文小間物」と同時に、「天文荒物」のことも思い浮かべていました。


神聖ローマ帝国の首都プラハの一隅で、かつてあったであろう歴史ドラマ。
1960年代頃、プラハの「チェコスロバキア教職員組合中央出版」から出版された教育用掛図です。紙面サイズは94×63cmと、「天文荒物」と呼ばれる資格は十分。


キャプションは、「チェコの歴史画 第23、V・ストリーブルニー画 『ルドルフ2世とティコ・ブラーエ』」


右手に立つのは、ディバイダを手に天球儀を指さしながら宇宙論を語るティコ・ブラーエ (1546—1601)、その話に耳を傾ける黒いローブ姿の人物は、ティコのパトロンだった神聖ローマ皇帝ルドルフ2世 (1552—1612)です。

ティコがルドルフに仕えるようになったのは、最晩年の1599年で、ティコはその2年後に死去していますから、二人の関係は驚くほど短かったわけですが、この絵では両者の風貌を似せることで、その親密さを表現しているのかもしれません。

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そしてもう一人注目すべき人物が、ふたりの間に亡霊のように立つ男。
タイトル中には一切言及がありませんが、画面のちょうど中央に描かれた彼こそ、この絵の隠れた主題であり、言うまでもなくヨハネス・ケプラー(1571—1630)その人だろうと思います。ティコやルドルフと比べて相対的に若い彼は、ここでは無髯の男として描かれていますが、細身の黒衣を着こなした姿は、肖像画でおなじみの姿そのままです。彼は、窓際で星明かりに照らされ、師匠ティコよりも一層「星の世界に近い男」であることが暗示されているようでもあります。

ケプラーは師匠の後任としてルドルフ2世に仕え、1612年にルドルフが死去するまでプラハにとどまりました。

ケプラーには「師匠の観測データを簒奪した男」という悪い風聞がつきまとい、あろうことか、生前から師匠毒殺疑惑までささやかれていましたから、この1枚の絵は科学史の一場面であると同時に、そうした複雑な人間模様を描いたものとして、教室で先生が絵解きをする際も、「ここから先は先生の想像だけどね…」と、生徒たちの注意を引き付けながら、思い入れたっぷりに語って聞かせる光景が、チェコスロバキアのあちこちであったんじゃないでしょうか。

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この絵は直接チェコの人から購入しましたが、その後、ニューヨークの George Glazer Gallery で、同じ絵が売られているのを目にしました。グレイザー氏による解説から、絵の作者に関する部分を引用させていただきます。

 「ウラジーミル・ストリーブルニー〔Vladimír Stříbrný, 1905—1970〕は、アカデミックで写実的なスタイルで風俗画、静物画、肖像画、裸婦像を描いたチェコの画家です。彼はプラハ美術アカデミーで学びました。プラハのトピッチ・サロンで個展を開催し、1940年代から50年代にかけて、当時のチェコスロバキア(現在のチェコ共和国)で定期的に展覧会を開催しました。プラハ美術家連合の活動的な会員でもありました。」

グレイザー氏は、この戦後に刷られたポスターにかなり心を動かされたらしく、4年前に見たときは、実に2,500ドルの値札をつけていました。まあ、さっき見たら【LINK】、900ドルに値下げされていましたけれど、それでもかなりの高評価です。もちろん私が払った代価はそのはるか手前で、グレイザー氏の値付けだったら購入する気にはならなかったでしょうが、この辺は各自の価値観のしからしむるところで、そこに買い物の妙味もあります。

コメント

_ S.U ― 2025年09月14日 09時53分24秒

「ケプラー疑惑」というのは昔からあるんでしょうね。それ自体、興味あることだと思います。
 ここから先は私の想像ですがね・・・、ケプラーが彼が興味を持っていたかもしれないコペルニクス説の証明をしようと思ったら、『天体の回転について』とラフなティコモデルの太陽系図で、ケプラーの第3法則を発見することが絶対的証拠としての必要十分であって、それは、第3法則のアイデアを持った時点ともだいぶ時間差があるので、その動機ではデータを盗んだりましてや手を下すほどではないと思います。ただ、精密データ解析による宇宙観のパラダイムシフトをこの時代に見抜いていたら話は別ですが。冒頭の題の書物は読んでいないので詳しいことはなにも知りません。

_ 玉青 ― 2025年09月15日 11時08分16秒

私もなまかじりで書きますがね(笑)…どうも『ケプラー疑惑』を読むと、ケプラーは第一主著『宇宙の神秘』(1595)の証明を得るために、ティコのデータを何としても手に入れたかった、それがティコに接近した最大の理由であり、「毒殺」の動機でもあった…ということらしいです。その流れでいうと、ケプラーの3法則の発見は、その(果たせなかった)証明の過程で生まれた副産物だったことになるんですが、それが歴史的に正しい理解かどうかは、もはや想像の埒外でして…

_ S.U ― 2025年09月15日 15時30分09秒

そういうことなんですね。ケプラーは、各軌道の軌道半径の比を確定したかったことになりますが、元来のプトレマイオスモデルでは、比を観測から確定することはできないので、データがほしかったということは、ティコかコペルニクスの体系の原理に移るという決断をせざるを得ず、古典的な球殻モデルの関係ではジレンマを抱えたことでしょうね。真実はわかりませんが、ジレンマを抱えたことは史実なように思います。

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