明治の望遠鏡についてのメモ2026年02月17日 06時04分20秒

これまでぼんやりと疑問を感じながら、知識が空白のままになっていたことがあります。

まあ私の場合、そういう空白はたくさんあるのですが、その一つが明治の望遠鏡事情です。すなわち明治時代の日本には、望遠鏡を製造していたメーカーが果たしてあったのか、なかったのか。もちろん事情通の方は先刻ご承知かもしれませんが、私はそれをはっきり知らずにいました。

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江戸時代の日本では、盛んに遠眼鏡が作られ、浮世絵にも描かれました。

(葛飾北斎、連作「風流無くてなゝくせ」のうち『遠眼鏡』。出典:ウィキペディア「遠眼鏡」の項

ですから、望遠鏡製作の基礎はすでに十分あったわけで、文明開化とともに、そこに新来の技術が加わり、新しい望遠鏡づくりの職人が生まれ…というのも、十分ありうるストーリーではあります。ただ、それは頭の中で想像するばかりで、実態は杳として知れませんでした。

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私の蒙を啓いてくれたのは、1冊の小冊子です。


(財)科学博物館後援会(発行)、『わが国の望遠鏡の歩み』(全57頁)。
昭和39年(1964)、ガリレオの生誕400年にちなんで、特別展「わが国の望遠鏡の歩み」が科博で開催された折に作られたものです(各項の執筆者は無署名で、「あとがき」を村山定男氏が書かれています)。

(目次と冒頭)

何せ60年以上前の資料ですから、情報としては古いのですが、少なくとも私の知識の空白を埋めてくれる役は十分果たしてくれました。

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問題の記述は、「3.日本の望遠鏡の歴史(2) ―明治以降―」(pp.21-28)に出てきます。いくつか記述を書き抜いてみます(太字は引用者)。

 「江戸時代からの伝習による一閑張の望遠鏡なども初期にはまだいくらか作られていたようであるが、やがて舶来の新式望遠鏡が続々と入ってきた。後にはそれらを模倣して国産品をつくりだす努力がはじめられたが、しばらくは舶来万能であった」(p.21)

つまり、日本の望遠鏡製造史は、江戸と明治の間に大きな断絶があり、「遠眼鏡時代」と「国産望遠鏡普及時代」の間に「舶来万能時代」がはさまっている…というのが大まかな構図です。ですから、上で述べた私の想像は端的に言って間違いです。

ただし望遠鏡はそうであっても、レンズ研磨に関しては部分的に合っていた点もあります。引用を続けます。

 「掛け眼鏡の玉も、昔は一つ一つ手工業的にみがかれていたが、明治6年オーストリヤのウィーンに開催された万国博覧会に参加した人達によって、他のいろいろな技術と共に西洋流のレンズ研磨法も持ちかえられた。眼鏡研磨法を伝習して帰ったのは朝倉松五郎という人で、レンズ研磨機もこの時はじめて持ちかえられ、また研磨に紅殻を用いたのもこのときがはじめてであったという。
 この朝倉は明治9年わずか34才で没したが、その弟子たちによって、眼鏡玉の製造をはじめ、わが国のレンズ工業のもとがきずかれた。」(pp.21-22)

なるほど、望遠鏡よりは眼鏡の方が圧倒的に需要も多かったわけですから、そちらの国産化の方が先行したのは至極当然です。

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では肝心の国産望遠鏡はいつからか?といえば、それは明治も最末期のことです。
明治42年(1909)に、元海軍技師の藤井竜蔵が「藤井レンズ製造所」を設立し、明治44年(1911)に「ビクター双眼鏡第1号」を完成。

(藤井竜蔵に関する記述(部分))

その後の歴史は広く知られるとおり、大正6年(1917)に、藤井レンズ製造所と東京計器製作所の光学部門、岩城硝子製作所の探照灯製造部門が合併して、「日本光学工業株式会社」(現ニコン)が創設され、日本の光学機器製造に画期がもたらされました。といっても、この頃はまだ「舶来品」も幅を利かせていたのですが、光学製品の国産化はその後着実に進展していくことになります。

そして、大正15年(1926)には、同社から独立した五藤斉三が「五藤光学研究所」を創設し、アマチュア向け望遠鏡の本格供給も始まりました。

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明治41年(1908)に日本天文学会が、大正9年(1920)に東亜天文協会が設立されたのは、こうした国産望遠鏡製造のタイミングとぴたりと重なりますが、望遠鏡の供給体制と天文趣味の興隆は、いわば「ニワトリと卵」の関係かもしれません。