星空浪漫、明治から大正へ(2) ― 2025年08月04日 06時56分58秒
ここで時計の針を14年ばかり進めます。
以下、古川龍城(著)『星のローマンス』(大正13/1924)の「はしがき」より。
「夜こそ我が世界なれ」と、かく一言したゞけで、何人もその中には一切の歓びと、憧れとの残りなく包まれてあることを、自分自身で忽ち直感するであらう。
著者は右の一言で人々が直感した、その通り寸分違はない心持で、夕陽、山のあなたに寂滅して、満天の星高く冴え、満都の灯(ともしび)賑やかに閃く、夜の世界を何物にかへても愛着しようとする。
春宵一刻価千金、更け行く夜の空気の生温(なまぬる)さ、しんと静まった一室に恋人と語った春の夜、数行過雁月三更、明月を仰いで再嘆三嘆した秋の夜、げに思ひ出は尽けども尽きず、帰れども止まらない。」
著者は右の一言で人々が直感した、その通り寸分違はない心持で、夕陽、山のあなたに寂滅して、満天の星高く冴え、満都の灯(ともしび)賑やかに閃く、夜の世界を何物にかへても愛着しようとする。
春宵一刻価千金、更け行く夜の空気の生温(なまぬる)さ、しんと静まった一室に恋人と語った春の夜、数行過雁月三更、明月を仰いで再嘆三嘆した秋の夜、げに思ひ出は尽けども尽きず、帰れども止まらない。」
一読して分かるように、大正期の天文書では、星空は明瞭に情緒的・感覚的な“ローマンス”の対象となっています。ひょっとしたら明治の学者だって、そうした思いを胸に秘めていたのかもしれませんが、それをあからさまに語ることに一種の含羞があって、そこに「科学のロマン」の衣を着せていたのかもしれません。しかし、大正時代になると、そのためらいが消えます。
(星座神話を主体にした本書の内容を象徴するタイトルページ)
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続いて、野尻抱影(1885-1977)のデビュー作、『星座巡礼』(初版・大正14/1925、引用は昭和6/1931第7版)の「序」より。
「花が植物学者の専有で無く、また宝玉が鉱物学者の専有でも無いやうに、天上の花であり宝玉である星も天文学者の専有ではありません。毎夜僅かの時間に僅か目を常の高さより挙げるだけで、吾々は思ふまゝに彼等の美を楽むことが出来るのです。〔…〕
素人の天文家には難しい学理や、学者自身さへ実感の無い長々しい数字などは当面の事ではありません。花を味ふのにも宝玉を楽むのにも多少の知識は要る、あの程度の知識を星に就いて得れば、星は其の人に漸次(しだい)に微妙なる魅力を加へて来るのです。〔…〕
しかも更に進んで星座を知るに及んで、吾々は宝玉を以て描かれた天図が夜々周ってゐることに驚喜します。希臘へ、伊太利へ、スカンディナヴィアへ、――地上の美しい国々へは旅したいと思っても、事情によって一生そこを訪れる事が出来ないかも知れない。然るに天界の八十八座は吾々が安座してゐる頭の上を毎夜ぢりぢりと動いて、次々に優麗荘厳なる天図を展開して行くのです。」
素人の天文家には難しい学理や、学者自身さへ実感の無い長々しい数字などは当面の事ではありません。花を味ふのにも宝玉を楽むのにも多少の知識は要る、あの程度の知識を星に就いて得れば、星は其の人に漸次(しだい)に微妙なる魅力を加へて来るのです。〔…〕
しかも更に進んで星座を知るに及んで、吾々は宝玉を以て描かれた天図が夜々周ってゐることに驚喜します。希臘へ、伊太利へ、スカンディナヴィアへ、――地上の美しい国々へは旅したいと思っても、事情によって一生そこを訪れる事が出来ないかも知れない。然るに天界の八十八座は吾々が安座してゐる頭の上を毎夜ぢりぢりと動いて、次々に優麗荘厳なる天図を展開して行くのです。」
これぞ天文学の王国から天文趣味が独立を果たした、力強い「独立宣言」です。
星の美を味わうのに天文学は不要だ…とまでは言わないにしても、それが無くとも星の美は十分味わえると、抱影は言うのです。
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抱影は天文趣味を自然科学から文学へと大きく接近させましたが、そこには抱影の青年期の体験が色濃く影響しています。『星座巡礼』には、著者・抱影による「序」とは別に、友人・相馬御風(1883-1950)による「序文」が寄せられています。
「〔…〕僕は今大兄からおくられた其の懐しい書物の一部を手にして、二十一二年も遠い過去の涙ぐましい追憶に耽られずにはゐられませんでした。
二十余年前、早稲田の学窓で始〔ママ〕めて大兄と不思議な深い交りを結ぶやうになったあの頃のことを憶ひ起すと、僕は今でもたまらない懐しさを覚えます。あの頃は日本の文壇の趨勢もさうであったが、とりわけ僕たちの仲間は若くして清い夢見る人のあつまりであったやうな気がします。そしてあの頃既に星と神話とにかけては驚くべく深く且広い造詣のあった大兄は、僕たちの夢見る者にとりては最も華やかな先達の一人でした。ワーズワース、コーリッヂ、スコット等の湖畔詩人を始めとして、ブレーク、シェリー、キーツ、ロセチ等のイギリス浪漫派の詩人達の生活とにとりわけ熱烈な思慕を寄せてゐた僕たちの美しい純な心に、大兄の星と神話との誘ひがどんなに強い魅力を持ってゐたかは、今でもはっきりと思ひ出すことが出来ます。〔…〕
あれからもう二十幾年かの歳月がいつの間にか過ぎてしまひました。その二十幾年かの間に僕の心も実にさまざまの変遷を経て来ました。世間の思潮も、文芸界の思潮も、むろんその間には複雑極まる変転を閲してゐます。しかし僕は自分の過去を顧みて、自分らの貴い青春期をロマンチシズムの思潮に浸潤されてゐた時代のうちに過し得た事を。恵まれたる一つの幸運として感謝してゐます。」
二十余年前、早稲田の学窓で始〔ママ〕めて大兄と不思議な深い交りを結ぶやうになったあの頃のことを憶ひ起すと、僕は今でもたまらない懐しさを覚えます。あの頃は日本の文壇の趨勢もさうであったが、とりわけ僕たちの仲間は若くして清い夢見る人のあつまりであったやうな気がします。そしてあの頃既に星と神話とにかけては驚くべく深く且広い造詣のあった大兄は、僕たちの夢見る者にとりては最も華やかな先達の一人でした。ワーズワース、コーリッヂ、スコット等の湖畔詩人を始めとして、ブレーク、シェリー、キーツ、ロセチ等のイギリス浪漫派の詩人達の生活とにとりわけ熱烈な思慕を寄せてゐた僕たちの美しい純な心に、大兄の星と神話との誘ひがどんなに強い魅力を持ってゐたかは、今でもはっきりと思ひ出すことが出来ます。〔…〕
あれからもう二十幾年かの歳月がいつの間にか過ぎてしまひました。その二十幾年かの間に僕の心も実にさまざまの変遷を経て来ました。世間の思潮も、文芸界の思潮も、むろんその間には複雑極まる変転を閲してゐます。しかし僕は自分の過去を顧みて、自分らの貴い青春期をロマンチシズムの思潮に浸潤されてゐた時代のうちに過し得た事を。恵まれたる一つの幸運として感謝してゐます。」
抱影が早稲田で学んだのは、明治35年(1902)から39年(1906)までです。
世はまさに与謝野鉄幹・晶子夫妻の文芸誌、『明星』(明治33/1900創刊~明治41/1908終刊)の全盛期。抱影自身、早稲田在学中に『明星』の亜流といえる『白百合』の発刊に関わり、ハイカラで甘やかな明治浪漫思潮にどっぷりつかっていた…というのが、上の御風の文章の背景にあります。
(この項つづく)
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