花粉症盛衰記2026年03月21日 11時05分12秒

花粉症になってひどく頭が重いです。
思考力のみならず身体動作も影響を受け、キーボードを叩いていても、やたらタイプミスが目立ちます。

ところで花粉症、特にスギ花粉症って、いつから騒がれるようになったのかな?と気になり、例によって国会図書館のデジタルコレクションを見ていました。まあ成書には書かれていることかもしれませんが、自分なりに調べることも大事ですから、ここにサラッとメモ書きしておきます。

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ちょっと驚いたのは、1955年の「熊本医学会雑誌 29(補冊第5)」で、村上不二郎という耳鼻咽喉科の先生が、「本邦に於ては枯草熱、花粉症の如き或る特定抗原による定型的アレルギーが極めて少ないので…」云々と書いていることで、当時はスギに限らず、花粉症一般が本当に稀だったみたいですね。

その後、1958年の「第23回日本温泉気候学会」における発表演題に、「花粉症の研究(Ⅰ)空中花粉落下数の気象学的調査(其の一)」というのがあって(著者は荒木英斉・石崎達/「日本温泉気候学会雑誌 22(2)」所収)、この頃になって、花粉アレルギーがようやく日本でも認知されてきたようです。ただし、ここで検討されているのは、マツ属と Ragweed(ブタクサ)の花粉のみです。

(ブタクサ。ウィキペディアより)

そんな中、決定的ともいえる論文が1964年に出ました。

■堀口申作・斎藤洋三
 栃木縣日光地方に於けるスギ花粉症 Japanese cedar pollinosis の發見
 「アレルギー 13」1-2(1964年1月)

これは厚労省の「花粉症Q&A集」でも、スギ花粉症の初報告として言及されている記念碑的論文です。何せ「発見」ですから、スギ花粉症はこのとき研究者によって突如見出されたわけです。

ただし、当該論文は国会図書館のデータベースでは読めず、医・歯・薬学系の文献を抄録した「醫學中央雜誌」にタイトルがちょろっと出てくるだけです(194(3)、1964年3月)。でも、同じ著者による以下の論文は、その内容(抄録)を読むことができました(「醫學中央雜誌 201(1)」、1964年11月 所収)。

■堀口申作、斎藤洋三(東医歯大)
 スギ花粉症 Japanese cedar pollinosis に関する臨床的観察」(会)
 「日本耳鼻咽喉科学会会報 67(3増刊)」 532 (1964年3月)
  ※「(会)」は原著論文でなしに、学術集会等で発表されたものを意味する略号。

 「栃木県日光地方で杉花粉を Allergen とする花粉症を21例経験した。発病は三~四月に限られ、杉花粉が空中に撒布される時期に一致する。全例に鼻症状を認め、次いで眼結膜症状、咽頭症状等が見られる。好酸球増多は全例の鼻汁中に認められ、血中では16例が1m㎥中300以上を示した。鼻粘膜には急性乃至亜急性Allergie の組織像が見られ、杉花粉に因る皮内反応は21例中15例に陽性であった。」

(スギの雄花。同上)

これぞまさにスギ花粉症なんですが、この頃は何だか栃木県日光地方の風土病みたいな扱いですね。

さらに時代が下って、1970年7月の「醫學中央雜誌 259(2)」になると、

○Japanese cedar pollinosis
○二三の花粉症(Pollinosis)と其治療(特に減感作療法)
○空中飛散花粉(1)豚草花粉
○Italian rye grass 花粉症の一症例
○鼻 Allergy の Allergen 皮膚反応に関する二三の問題(花粉症の研究)(2)

といった論文が並んでいて、花粉症もすっかり市民権を得た観があります。
ここで上記の1番目と2番目の論文の内容(抄録)を引用しておきます。

■古内一郎、豊田安治、増野肇、坂野良一、高村節(日医大)
 Japanese cedar pollinosis(会)
 「アレルギー18(5)」415(1969年5月)

 「鼻 Allergy 34症例に就て検索した。杉の開花期に当る三月から四月に掛けて特有の鼻Allergy 症状を呈し、五月になると症状が消失する。年齢は5歳~55歳で、男19例、女15例である。家族歴に Allergy 歴のある者は18例であった。杉花粉に由る鼻粘膜反応は34例中29例に陽性で、此29例に Prausnitz-Künstner反応を行い、22例に陽性であった。〔以下略〕」

■宮部勲(慶大)、
 二三の花粉症(Pollinosis)と其治療(特に減感作療法)、
 「三越厚生事業団研究年報 4」83-92(1968年12月)

 「花粉症の中春先に起るスギ花粉症は著名である。ブタ草花粉症は九~十二月、スギ花粉症は三~五月に陽性率が高く、開花期に略一致して居る。効果判定は減感作療法の場合は開花期を過ぎてから継続して行うべきである。スギ花粉症15例とブタ草花粉症17例を検討し、自覚症状の改善と皮内反応減弱の間には並行関係はなかった。継続的減感作療法が有効であった症例は治療後の誘発反応が著しく減弱して居た。手術療法では下甲介切除術が有効であった」

宮部氏は「春先に起るスギ花粉症は著名である」と言い切ってます。
この頃には、老いも若きもさかんにクシュンクシュンするようになり、それだけ治療も喫緊の課題だったのでしょう。

この論文が発表されてから、すでに60年近くが経ちますが、当時から減感作療法に取り組んでいたことを誉めるべきか、あるいはその後も、これが唯一の根本治療であることを心もとなく思うべきか、まあそこが「文明病」とも呼ばれる花粉症のやっかいなところでしょう。世の中の「進歩」につれて、「異常な環境に対する正常な反応」が病気と見なされることが増えましたが、花粉症もその例かもしれません。

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その後、スギ花粉症はさらに猖獗を極め、私自身もついにそれに苦しめられることになったわけですが、今回、「スギ花粉症」を検索語として国会図書館の資料を探しているうちに、ちょっと面白いことに気づきました。この語を含む資料の出版年の分布です。

・1960~1969   14点
・1970~1979   96点
・1980~1989  900点
・1990~1999 2,491点
・2000~2009  541点
・2010~2019  399点
・2020~     104点

Excelでグラフにしてみると、こんな感じです。
 

スギ花粉症は70年代、80年代、90年代とうなぎ上りに世間の耳目を集めたあと、2000年以降は急速に活字となることが減りました(この傾向は「スギ花粉症」の代わりに「杉花粉症」としても、また雑誌を除く図書だけを検索しても変わりません)。スギ花粉症が社会問題となったのは、その意味で1990年代特有の現象でしょう。

その後は対症療法が進歩したせいもあるし、花粉症がごく当たり前の存在となったせいで、あまり話題にならなくなったということもあるでしょうが、何にせよ人間は何にでも慣れてしまうものです。

余談ながら、「アトピー性皮膚炎」を検索語にしても、まったく同じようなグラフが描けるのも、これまた興味深いことだと思いました。この二つはきっと何か関係があるでしょう。



【2026.3.22付記】 
…と思ったものの、これは単に、2000年代以降の出版物は、まだデジタル化と全文検索が不十分であることの反映に過ぎないような気もしてきました。その場合、上の結論は勇み足であり、誤っていることになります。詳しい方のご教示を待ちます。

銀河と彗星2026年03月19日 18時55分01秒

2026年3月19日。

この日はある男性が花粉症を発症した日として、男性の周囲では永く記憶されるでしょう。花粉症はいきなり来る―。たびたび聞かされたことは都市伝説ではなく、きわめて正確な陳述でした。

ところで3月19日にちなむ事柄をネットで見ているうちに、次のような事実を知りました。

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1945年3月19日。

すでに本土空襲が常態化し、太平洋戦争も最末期の頃です。
その最前線で立ち働いていた米空母に「フランクリン」という艦がありました。

この日、「フランクリン」は神戸港攻撃のため、多数の艦載機を載せて高知沖を進んでいたのですが、そのとき雲を抜けて一機の日本機が突如として現れました。同機は2発の徹甲爆弾を投下し、いずれも甲板を貫通。艦上・艦内で次々と誘爆を引き起こし、フランクリンは激しい炎に包まれ、辛うじて沈没は免れたものの、死者700名あまりという大変な被害をこうむったのです。

すでに反撃能力を大幅に欠いていたいた日本からすれば、まさに「大殊勲」ですが、米軍の迎撃により爆裂四散したこの日本機を操ったパイロットの名も、そもそもどの部隊に属する何という機だったのかも、今では正確な資料が残っていないそうです。ただし識者よれば、おそらく第762海軍航空隊所属の陸上爆撃機「銀河」、もしくは第701海軍航空隊所属の艦上爆撃機「彗星三三型」だろうとのこと。

軍用機に「銀河」「彗星」という名を与えた関係者の思いを「ロマンチシズム」と呼ぶことにはためらいを覚えますが、やはりそこには。なにがしかのロマンチシズムが漂っていたことも確かでしょう。

とはいえ、「銀河」や「彗星」にまたがって洋上に散った若いパイロットが最後の瞬間に何を思ったのか、そして燃え盛る炎に焼かれたアメリカ兵たちの最期を思うとき、このロマンチシズムは、いかにも苦いです。されど…と、ここで再び逆接とともに、いくつかの言葉を飲み込むのですが、この辺はなかなか曰く言い難いですね。

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諸人の等しく安らかならんことを。

(天の川とアトラス彗星。Image by ぱくたそ)

混沌からの秩序2026年03月18日 05時43分59秒

ハレー彗星の絵葉書を載せ、その絵葉書が載っている本を載せました。
しかし、その陰にあった苦闘についても、苦闘を味わった本人として書いておきたい気がします。

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この前の土日、例の絵葉書をネタに記事を書こうと思ったところから、苦闘は始まります。記事でも書いたように、この絵葉書は以前ハレー彗星に関する本で見た記憶があったので、ついでに写真を撮ろうと思って本を探したのですが、あるべきはずの所にありません。「おかしいなあ…」と、あちこちに積み上がった史料や本をどけているうちに、だんだん辺りが混沌としてきました。

「こんなことではいかん、あるべき物があるべき場所にないと、私の余生は探し物で終わってしまう」と一念発起、片付けを始めたのが土曜の朝のことです。それから延々と片付けを続け、最終的に終わったのは日曜の朝のことでした(徹夜したわけではありませんが)。


その成果の一端が上の写真です。
何がどう片付いたのか、これだけだと分からないと思いますが、本棚と天井の隙間が、これまではいちばんの「魔所」でした。何となく手頃な空間なので、何でもとりあえず突っ込んでしまいがちだったからです。

片付いた状態を改めて見るとどうでしょう、本の“スカイライン”が揃っていますよね。そして何よりも背表紙が見える。これが私にとってはすごいことなのです。

“エントロピーの局所的減少は、外部からのエネルギー供給によって行われる”。そのエネルギー供給こそが、私の苦闘の正体に他なりません。私は熱力学第2法則に果敢に挑み、そして部分的勝利を得たのです。

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片付けの過程で、まったく存在を忘れていた品や、そもそもなぜ買ったのか思い出せない品を見つけて、うろたえもしたし、嬉しい驚きを味わいもしました。まあ、それだけモノを買っても、買った当人はちっとも成長していないのは遺憾ですけれど、このブログにとっては裨益するところ大で、そこからまたいろいろな物語ならぬ「モノ語り」が始まることでしょう。

19102026年03月16日 22時15分54秒



ひどく分りやすい絵葉書です。
一見して、1910年を記念するニューイヤーカードとすぐ分かります。

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1910年はハレー彗星の年でした。
その近日点通過は4月20日で、さらに1か月後には地球に最接近し、その壮麗な、あるいは畏怖すべき姿を人々の目に焼き付たのです。(最接近時の距離は0.15AUといいますから、月までの距離の約60倍、火星最接近時の距離の半分弱です。遠いといえば遠いですが、この広い宇宙の中では、たしかにかなりの接近です。)

この年のハレー彗星は、「彗星騒動」の面が強調して伝えられがちですが、パニックになったのはごく一部の人で、大多数の人は「ふーん、彗星ねえ…」ぐらいの感じだったんじゃないでしょうか。当時の新聞では、彗星よりも国際紛争や景気の話題の方が大きな扱いだったことはもちろんです。


この絵葉書はハレー彗星がくる前年、1909年に作られたもので、例によってドイツ製。その繊細なクロモリトグラフと、金のエンボス加工に、ドイツ製絵葉書の黄金時代が偲ばれますが、ここでもハレー彗星は「怖いもの」というより、ひたすら「愛すべきもの」とイメージされていることが分かります。

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この絵葉書は以前、1910年のハレー彗星グッズのコレクター氏(ひどくニッチなコレクターですね)の本で見た記憶がありました。


著者の Roberta Etter と Stuart Shneider の両氏は、表紙ばかりでなくタイトルページにもこの絵葉書を登場させているので、かなり思い入れがあったのでしょう。


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絵葉書の裏面を見ると、消印は1909年12月30日付けで、あて先はシカゴに住む「Master Victor Herman」です。「マスター・ヴィクター・ハーマン」と聞いて、私は最初立派な髯の紳士を想像しましたが、AIによれば、「Master」というのは、「Mr.」未満の子どもに使う尊称で、「ヴィクター・ハーマン坊ちゃんへ」といった意味合いだそうです。髯を生やすのはもうちょっと先のようですね。

暗い情念に突き動かされて2026年03月10日 06時05分25秒

先週の木曜日にちょっとしたイベントがあり、その準備に追われて記事が書けない…みたいなことを先日書きました。でも、その後もあいかわらず記事を書かずにいました。その間いったい何をしていたのかといえば、ずばり買い物にエネルギーを注いでいたのです。

再任用になって給料も減ったし、円安だし、燃料費高騰で送料も高いし、このところ海外からモノを買うこともめっきり減っていました。でも、先週の木曜はちょうど啓蟄で、何となく虫が動き出したというか、まあ虫に限らず、気温の上昇とともに活動性が上がることは、きっと何か生物学的要因があるのでしょう。

しかも間の悪いことに、私はそのタイミングで「おお、これは!」と思う品(天文モチーフを含む古画です)に出会い、何とか手に入れる算段はないかと必死に考えていました。そして、「もしあれが届いたら、こういう額縁をあつらえて、マットはこれで…」と、次から次へと妄想をふくらませていたのです。

それなのに、嗚呼それなのに、私がそれをお気に入りに登録した2日後、突如そこに「sold」の文字が表示されたのです。私の顔面は蒼白となり、名状しがたい悔しさと悲しさの奔流に、心ははげしく揺さぶられました。

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こういう場合、私の思考は静かな諦念に向かうよりも、「よし、あれ以上に素晴らしい品を ―-- あのときあれが sold になって良かった!と思える品を、絶対見つけるぞ!」という方向に向きがちです。これは一見ポジティブなように見えて、芯にネガティブな要素を含むので、あまり生産的ではないと思います(要は“自分をふった恋人を見返してやるぞ!”みたいな心理ですね)。

でも、人はえてしてネガティブな心に支配されている方が、一層大きなことをやらかすものです。私もこの間ずっと、この世のどこかにあるかもしれない「まぼろしの逸品」を探して、ずっとディスプレイの前に貼りついていました(まったく生産的ではありません)。

その帰結についてはあえて書きませんが、それは私の精神になにがしかの傷を残し、私の財布には一層大きな傷を残したのです(結局、あれこれ買物をしたわけです)。人はその愚かさを嗤うでしょうが、でも、私の手元にある品のうち少なからぬ部分は、そうやって集まったものなので、ネガティブパワーも決して侮れません。


「蒐集家の執念」というタイトルで Gemini3 が描いてくれた作品 。とても分かりやすい絵ですね。ピンセットを手に、この紳士が何をしているのかは不明ですが)

(では次に「古書蒐集家の情念」というタイトルで別の絵をお願いします…とオーダーしたら、こんな絵を返してきました。AIも手を抜くことを覚えたらしく、ますます人間臭くなってきました)

世界はひとりの痴れ者によって窒息するのか2026年03月01日 19時18分12秒

トランプという人は、いったい自分を何だと思っているのでしょうか。

ハメネイ師について、その抑圧的な姿勢を批判するイランの人がいるのは事実でしょうが、だからといって、よその国が恣意的にミサイルを撃ち込んで、他国の指導者を抹殺していい理由にはなりません。

もはや無理が通り過ぎて、道理が憤死しかねない状況です。

それにしても…
前後の流れを見ていると、トランプという男はよっぽどエプスタイン文書から世間の目をそらしたいのかなあ…と勘繰りたくなるし、仮にそんな理由で子供を含むイランの人々が命を落としたのだとすれば、かける言葉が見つかりません。

彼は畳の上で死ぬべき人間ではないと、私は心底思っています。

花の粉、鼻の水2026年02月28日 13時51分38秒

世の中に絶えて花粉のなかりせば 
春の心はのどけからまし

冗談抜きでそう思っている方も大勢いらっしゃることでしょう。


スギ花粉は、昔の学習顕微鏡に付属するプレパラートセットの中では定番でした。
…と思いつつ、よく考えたら定番はマツの花粉だったかもしれませんが、とりあえずスギも準定番ということにして、話を進めます。


私が子供のころは、花粉症がまだほとんど話題になってなかったので(公害問題の方がよほど深刻でした)、スギ花粉を見ても「ふーん」で終わっていましたが、今の目で見ると、そこに複雑な思いが重なります。


こんな小さな相手に、なぜこれほど苦しまなければならないのか。
まあ、小さな相手だからこそ厄介なわけで、花粉がゴルフボールぐらいの大きさだったら、もうちょっと対策の仕方もあるでしょう。

とはいえ、私自身はくしゃみが出たり、目がムズムズしたり、花粉に反応はするものの、幸い未だ重篤な症状はないので、春の心はわりあいのどかです。でも、この先どうなるか。齢をとれば免疫力が低下し、花粉症も軽症化する…という説に期待したいですが、仮にそれが正しいとしても、それを手放しで喜べるかというと微妙です。

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秋の心と書いて愁(うれ)い。
「春愁」という言葉もありますが、今後はずばり春の心と書いて「うれい」と読む新字ができてもいいですね。

…と思ったら、「憃」という漢字はちゃんとあって、「おろか」「みだれる」と読むんだそうです。まあ愚かかどうかはさておき、春になると心が乱れるのは確かですね。

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年度末の片付け仕事でアップアップしているのと、来週木曜日に人前で話す機会があり、その準備に追われています。それを勘定に入れると、やっぱりあんまりのどかではなくて、記事の方はしばらく開店休業です。

さらに明治の遠眼鏡について2026年02月21日 12時57分02秒


(明治の錦絵に登場する遠眼鏡。月岡芳年作「東京開化狂画名所/芝愛宕山 茶屋女 遠眼鏡を見る」(部分)、明治14年 (1881))

前回の続きです。

日本望遠鏡史を概観すると、江戸の「遠眼鏡時代」と明治末期(実質的には大正)に始まる「国産望遠鏡時代」の間は、「舶来品万能時代」で、国産望遠鏡は影を潜めていた…ということを、前回書きました。これは基本的に正しい理解だと思うんですが、ここには再考を要すべき点もあります。

まず一つは、機材の完成度や用途を考えると、「国産望遠鏡時代」のプロトタイプと呼ぶべきは、岩橋善兵衛の「窺天鏡」や、国友藤兵衛のグレゴリー式反射望遠鏡クラスであって、浮世絵美人が手慰みに覗く遠眼鏡を並列するのは、ちょっと違うんじゃないかという点。

(岩橋善兵衛の窺天鏡の図。『わが国の望遠鏡の歩み』より)

(国友藤兵衛の望遠鏡の見取り図。同)

もう一つは、そういう玩具めいた遠眼鏡は、明治になっても国産が続いていたんじゃないかという点です。

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前回引用した『わが国の望遠鏡の歩み』から、関連記述を再度引きます。

江戸時代からの伝習による一閑張の望遠鏡なども初期にはまだいくらか作られていたようであるが、やがて舶来の新式望遠鏡が続々と入ってきた。後にはそれらを模倣して国産品をつくりだす努力がはじめられたが、しばらくは舶来万能であった」(p.21)

これを読むと、一閑張、すなわち漆で仕上げた紙筒製の望遠鏡は、明治初期でいったん伝統が絶えたように読めます。しかし、試みに明治20年代(1887~1896)の文献で「遠眼鏡」の用例を探すと、結構ぞろぞろ出てきます(例によって国会図書館デジタルコレクションの力を借りました)。

以下はその一例(太字は引用者、原文の振り仮名は一部省略)。

○「〔…〕英敏(さかしき)は女。早くも艶書(ふみ)とは見てとれど、悲しき事にハ何が何やわからねバ、遠眼鏡に霞がくれの舟を見るほどもどかしく〔…〕」 (尾崎紅葉 著『風流京人形』、明治22/1889)

○「嘆息も仕始めると果(はた)しなひ訳(わけ)〔…〕遠眼鏡を見る節ハ、偏目(かため)に生附(むまれつか)ぬを嘆息し〔…〕」 (井村佐平 著『十人十種目下の歎息』、明治23/1890)

○「ヨク見やしやんせ十二階富士や筑波は目の前に分りますぞへェヽ遠眼鏡」 (戯笑散人 編『柳の誉 : 音曲笑譚』、明治24/1891)

○「手に乗せて富士の雪見る遠眼鏡」 (加藤福次郎 編『俳諧手挑灯』、明治26/1893)

また、以下は文友舎発行の雑誌「花たら誌」第4号(明治21年(1888)10月)の都々逸投稿欄に出てくる遠眼鏡です。当該号のお題は「網」「眼鏡」「蛇」で、選者は仮名垣魯文と神垣茂文(魯文の変名か?)。その中から遠眼鏡を詠み込んだ作品を書き抜いてみます。

●五点の部
主を帰してお宅(うち)の首尾を爰(ここ)で見度(みたい)よ遠眼鏡 親釜連 山の家天狗
●十点の部
そつと覗いて人目を兼てぬしの姿を遠眼鏡 米沢 吾雪羨粋史
離(はなれ)ちや居(いれ)ども変らぬ心主に見せたい遠眼鏡 よし町 扇家かなめ
●十五点の部
先の景色が変つたらしい此頃便りも遠眼鏡 信松本 四海菴雄左丸
迷ひの俤(おもか)げ目にちらつけど主の姿ハ遠眼鏡 武入間 柳屋猫八

比喩的な用例もありますが、こんなふうに「遠眼鏡」が軽文学や月並俳諧、都々逸・俗謡の類にまで登場するということは、遠眼鏡が当時、庶民に近しい存在だった証拠でしょう。そして、それらがすべて舶来品だったとは思えませんし、皆が皆、江戸時代の古ぼけた品を手にしていたとも思えません。

当時、天体観測用・軍用・測量用といったプロユースの望遠鏡は、前述のとおり舶来品で占められていたでしょうが、景色を覗いて愉しむ安価な玩具的望遠鏡の需要は常にあったし、そんなものまで舶来万能だったはずはないので、一閑張をブリキや真鍮の筒に置き換えた「明治版遠眼鏡」と、それを作るメーカーがきっとあったはずだ…と想像されるのです。

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あとはモノが見つかれば万々歳ですが、こういうのは粗悪な品ほど残りにくく、見つかりにくいという逆説があるので、見つけるのはなかなか大変です。
でも、ヤフオクとかでメーカー名の記載がない古い望遠鏡で、舶来品とはちょっと肌合いの違うものがあれば、とりあえず候補にはなるでしょう。

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ちなみに、山田美妙 (武太郎) 編、『日本大辞書』(明治26/1893)には「ほしめがね」という項目があって、遠眼鏡の中でも特に天文学用のものを「星眼鏡、観星鏡」と呼んで区別しています。両者はやはりグレードが違うという認識があったのでしょう。


そして同書には、もう一か所「遠眼鏡」が出てきます。


双眼鏡の説明として、「両眼に当たるように造った遠眼鏡」とあります。遠眼鏡は、当時、望遠鏡と双眼鏡の両方を指して使ったようです。


   ★

とはいえ、上の推測はすべてハズレで、当時は海外にも安価なスパイグラスがあふれていたので、それらが「粗悪な舶来品」として幅を利かせていた可能性もなくはないです。

昔は双眼鏡のことも遠眼鏡と呼んだ…ということから思い出すのは、江戸川乱歩「押絵と旅する男」(1929)で、そこにも双眼鏡のことを遠眼鏡と呼ぶ老人が出てきます。


 「老人は〔…〕肩から下げていた、黒革のケースを、叮嚀に鍵で開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差出すのであった。
「コレ、この遠眼鏡で一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様丁度その辺がようございましょう」
〔…〕
遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持主の洋服と同様に、如何にも古風な、物懐かしい品物であった。
〔…〕
すると、老人は〔…〕次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。
「〔…〕明治二十八年の四月の、兄があんなに〔…〕なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。〔…〕兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」

明治の半ば、双眼鏡はやっぱり舶来品がメインであり、眼鏡屋の看板を飾ったり、中古品が横浜の道具屋で売買されたりして、新しがり屋の好奇心をそそった…というのです。そうなると、一般の人が手にした望遠鏡も、やっぱり舶来中心だったのかな…と思い直したり。

話が二転三転して恐縮ですが、材料が乏しいまま書いても結論は出ないので、とりあえず今回はここまでにします。

明治の望遠鏡についてのメモ2026年02月17日 06時04分20秒

これまでぼんやりと疑問を感じながら、知識が空白のままになっていたことがあります。

まあ私の場合、そういう空白はたくさんあるのですが、その一つが明治の望遠鏡事情です。すなわち明治時代の日本には、望遠鏡を製造していたメーカーが果たしてあったのか、なかったのか。もちろん事情通の方は先刻ご承知かもしれませんが、私はそれをはっきり知らずにいました。

   ★

江戸時代の日本では、盛んに遠眼鏡が作られ、浮世絵にも描かれました。

(葛飾北斎、連作「風流無くてなゝくせ」のうち『遠眼鏡』。出典:ウィキペディア「遠眼鏡」の項

ですから、望遠鏡製作の基礎はすでに十分あったわけで、文明開化とともに、そこに新来の技術が加わり、新しい望遠鏡づくりの職人が生まれ…というのも、十分ありうるストーリーではあります。ただ、それは頭の中で想像するばかりで、実態は杳として知れませんでした。

   ★

私の蒙を啓いてくれたのは、1冊の小冊子です。


(財)科学博物館後援会(発行)、『わが国の望遠鏡の歩み』(全57頁)。
昭和39年(1964)、ガリレオの生誕400年にちなんで、特別展「わが国の望遠鏡の歩み」が科博で開催された折に作られたものです(各項の執筆者は無署名で、「あとがき」を村山定男氏が書かれています)。

(目次と冒頭)

何せ60年以上前の資料ですから、情報としては古いのですが、少なくとも私の知識の空白を埋めてくれる役は十分果たしてくれました。

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問題の記述は、「3.日本の望遠鏡の歴史(2) ―明治以降―」(pp.21-28)に出てきます。いくつか記述を書き抜いてみます(太字は引用者)。

 「江戸時代からの伝習による一閑張の望遠鏡なども初期にはまだいくらか作られていたようであるが、やがて舶来の新式望遠鏡が続々と入ってきた。後にはそれらを模倣して国産品をつくりだす努力がはじめられたが、しばらくは舶来万能であった」(p.21)

つまり、日本の望遠鏡製造史は、江戸と明治の間に大きな断絶があり、「遠眼鏡時代」と「国産望遠鏡普及時代」の間に「舶来万能時代」がはさまっている…というのが大まかな構図です。ですから、上で述べた私の想像は端的に言って間違いです。

ただし望遠鏡はそうであっても、レンズ研磨に関しては部分的に合っていた点もあります。引用を続けます。

 「掛け眼鏡の玉も、昔は一つ一つ手工業的にみがかれていたが、明治6年オーストリヤのウィーンに開催された万国博覧会に参加した人達によって、他のいろいろな技術と共に西洋流のレンズ研磨法も持ちかえられた。眼鏡研磨法を伝習して帰ったのは朝倉松五郎という人で、レンズ研磨機もこの時はじめて持ちかえられ、また研磨に紅殻を用いたのもこのときがはじめてであったという。
 この朝倉は明治9年わずか34才で没したが、その弟子たちによって、眼鏡玉の製造をはじめ、わが国のレンズ工業のもとがきずかれた。」(pp.21-22)

なるほど、望遠鏡よりは眼鏡の方が圧倒的に需要も多かったわけですから、そちらの国産化の方が先行したのは至極当然です。

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では肝心の国産望遠鏡はいつからか?といえば、それは明治も最末期のことです。
明治42年(1909)に、元海軍技師の藤井竜蔵が「藤井レンズ製造所」を設立し、明治44年(1911)に「ビクター双眼鏡第1号」を完成。

(藤井竜蔵に関する記述(部分))

その後の歴史は広く知られるとおり、大正6年(1917)に、藤井レンズ製造所と東京計器製作所の光学部門、岩城硝子製作所の探照灯製造部門が合併して、「日本光学工業株式会社」(現ニコン)が創設され、日本の光学機器製造に画期がもたらされました。といっても、この頃はまだ「舶来品」も幅を利かせていたのですが、光学製品の国産化はその後着実に進展していくことになります。

そして、大正15年(1926)には、同社から独立した五藤斉三が「五藤光学研究所」を創設し、アマチュア向け望遠鏡の本格供給も始まりました。

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明治41年(1908)に日本天文学会が、大正9年(1920)に東亜天文協会が設立されたのは、こうした国産望遠鏡製造のタイミングとぴたりと重なりますが、望遠鏡の供給体制と天文趣味の興隆は、いわば「ニワトリと卵」の関係かもしれません。

メアリー・プロクター『天空の本』2026年02月15日 08時21分01秒

円安の影響もあって、海外から天文古書を買う機会がずいぶん減りました。それでも先日、「あ、これは」と思って発注した本があります。


■Mary Proctor
 The Book of the Heavens.
 Harper(London)、1926. 268p.

著者のメアリー・プロクター(1862-1957)については、本書の2年前に出た『Evenings with the Stars』(1924)を以前紹介しました。【LINK】

(画像再掲)

そちらはアールデコの美しいブックデザインでしたが、今日の本は前代のビクトリアンな雰囲気を引きずった装丁です。


私が買ったのはジャケット(日本で言うカバー)付きが評価されて、ちょっと高かったのですが、カバー無しの状態でも、ご覧のとおり美しい造本です。


見返しには、1932年にこれを買ったペック氏と、1992年にそれを古書店で購入したゴッドフリー氏のサインが入っています。本が出てちょうど100年、私は少なくとも3代目の所有者ということになるのですが、本というのはこうして受け継がれていくのだなあ…としみじみします。

(パラパラめくったら、アンカットの頁がありました。きっと前の持ち主も通読しなかったのでしょう。そんなところにも親近感を覚えます。)


本書の内容は、言ってみれば「普通の天文入門書」です。
「第1章 太陽の話」「第2章 月の話」から始まって、惑星、彗星、流星、太陽の固有運動、著名な星座、天の川の話が続き、最後は「第21章 ウィルソン山天文台と分光器」で終わっています。

類書には事欠かないので、屋上屋を架すことになると思いましたが、それでもあえて本書を買ったのは、イヴリン・ポール(Evelyn Maude Blanche Paul、1883-1963)の描く4枚の原色挿画が入っていたからです。

(「孤独な空の番人」)

彼女はラファエル前派の影響を強く受けた、中世画風の挿絵画家として有名な人だそうですが、ここで彼女が描くのは、抒情的な美しい天文画です。

(「パリで見られたハレー彗星」

そして何よりも上の1枚。
時系列で言うと、私は上の絵がバラで切り売りされているのを見て、「ああ、なんて美しい絵だろう」と思ったのが最初の出会いでした。でも、バラものにしてはやけに高かったので、購入を断念。それでもやっぱり諦めきれず、タイトルと作者の名前から検索して、本書の存在を知りました。結果的にこれは一冊まるごと買って正解です。

まあ、もう少し時代が早ければ、この絵は繊細な多色石版で刷られたはずで、その方が一層良かったと思いますが、そこは絵自体の魅力に免じて目をつぶることにします。