あれがポラリス2025年06月15日 11時47分54秒

昨日の品からの連想ですが、星石先生の蔵書印と一寸似たものが手元にあります。

(全長78mm。私の手と比べたら、ちょうど中指の長さと同じでした)

まあ、見た目はご覧のとおり全然似てないんですが、似ているのはその機能です。


このデコラティブな金属細工の先が、やっぱり印章になっているのでした。


これは書状を蝋封するためのシーリングスタンプで、たぶん19世紀の品でしょう。


スタンプのヘッドはオニキス(縞めのう)を陰刻したものですが、ここまで寄っても図柄が分かりにくいので、購入時の商品写真をお借りします。

(コントラスト調整+左右反転画像)

星を指し示す手と「Bear」の文字が、約1cm四方の石面にきっちり彫り込まれています。

何となく謎めいた図柄で、その意味するところは想像のほかありませんが、その文字はたぶん持ち主が「Bear」家の一員であることを示すものでしょう(Bear という姓は特に稀姓ではありません)。

そしてその名前から「天空の熊」、すなわちおおぐま座・こぐま座(英名は Great Bear と Little Bear)を連想し、それを北極星を指し示す手として表現したんじゃないでしょうか。そこからさらに、“我らBear一族は、常に志操の極北を示す指針たらん”…とまで説教臭い意味をこめたかどうかは分かりませんが、でもヴィクトリア朝の人だったら、それぐらいのことは考えたかもしれません。

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 大ぐまのあしを きたに
 五つのばした ところ。
 小熊のひたいの うへは
 そらのめぐりの めあて。

上の想像の当否は不明ですが、賢治の「星めぐりの歌」を聞きながら眺めれば、ここにも天文古玩的情趣が流れるのを感じるし、そしてこの品もまた星と石の取り合わせであることを、天上の星石先生に報告したくなるのです。

星石先生の書斎へ2025年06月14日 09時28分36秒

宋星石(1867-1923)にほれ込んだ結果として(ほれ込んだのはその作品というよりも名前ですが)、その後さらに星石の蔵書印を手にしました。

(持ち手を除く高さは52mm)

この小さな「岡持ち」のような木箱に入っているのがそれです。
蓋には 「山陽翁遺愛 印材」 の墨書があって、


けんどん式の蓋を開けると…


蓋の裏にも墨で箱書きがあります。

「壬寅春日贈呈 星石公以為好 頼潔(印)」

併せ読むと、この印は江戸時代の学者・文人である頼山陽(らい・さんよう、1781-1832)が大事にしていた印材を使ったもので、印材の贈り主は山陽の孫にあたる頼潔(らい・きよし、1860-1929)、贈ったのは壬寅の年、すなわち明治35年(1902)の春です。二人はほぼ同時代を生きた人で、生年は頼潔のほうが星石より7歳年上。「星石公以為好」とありますから、贈られた星石も大いに喜んだのでしょう。

もみ紙に包まれたその印は…


こうした不思議な形状のものです。
私は最初「印材」とあるので、「石印材」を想像したのですが、実際には印面も含め総体が金属製(古銅)です。雰囲気的には、骨董界隈でいう「糸印(いといん)」【LINK】に似ています。

あるいはこれはまさに糸印そのものであり、元の印面を磨りつぶして「印材」として山陽が手元に置いていたのかもしれません。

よく見ると印面の側面にも銘が彫ってあり、そこには

「山陽翁遺愛 星石先生得之蔵(1字不明)刻 時甲辰夏日」

とあります。これによれば、印が彫られたのは、甲辰=明治37年(1904)の夏、すなわち印材を贈られてから2年後に、星石はそこに刻を施したことになります(ここで星石が自ら「星石先生」と称するのは奇異な感じもしますが、「先生」には師匠や偉い人の意味のほか、「自ら号に連ねて用いる語」という用法があって(大修館『新漢和辞典』)、ここもおそらくそれでしょう)。



印に彫られた文字は「藏之名山」(之を名山に蔵す)。

司馬遷の『史記』冒頭の「太史公自序」(太史公とは司馬遷のこと)にある「藏之名山 副在京師 俟後世聖人君子」に由来する文句です、明治書院のサイト【LINK】によれば、「この書の正本は帝王の書府に収めて亡失に備え、副本は京師に留めおいて、後世の聖人君子の高覧を俟ちたいと思う」という意味だそうです。

今日の記事の冒頭、この品を「蔵書印」と呼びましたが、それは売り主の古書店主の言い方にならったもので、本当に蔵書印かどうかは分かりません。自作に捺す普通の引首印や落款印だったかもしれないんですが、印文の意味を考えると、まあ蔵書印とするのが妥当だろう…と推測されるわけです。

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この品を見ていて思い出すシーンがあります。

漱石の「草枕」(1906)で、主人公の画家が、逗留中の宿の隠居から茶を振る舞われる場面です。その場にいるのは、他に近所の禅寺の和尚と、隠居の甥にあたる20代半ばの若者、久一(きゅういち)の4人。

隠居は正統派の煎茶をたしなむらしく、上等の玉露を染付碗にごく少量注いで出し、その後は隠居と和尚の骨董談義がにぎやかに続きます。床の間には荻生徂徠の書、古銅の花器には大ぶりの木蓮、そして目玉は隠居が秘蔵する頼山陽遺愛の硯です。この「山陽遺愛」という点で、手元の品と連想がつながるのですが、ともあれ江戸の文人趣味が、明治の後半、日露戦争のころまでは、十分リアリティをもって人々に共有されていたことが分かるシーンです。

とはいえ、それもある一定の世代までです。
若者代表の久一は、隠居から「久一に、そんなものが解るかい」と聞かれて、「分りゃしません」とにべもなく言い放ち、日露戦争で出征が決まった彼を一同が見送る中、久一の死を暗示する描写で物語は終わります。

時代は容赦なくずんずん進み、日本も急速に重工業化し、頼山陽の時代は遠くに霞みつつありました。手元の印材に星石が熱心に印刀をふるったのも、ちょうど同時期です。

宋星石は夏目漱石と同い年になりますが(慶応3年=1867生まれ)、南画やら文人趣味というのも、彼らの世代をもって終焉を迎えたんじゃないかなあ…というのが、個人的想像です。

(星石と漱石)

もちろん今でも煎茶をたしなむ人や、文人趣味を標榜する人はいますけれど、その精神はともかく、肌感覚において往時とはずいぶん違ったものになっているはずです。ネット情報を切り貼りして、何となく文人を気取っている私にしても又然り。
寂しい気はしますが、それこそが抗い難い時代の変遷というものでしょう。

星と石2025年06月08日 18時49分31秒

徐々に通常の話題に戻していこうと思いますが、もう少し「和」の話題を続けます。

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星と石、天文学と鉱物学。

両者は高校地学の二枚看板で、星も石も両方好きだよという方もきっと多いでしょう。賢治もそうだったし、足穂もそうでした。知識の多寡を無視すれば、かくいう私だってその一人に加わる資格はあります。

そんな次第ですから、古本屋の目録で「星石」を名乗る人物を知ったとき、すかさず「いいね」と思い、その人の筆になる古びた短冊をそそくさと注文したのでした。


星石山人作、月下吹笛図。


川面に舟を浮かべ、無心に笛を吹く男。


その姿を眺め、その楽に耳を澄ますのはひとり月のみ―。

   ★

この短冊をしたためたのは、宋星石(1867-1923)という人物です。
「そうせいせき」と聞くと、なんだか中国や朝鮮王朝の文人を想像しますけれど、まぎれもなく本朝の人で、鎌倉以来、対馬国を領した宗氏第36代当主、宋重望(しげもち)がその本名。

彼が宋氏の当主となったのは、既に時代が明治となってからですが、大名華族として伯爵に列せられた彼は、まあ普通に言えば「対馬の殿様」と呼ばれうる立場の人です。もちろん殿様だからエライ…ということはないんですが、後半生を文人画家・書家・篆刻家として、もっぱら風雅の道に生き、東京南画会会長も務めた彼は、そのことを以て偉いと称しても差し支えないでしょう。

彼が星石という号を用いた理由は寡聞にして知りません。
呉石とか琴石とか耕石とか、「○石」という号を名乗る人は多いので、星石もそのバリエーションに過ぎないといえばそうかもしれませんが、何にせよ星と石が仲良く同居しているのは素敵な字配りで、私も使いたいぐらいです。

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宋星石とは関係ないと思いますが、ネットを見ていたら、「星石」とは隕石の古い言い方の一つだと知って、そのことも素敵だと思いました。



狐狸と屍喰(グール)の跋扈するところ2025年06月07日 13時10分44秒

(前回のつづき)

和田維四郎(号は雲村)の古書蒐集に関して、前出の川瀬一馬氏は、もう少し言葉を加えています。

 「村口は雲村の購書を一手に扱って、ほかの古本商を寄り付けぬように努め励んだと言います。〔…〕雲村は、岩崎・久原両文庫へ購入する古書の中に自分が欲しい物があると手もとに残し、それは後に「雲村文庫」として岩崎文庫に買って貰いました。体のよい二度取りです。それは半分久原文庫へ遣らなければならぬはずのものですが、久原は破産して最後は購入費を出しませんでしたから、岩崎文庫の方へ皆行ってしまったのでしょう。」 (川瀬前掲書、p.160)

川瀬氏はさらに

 「古書善本の購入にかかわると利が伴ないますから、生活のため色々のことが起こりやすいものであります。その間に身を潔く保つことははなはだ難しいことです。」(同)

と余韻のある結び方をされていますが、川瀬氏の本には、ほかにもいろいろと人間臭いエピソードが紹介されていて、学ぶことが多かったです。

   ★

こういう商取引に関わる「ズル」以外に、この本には偽作の話題も出てきます。
私はこれまで書画骨董の世界は偽作・贋作だらけにしても、刊本である古書にもそうした例があることを知りませんでした。

具体的には、名のある蔵書、たとえば古くは北条氏の「金沢文庫」とか、下って太田南畝の「南畝文庫」とかから出た本であることを装う<偽印>、あるいは無刊記の本に他本の刊記を持ってきて補う<目直し>など。もちろん、いずれも書物の「格」と値段を吊り上げるための工夫に他なりません。

(川瀬氏の本に紹介されている偽印の例。右は真正の金沢文庫印、左は偽印三体)

まあふつうの古書だったら、初版本のコレクターが「本当の初版」の見極めに血眼になったり…とかはあると思いますが、意図的な偽作というのは、あまり聞きません(「著者サイン入り」が、別人の筆だった…というのは聞きます)。しかし「古典籍」の世界はまさに生き馬の目を抜く世界で、なかなか油断できないわけです。

   ★

古書と言えば、最近、こんな事実を知りました。
書物研究家の庄司浅水(しょうじせんすい、1903-1991)氏の古書エッセイに教えられたことです。

庄司氏は、愛書趣味の先人、アンドリュー・ラング(Andrew Lang、1844-1912)のいう「ブック・グール(書籍墓発き)」を紹介して、こう書きます(改段落は引用者)。

 「〔…〕「書籍墓発き」に至っては、本を滅茶々々にしないと収まらないと云ふのだから、困ったものである。彼等は題扉(タイトルペーヂ)、口絵(フロントピース)、挿画、蔵書票等を蒐集するを以てこよなき楽しみとしてゐる。これがためには、公私の別なく書庫に忍び入り、湿した糸を挿込んでは己が欲する挿画を切り取り、アラビヤの伝説に伝はるかの不吉な悪魔の如く、巨人の残骸に見入る者である。

この方の代表的人物にジョン・バグフォードと云ふ靴屋の親爺がある。彼は英吉利好古物協会創設者の一人であるが、己が地位を利用して、各国各地の図書館、文庫を歴訪し、貴重珍稀な書籍を見せて貰ひ、監視の眼をごまかしては、さうした本のタイトル・ペーヂを片っ端からちぎり取ったのである。斯くして蒐集したものは、夫々の国々町々によって分類し、キチンと板紙に貼付けたが、二つ折判にして、優に百冊を突破したとのことである。」 (庄司淺水「書蠹」、奥本大三郎・編『蒐集(日本の名随筆別巻34)』、作品社、1993所収)


なるほどと思いました。
古書のカタログを見ていると、よく「タイトルページ欠」という本が売られています。現に私の手元にもあります。あれが一体何なのか、ずっと不思議に思ってたんですが、どうやら意図的に切り取る人がいたんですね。これが美しい口絵なら、それを切り取って手元に置きたいという気持ちは理解できるので、「口絵欠」の本は別に不思議とは思わないんですが、無味乾燥なタイトルページまで集めている人がいるとは、ちょっと予想していませんでした。

庄司氏と同様、私もそうした行為には眉をひそめますが、でもタイトルページがないおかげで、普通だったら手の届かない本が安価に売られている場合もあって、そのおかげをこうむっている私も、実は共犯者か…と、後ろめたいものも感じます。

(タイトルページを欠いたPierre Pomet(著)『A Compleat History of Druggs』、1712(フランスの本草書の英訳本)。パッと見タイトルページがあるように見えますが、これは前の所有者がカラーコピーで補ったもの)

石の人、本の人…和田維四郎のこと2025年06月05日 06時16分26秒

この間の「旅」のこぼれ話の一つとして、ひょんなところで和田維四郎(わだつなしろう、1856-1920)に出くわしたことがあります。

日本の鉱物学草創期の偉人である和田のことは、以前――15年も前のことです――、その名をとった「和田石」の話題のところで、少し触れました。

(和田維四郎 出典:ウィキペディアの同人の項

■人、石と化す

また前後して、和田の三男が幻想・推理作家の大坪砂男(本名:和田六郎、1904-1965)であることも話題にしました。

■鉱物、幻想、文学の系譜

その和田は、息子ばかりでなく自身も文学畑の活動にいそしみ、和漢の古典籍の蒐集家として名をはせたことを先日知りました。この事実はウィキペディアの同人の項にも、

 「晩年は雲村と号し、岩崎久弥〔=三菱財閥総帥〕と久原房之助〔=くはらふさのすけ、「鉱山王」の異名をとった久原財閥総帥〕の財政支援により古書籍を蒐集、研究し、大著『訪書余録』などを著わし、科学的な書誌学の開拓に貢献した。」

…とあるので、その道の人には周知のことかもしれませんが、恥ずかしながら私は全く知らずにいました。

上の引用文中に出てくる『訪書余録』というのは、私が和田と古典籍との関係を知るきっかけとなった本です。大正7年(1918)に和装本の形で自費出版され、現在は古書価が20万円前後もする高価な本です。ただ幸いなことに、臨川書店から昭和53年(1978)にハードカバーの複製本が出たおかげで、その内容に触れることは容易です(ただしオリジナルは高さ33cmの大型本ですが、こちらは高さ26.5cmに縮刷されています)。

(全6編で出たオリジナルを「本文篇」と「図録篇」の2巻に再構成した複製本。本文篇は268頁、図録篇は裏面が白紙の折込図も多いため、単純に頁数で数えられませんが、全部で412図を収めています)

(同書奥付)

「本文篇」の内容は、漢文訓読のための「ヲコト点」の解説や、文字・料紙・印刷等の基礎知識、現存する主要古典籍の紹介ですが、目を引くのはなんといっても大部な「図録篇」です。普段容易に見ることのできない秘籍類を、原色版(オリジナルでは精巧な多色木版で表現)もまじえて紹介した内容は、和田の旺盛な集書・探書活動の賜物であり、その背後に大財閥の豊かな資力があったればこそです。まあ、言ってみれば「他人の褌」なのですが、彼の活躍によって財閥の書庫に収まった貴重書類は、その後も散逸することなく、現在の東洋文庫や大東急記念文庫に引き継がれたので、その努力は仇花で終わることなく、大きな実を結んだことになります。

(図版篇より『高野版 悉曇字記』)

(同『三十六人家集』 西本願寺蔵)

(図録篇目次。各種のサンプル画像を「標本」と呼んでいるのが、鉱物学者らしい)

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ここまでだと、和田は文理双方に深い学殖を備えた天晴れな人物である…ということなりますが、先ほどのウィキペディアの記述は、その次に妙な一文があります。

「但し、川瀬一馬の『日本における書籍蒐蔵の歴史』によれば、『訪書余録』は高橋微笑という者の編著という。」

川瀬一馬(1906-1999)は日本書誌学の権威と呼ばれた人。
学生時代から古典籍の世界の表裏を知り抜いた川瀬氏は、また違った和田像を伝えています。ついでなので、氏の言葉も原文で挙げておきます。

 「さて、村口〔=神田神保町の村口書店主・半次郎〕はそれ以前に和田維四郎(雲村)にうまく結び付いて一人占めにして、数年の間に古本屋の巨商とも言うべき地位を獲得しましたが、どうも一手にすがるお客様がいないと心淋しいと漏らしていました。〔…〕大正の半ばに村口がうまく取り付いた和田維四郎(雲村)は、憲法以前の農商務省鉱山局長の役職にいて、藤田組や三菱に有望な鉱山を払い下げて、その見返りに両方から一生多額な小遣いを貰って暮らし、年を取って茶屋遊びから古書買い遊びに転じた人で、『江戸物語』などを作りましたが、『訪書余録』なども全部高橋微笑の編著です。」 (川瀬一馬『日本における書籍蒐蔵の歴史』(ぺりかん社、1999)、p.159)


これは相当毒のある評言ですが、斯界の権威・川瀬氏の目には、和田の古典籍研究も所詮は「古書買い遊び」のレベルに映ったのでしょう。なお、ここに名前の挙がっている「高橋微笑」は、『訪書余録』の「緒言」に見える「又高橋美章君は本書の印刷を監督せられ」…云々とある人のことと思われ(微笑はその名を音読みした号でしょう)、川瀬氏の回想では東京の市ヶ谷仲之町に屋敷を構えていたそうですが、それ以上の伝は未詳。

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若き日の和田はたしかに鉱物に心をはずませ、死後、自ら石と化しました。
しかし、生身の人間が硬く冷たい鉱物に伍すことはやはり相当難しいことで、ときに生臭いエピソードが漏れ出るのもやむを得ません。まあ、だからこそ人間的であり、人でなしと呼ばれるよりはいいのだ…とも言えます。

(庭仕事をしているときに拾った青い小石。玉髄?)


家路へ2025年05月31日 10時45分55秒

4月13日付けの直前の記事で、自分がひどく鬱っぽいようなことを書きました。たしかにそれは嘘ではなくて、自分が定年を迎えたという事実が、有無を言わさず私の心を陰鬱な方向に引っ張っていたのです。

ふつうに考えると、定年を迎えたといっても、そのまま同じ職場で再任用となっているわけですから、表面上は何も変わらないし、責任のない立場になって、かえって気楽になったんじゃないの?と言われればそのとおりなのですが、そこには老耄と頽落に対する不安と恐怖もあって、やはり気楽一辺倒とはいきません。

   ★

でも、記事が中断していたのはそれだけが原因ではありません。
鬱の気分を振り払うため、しばらく旅に出ていたからです。

旅といっても、例によって脳内の旅ですが、自分がこれまで知らなかった世界――古典籍や古写経、あるいは古裂(こぎれ)や料紙なんかの世界――を覗いて回っていたのです。和骨董への関心は元からありましたから、自分はそれらを既に知っている気がしたのですが、実際に覗いてみると、自分が何も知らなかったことに気づいて、大いに驚きました。それらはまことに刮目すべき一大世界です。でも近時においては顧みられることの少ない世界でもあり、そこがたぶん今の自分と重なって感じられ、少なからずシンパシーをおぼえたのでしょう。

そして、これぞ旅の効用でしょうが、こうして新しい世界に触れたことで、古血はふたたび鮮血となり、脳髄のシナプスも放電を始め、こころは自由を取り戻しました。こうなれば旅もひとまず終わりです。

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しばらくぶりに家に帰ってみれば、spamコメントが埃のように堆積しており、なんじゃこりゃ…と思いましたが、これも己の不徳の致すところ。まずは掃除機をかけて、コーヒーを一杯淹れてから記事を再開することにします。


春なのに2025年04月13日 16時17分08秒

どうも完全に鬱っぽいです。

ただし、内因性の「うつ病」ではなく、いわゆる外因性の「抑うつ状態」というやつです。その原因もあらかた分かっているので、状況が変わるまでは、じっと我慢です。こういうときはジタバタしても、あまりいいことはありません。

1つ前の記事でお伝えした京都のイベントも、無理すれば別ですが、無理をする性格のものでもないので、前言を翻して恐縮ですが、今回はオンライン参加に切り替えました(それでも参加できるかどうか、我ながら不確かです)。

それにしても、このもって行き場のない気持ち。
夜中にふと「畜生!」と叫んだりするんですが、畜生呼ばわりの対象は他ならぬ自分自身なので、もう本当に救いがないというか、「やるせない」というのは、こういうときに使う言葉かもしれませんね。



星を近づけた先人たち…反射望遠鏡とプラネタリウムの黎明期2025年04月06日 13時01分37秒

何だかぼんやりと過ごしているときに、ハッとするメールをいただきました。

メールの主は、「中村要とクック25cm望遠鏡」のブログ主であり、戦前~戦後の日本の望遠鏡史や天文趣味史の先達であるdouble_clusterさんです。そこには、現在、京都産業大学・神山天文台で開催中の或る展示会のお知らせが記されていました。


■企画展「西村製作所と中村要~反射望遠鏡にかけた夢~」
○日程: 2025年3月15日(土)~6月20日(金) 月~金曜日  9:00~16:30
○場所: 京都産業大学神山天文台(京産大キャンパス内)
○料金: 無料・予約不要

以下、公式サイトより。

 「20世紀初頭、アメリカやイギリスで鏡を使った望遠鏡(反射望遠鏡)が作られていく中、ガラス鏡の反射望遠鏡製造技術を日本に持ち帰った山崎正光、その技術を日本に広めた中村 要、そして中村 要と協働し日本で初めて、ガラス鏡の反射望遠鏡を製作・販売することになる京都の理化学機器メーカー 西村製作所。

 企画展「西村製作所と中村要~反射望遠鏡にかけた夢~」では、2026年に100周年を迎える反射式望遠鏡の歴史を取り上げ、どのようにして国産の反射望遠鏡が作られたのか、人と人との繋がりや当時の技術者たちの天文学や望遠鏡に対する情熱が形になるまでの軌跡を紹介します。」

…と、これだけでも興味深いのですが、会期中の特別企画として来る4月19日(土)に、以下の特別講演会が予定されている由。


企画展関連講演会(プラネタリウム100周年記念事業公認企画)
 「日本の天文普及の黎明-西村氏・江上氏・金子氏の時代-」
○日時: 2025年4月19日(土) 13:00~18:30
○開催方法: 対面とオンラインのハイブリッド開催
○対面会場: 京都産業大学 12号館5階 12502教室
○参加費: 無料

内容の詳細は公式ページをご覧いただきたいですが、西村製作所の初代社長・西村繁次郎(1910-1992)、戦後間もない時期に「江上式プラネタリウム」を開発した江上賢三(1920-1997)、同じく「金子式プラネタリウム」の開発者である金子功(1918-2009)の三氏の事績に焦点を当てながら、日本製プラネタリウムの草創期と、それが天文教育に及ぼした影響を振り返る…という内容のようです。

当日は上記特別講演に先立ち、本展を企画された神山天文台学芸員の青木優美香氏による基調講演とギャラリートークが、また講演会終了後には、希望者による天体観望会も予定されています。

天文古玩的にこれは見逃せない内容ですし、あんまりぼんやりして、このまま人事不省に陥ってもよくないので、4月19日当日は、企画展の参観を兼ねて会場に足を運ぶことにしました。関心のある方はぜひご一緒しましょう(特別講演の参加は予約制です)。

Once Upon a Time in America2025年04月01日 21時28分15秒

年度替わりを口実にブログの更新をさぼっていましたが、更新が滞っていたのはそればかりではなく、和骨董に関心が向いていたというのも大きな理由です。というのも、ふとした出来心から七夕関連の品を探しはじめ、そこから「乞巧奠」の話題へ、さらに冷泉家の年中行事へと関心が横滑りして、しばし天文のことが頭から消えていたのでした。

とはいえ故郷忘じがたく、一通り外の世界を眺めれば、心はやはりなじみの世界に戻ってきます。

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以前、彗星と土星のソルト&ペッパーシェイカーというのを登場させました【LINK】

今回手にしたのは、その隣にちらっと写っている、同じくソルト&ペッパーシェイカーです。


上の写真は暗くてちょっと分かりにくいですが、


こうすれば一目瞭然ですね。
これは、パロマー天文台の200インチ望遠鏡を収めた大ドームをかたどった塩・コショウ入れです。


この品、小さいなりによく出来ていて、脇っちょには階段のついた出入り口もあるし、


かすかに覗く大望遠鏡の気配も、なかなか真に迫っています。
しかし、この品が興味深いのは、そうした造作ばかりではありません。


底面や側面に鋳込まれた「JAPAN」の文字が見えるでしょうか。
これはおそらく1950~60年代に日本の町工場からアメリカに輸出され、2025年に帰国したばかりの「里帰り品」なのです。

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1948年に完成し、その後も長く世界最大を誇ったパロマーの大望遠鏡。
それはアメリカが圧倒的な影響力を世界に及ぼしていた時代の象徴に他なりません。そして当時の日本は、こうしたこまごましたものを輸出して、必死に外貨を稼ぐ国であった…というのが、問わず語りに伝わってくるのが、この品のひとつの見どころじゃないでしょうか。

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トランプという人は盛んに「Make America Great Again!」と叫んでいますが、いかにも空しい気がします。むしろ彼がそう叫ぶたびに、どんどんアメリカは卑小な国になっている気すらします。

片や日本はといえば、なりふり構わず塩・コショウ入れで外貨を稼ぐ活力も失い、経済も文化もずるずる後退を続け、今や「撤退戦」の様相を呈しています。

小さなパロマーを見ながら、ぼんやり世界の来し方行く末に思いをはせる―。
今年はそんな年度はじめです。

世界はときに美しく、ときに…2025年03月22日 21時42分28秒

今日は久しぶりに休日らしい休日でした。
この辺で、たまったブログの記事を書くという選択肢もあったのですが、何せ天気もいいし、家の中でキーボードを叩いているばかりでは辛気臭い…というわけで、散歩に行ってきました。別に遠出をしなくても、近所に里山が残されているのは、こういうとき本当にありがたいことです。


春本番を前に、木々は新緑の装いをする一歩手前。


この辺はだいぶ緑が濃いですが、いずれも常緑の木々です。


空はあくまでも青く、ここが街中からほど近いことをしばし忘れます。


落葉に埋もれるようにして、目の覚めるような色を見せるスミレの花。


この水場がオタマジャクシやトンボでにぎわう日も遠くありません。

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…という具合に、気持ち良く散歩しているときに、ひどく心を傷つけられるのが、投げ捨てられたゴミです。まあ、その一部はカラスの仕業であることが、嘴でつつきまわされた痕から容易にわかるのですが、下のようなのは当然カラスの仕業ではないでしょう、


これは名古屋市の「ボランティア袋」というもので、ボランティアさんの清掃用に市が配布しているものですが、いったいなんでこんなものが投棄されているのか。


まったくわけが分かりませんが、何にせよ、もうちょっと真面目にやってほしいと思います(私も道端のごみを拾いながら歩いたので、こうやってぼやく資格はあるはずです)。