夏、鎌倉2025年08月11日 14時29分34秒

もう20年以上前のことです。

この時期になると、まだ小さい子供2人を連れて、一家4人で鎌倉旅行したときのことを、ときどき思い出します。あのときは鎌倉から江ノ電に乗って、途中、大仏様を拝んでから、江の島観光に向かったのでした。


夏の盛りの、緑の濃い時期です。何せ人気の鎌倉ですから、観光客は当時も多かったはずですが、まだ外国からの旅客は少なかったので、今よりはのんびりした時間が流れていた気がします。

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大仏様を拝んだということは、我々は長谷の駅で乗り降りしたはずで、私がそれを見たのはその隣駅だったと記憶しています。隣といっても、一つ手前なら由比ヶ浜だし、一つ向こうなら極楽寺になるわけですが、その辺の時系列が、今では曖昧になっています。

その由比ヶ浜だか、極楽寺だかのホームに電車が滑り込む間際、私は日差しの明るいホームに、白い和服を着た女性が立っているのを見ました。日盛りのホームはがらんとして、ほかに電車を待つ人は少なかったです。その着物姿は、鎌倉という土地に至極似つかわしい気がして、私はそこに一種の旅情を感じました。


電車が止まり、その女性も当然、我々が乗った電車に乗り込むのだろうと思いましたが、ドアが開いてもその人の姿は見えませんでした。おや?とホームに目をやっても、そんな人の姿はどこにもないのでした。何だか妙な気がしました。

私はそのことを同行した家族にも言いませんでした。わざわざ言うには、あまりにもとりとめのない話だし、当然自分の見間違いだろうと思ったからです。ただ、改めて考えると、その日はちょうど8月15日で、何かそこに意味があるようにも感じられました。


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何だか出来の悪い怪談話をするようで恐縮ですが、ここに怪談的なプロットは何もありません。たしかに鎌倉という舞台設定と、消えた白衣の女性という点に、何となく怪談的要素がありげに感じられますが、出来事としては、女性の姿がふと見え、ふと消えただけでのことです。

ただ、私には不思議体験みたいなものがほとんどないので、あの日のことはとても印象深く、今でも思い出すたびに不思議な気がします。

この思い出は、以前もこの場で書いた気がするのですが、今検索しても見つかりませんでした。書いた気がするだけで、本当は書いてないのかもしれません。でも本当に書いていたら、そのとき書いたことと、上の文章を比較することで、記憶というのが歳月とともにどれだけ変形加工されるものか、それを実証する材料にはなるはずです。

(※写真は鎌倉ではなくて、名古屋市内)

てんとう虫の夜空2025年08月10日 16時17分25秒



イギリスで長い歴史を持つ児童書レーベル、「Ladybird Book(てんとう虫の本)」シリーズ中の一冊、『ザ・ナイト・スカイ』


■Mary Brück(文)、Robert Ayton(絵)
 『The Night Sky』
 Wills & Hepworth (Loughborough, Leicestershire), 1965

版元のウィルズ&ヘプワース社は、19世紀以来の老舗書店で、20世紀はじめから「てんとう虫の本」シリーズの出版を始め、その後、社名も「レディバード・ブックス」に変更(1971年)、現在はペンギンブックスの傘下にある…といった趣旨のことが、Wikipediaの同社の項には書かれています。

著者のメアリー・ブラック(1925-2008)はアイルランド出身の天文学者。最初はアイルランドのダンシンク天文台、その後、エディンバラ王立天文台に転じて、長く研究生活を送った人です。50代以降は天文学史の研究にも打ち込み、英国とアイルランドの女性天文学者の評伝等を発表しています。

(1954年6月30日の皆既日食観測のため、スウェーデンに遠征した折のブラック博士。Journal of Astronomical History and Heritage, Vol. 12, No. 1, p. 81 - 83 (2009) 掲載の追悼記事より)

ブラック博士が児童書を任されたのは、彼女が1950~60年代に、天文学の子供向けラジオ番組を担当した実績を買われれたのだと思いますが、本書『ザ・ナイト・スカイ』は、結果的に彼女の最初の単行本になりました。

一方、挿絵を描いたのはロンドン生まれのロバート・エイトン(1915–1985)で、彼は本書ばかりでなく、「てんとう虫の本」シリーズで広く活躍した画家です。

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ちょっと前置きが長くなりましたが、この本、しみじみいいんですよね。



仮に私が「美しい天文古書100選」を編むとしたら、夜空を詩情豊かに描いた佳作として、このささやかな本もぜひ加えたいです。



何といっても青の使い方がいいです。
実際の夜空がこんな色を呈することは稀だと思いますが、夜空の澄んだイメージを色に託すとなると、こんな色合いになるのでしょう。見ているうちに、だんだん心の中まで青く染まってくるようです。


本書の対象読者は、この年代の少年少女。
“小さな望遠鏡や双眼鏡があれば、夜空を眺める楽しみはいっそう増すでしょう。昼間のうちから遠くの山や建物を見て、操作に慣れておきなさい”…と、実践的なアドバイスも著者は忘れません。


太陽黒点を観測する際は投影法を用いなさい…という、これまた実践的なアドバイス。


遥かな宇宙へのあこがれ。


パロマー山の巨人望遠鏡(下)と並んで、あるいはそれ以上に、ジョドレルバンクの大電波望遠鏡(上)を大きく扱っているのが、いかにもイギリスの児童書。

本書が出た1965年には、未曽有の好景気によってイギリス人の生活も、ずいぶん豊かになっていたと思いますが、第2次大戦終結後、経済的困窮に苦しんだイギリス国民にとって、1957年に完成したジョドレルバンクの雄姿は、その威信回復のシンボルであり、時のヒーローでした。1965年当時も、その気分は依然濃厚だったことが窺えます。

続々・乙女の星空2025年08月08日 18時40分07秒

前々回、「星空浪漫」といい、「星菫趣味」ということを述べました。

これに関連して、気になっていることがあります。戦前の「女学生文化」と天文趣味との関連です。そもそも以前、『星の本』(昭和10/1935)という小冊子に注目したときから、この点は気になっていました。

本格的な天文趣味は、戦前は一部の例外を除き、もっぱら男性の領分だった思いますが、往々にして男性の胸底にもひそかな乙女心が隠れているので――だから明治の星菫派も成立したのでしょう――、天文趣味におけるロマンチシズムの伏流水として、またその後の日本の天文趣味に独特の色合いを与えたものとして、「女学生文化」的なものがあったのではないか…と、ぼんやり想像したりもします。

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ただ、私にとって女学生文化は縁遠い世界なので、視界がすこぶる不良です。
試みに稲垣恭子氏『女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化』(中公新書、2007)を読んだりして、その輪郭はわかったような気もしますが、天文文化との関係は特に言及がないので、この点はさっぱりです。


そこで、かつての代表的な少女小説である、吉屋信子『花物語』を紐解いて、そこにある「お星さま」の記述を探してみることにしました。


『花物語』は、当初はまだ栃木高等女学校の生徒だった作者の雑誌投稿が人気を呼んで、結局、大正5年(1916)から大正13年(1924)まで「少女画報」誌上で連載が続いた、全52篇から成る短編小説集です。


私が参照したのは、、まだ連載完結前の大正9年(1920)に春陽堂から出た最初の単行本の第1巻です(ほるぷ出版の名著復刻シリーズに入っているのが、それだけだからです)。それでも大体の雰囲気は分かるでしょう。

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以下、その具体例です。(旧字体は新字体に置き換え、原文の振り仮名は一部省略。赤字強調は引用者。末尾は作品名)。

 「昼は夢のやうに沖に浮いてゐた白帆も夜(よ)となれば影をひそめて、たゞ打ちよせてはあえなく砕ける波ばかり銀糸の乱れるやうにさゆらいで、遠いかなたの水平線に幽愁を漂はせて淡(うす)い新月の出る宵などは、私はもの悲しい思ひにつまされるのでした。」(野菊)

 「このあはれ深きローマンスの秘密をこめし指輪はおぼろに冴えゆく暁の明星のやうに閃きました。」(同)

 「あの砂丘の後の洋館の前をそゞろ歩きをしました。あたりは、いつとはなしに黄昏(たそがれ)て夕暗(ゆうやみ)は忍び足して近より、遥(はるか)み空には銀の星が輝きました。―マリアの瞳のやうに―。(名も無き花)

 「滋子(しげこ)の居る部屋の窓にも、外面(とのも)の月の光は流れ入った。滋子は、ペンを捨てゝ月の光さしこむ窓辺によった。あゝ何んといふ静かな美しい、それは月の宵だったらう。滋子が、窓によって、恍惚(うっとり)と月光に浸って居る時、何処(いづこ)の空からか〔…〕」(山梔の花)

 「その春の夜半を人影さす寮の窓の辺(ほとり)に静に寂しく月光に濡れて咲き匂ふた欝金桜(うこんざくら)の花こそは哀れに」(欝金桜)


「月光さす窓の中(うち)には、若き処女(しょじょ)が一心こめて鑿(のみ)を振(ふる)ふて冷たい大理石に暖かい命を生かさうと、細い腕(かいな)に力をこめて槌を振ふ―。〔…〕み空の新月が円(つぶ)らになって、やがてまた三日月の銀(しろがね)の挿櫛(さしぐし)と浮かぶ頃までゝあった。」(同)

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これを見て気づくのは、勢い込んで探したものの、「お星さま」はあんまり登場していないことで、特に星座名はさっぱりです。主役はむしろ「お月さま」で、夜空に浮かぶ銀の月や、部屋の中を照らす月光なんかが、乙女心を捉えていたように読めます。

これはある意味当然で、1920年の段階では、先に言及した、野尻抱影『星座巡礼』(1925)も、山本一清『星座の親しみ』(1921)も、古川龍城『星のローマンス』(1924)も出る前ですから、いかに本好きの少女でも、星座趣味はまだ視界に入ってなかったし、それを語る語彙もなかったのでしょう。


ではそこから、『星の本』が出る昭和10年(1935)までの15年間の変化を追って、さらに少女小説の森に分け入るか…ということになるのですが、しかし「そこまでするか?」という内なる声もあり、この件は少し寝かせておくか、あるいは斯界に詳しい方の論究を待ちたいと思います。

(この話題、不完全燃焼のまま終わります)

BOMB!2025年08月06日 06時03分06秒

eBayを見ていて、「ひどいじゃないか」と思いました。


ずばり「原爆投下ゲーム」です。
いくら何でもひどいと思って、それを忘れないために購入しました。

遊びとしては玉転がしゲームの一種で、本体を前後左右に傾けて、薬のカプセルのような形をした玉(すなわち原爆)を、広島と長崎の穴に落とし込むという遊びです。カプセルの中には小さな鉄球が入っているため、玉の動きが不規則になるのを巧みに操るところに遊びとしての面白さがあるのでしょう。

(2個の玉のうち1個は破損して、鉄球が飛び出しています)

おそらく1950年代のものと思いますが、アメリカの子供たちが(ときに大人も)、「そら、もう少しだ…よし、やったー!ヒロシマとナガサキが吹っ飛んだぞ!!」と、ワイワイきゃーきゃー言いながら、これで遊んでいる光景を想像すると、腹の底から苦いものがこみあげてきます。

無言で張り飛ばしてやりたいような気もするし、人間はここまで理解し合えないものかと知って、ひどく虚無的な気分にもなります。何にせよ、「いい加減にしておけ」と思います。

(原爆を体験した多くの一般市民による画集『原爆の絵  HIROSHIMA』。㈶広島平和文化センター編、童心社発行、1977)

(上掲書より。「校庭に朝礼中とみえる全児童が、整列したまま、いちようにうずくまって、黒く焼けて死んでいた。」)

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このゲームを作ったのはコネチカットのA. C. ギルバート社です。

同社は1967年に倒産して消滅していますが、20世紀の前半、アメリカではそこそこ羽振りのよかった科学玩具メーカーだそうです。1950年には、ガイガーカウンターと放射性物質のサンプルから成る「Gilbert U-238 Atomic Energy Laboratory」という危なっかしい科学玩具も扱っており、この原爆ゲームもそんな時代の空気の中で生まれたのかもしれません。

(Gilbert U-238 Atomic Energy Laboratory。出典Wikipedia

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…と言いつつも、アメリカの世論調査では、広島・長崎への原爆投下を正当化できないと考える人が増えており、しかも若い人ほどその傾向が強いという結果が出ているのは救いです。アメリカの人がトランプ氏をかつぐ一方で、原爆ゲームの能天気さから脱しつつあるのであれば、大いに結構なことです(でも共和党と民主党支持者でも、結果は分かれるのかもしれません)。

(中日新聞・2025年7月29日夕刊より。原調査は米調査機関のビュー・リサーチ・センターが7月28日に実施)

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能天気といえば、先日、参政党の議員候補(現・議員)が、「核武装が最も安上がり」と発言して、強い批判を招きました。あのあっけらかんとした感じ、何も考えてない感じ、そして想像力の完全なる欠如が、むしろこのゲームとよく似ていると感じます。核武装の件もそうだし、その粗雑な歴史認識もまた同様です。アメリカの心配をするより先に、足元がだいぶ危ない感じです。

(『原爆の絵  HIROSHIMA』、扉)

星空浪漫、明治から大正へ(3)2025年08月05日 05時52分32秒

前回書いたことは、別に早稲田の英文科に学んだ抱影だから…というわけではありません。

京大の物理学科に学んだ、プロの天文学者である山本一清(1889-1959)にしても、その第一主著『星座の親しみ』(初版・大正10/1921、引用は大正11/1922・第13版)の「まへおき」の中で、カーライルを引き、テニスンを引き、ホメロスを引き、タゴールを引き、要するに文学的色眼鏡をもって星空を眺めることの趣深きことを熱弁して止みません。

(『星座の親しみ』口絵)

 「純潔と崇高とは、星の光の持つ魂である。見る人の心を、之によって浄化せずには止まない。こゝに真の美が生れる。――美とは客観のみでない。又、主観のみでない。主と客と、(心と星と、)相結んでこそ、美の精を産むものと言はねばならぬ。エマソンの言に

 若し星が、千年に一夜だけ現はれるものならば、
 こゝに表はされた神の都の記憶(おもひで)を如何に人々は信じ、
 あこがれ、又、後の世の代々まで伝へることであろ〔ママ〕う

とある。毎夜、見得るが故に美を感じないとしたならば、そは人の心のゆるみである。文人は之れを「神を瀆(けが)すもの」と言ふのであろう。」
(pp.6-7)

その力みっぷりが可笑しくもありますが、御大・山本博士にしても、まだ30歳を超えたばかりの少壮期ですから、これは純情一途な思いの発露に他ならないでしょう。そしてまた、明治の後半に青春期を送った世代に、浪漫派の思潮がいかに広汎な影響を及ぼしたかの証左でもあると思います。

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「星菫趣味」というのがあります。

文学史の用語でいうならば「星菫派」。これは雑誌『明星』に拠って、ロマンチックな恋愛をうたった詩人たちのことです。もっとも彼らが自ら星菫派と称したわけではなく、「星やら菫やら、甘ったるい言葉で色恋を語る連中」というュアンスで、周りの人間が蔑んで使った言葉のようです。

私のいう「星菫趣味」は、もうちょっと広い意味で、いわば「星菫派」が固有名詞なのに対して、「星菫趣味」の方は一般名詞です。すなわち菫の花を抱きしめて「お星さま」をうっとりと見上げる…まあ現実にそんな人はいないでしょうけれど、要はいくぶんステロタイプなロマンチシズムの色眼鏡をかけて、星空を眺める人たちや態度のことです。


改めて明治期の出版物から。
左は明治43年(1910)に日本天文学会が出した『恒星解説』、右は明治34年(1901)に出た与謝野晶子の『みだれ髪』です。

多くの人は、そのデザイン感覚に共通するものを感じると思いますが、こうした浪漫の情調は、すでに明治末年、オフィシャルな天文界にもにじみ出ていたことが分かります。

そして、それがはっきり文字になったものこそ、かつて若年の頃、星菫趣味にそまった(or かぶれた)人々の手になる大正期の天文書であり、それが昭和の「乙女文化」にも影響したし、戦後も長く「日本的天文趣味」の根幹にあり続けた…というのが、私の中の大まかな見取り図です。(さらに、「日本的天文趣味」に及ぼした賢治や足穂の影響については、別のところで述べた記憶があります。)


   ★

以上のことは、こんな資料のつまみ食いではなく、もっと系統立ててしっかり論じるべき事柄だと思いますが、浅学の身には荷が重いので、ざっくりしたメモ書きだけで筆をおきます(一種の作業仮説とお考えください)。

(この項おわり)

星空浪漫、明治から大正へ(2)2025年08月04日 06時56分58秒

ここで時計の針を14年ばかり進めます。


以下、古川龍城(著)『星のローマンス』(大正13/1924)の「はしがき」より。

 「夜こそ我が世界なれ」と、かく一言したゞけで、何人もその中には一切の歓びと、憧れとの残りなく包まれてあることを、自分自身で忽ち直感するであらう。
 著者は右の一言で人々が直感した、その通り寸分違はない心持で、夕陽、山のあなたに寂滅して、満天の星高く冴え、満都の灯(ともしび)賑やかに閃く、夜の世界を何物にかへても愛着しようとする。
 春宵一刻価千金、更け行く夜の空気の生温(なまぬる)さ、しんと静まった一室に恋人と語った春の夜、数行過雁月三更、明月を仰いで再嘆三嘆した秋の夜、げに思ひ出は尽けども尽きず、帰れども止まらない。」

一読して分かるように、大正期の天文書では、星空は明瞭に情緒的・感覚的な“ローマンス”の対象となっています。ひょっとしたら明治の学者だって、そうした思いを胸に秘めていたのかもしれませんが、それをあからさまに語ることに一種の含羞があって、そこに「科学のロマン」の衣を着せていたのかもしれません。しかし、大正時代になると、そのためらいが消えます。

(星座神話を主体にした本書の内容を象徴するタイトルページ)

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続いて、野尻抱影(1885-1977)のデビュー作、『星座巡礼』(初版・大正14/1925、引用は昭和6/1931第7版)の「序」より。


 「花が植物学者の専有で無く、また宝玉が鉱物学者の専有でも無いやうに、天上の花であり宝玉である星も天文学者の専有ではありません。毎夜僅かの時間に僅か目を常の高さより挙げるだけで、吾々は思ふまゝに彼等の美を楽むことが出来るのです。〔…〕

 素人の天文家には難しい学理や、学者自身さへ実感の無い長々しい数字などは当面の事ではありません。花を味ふのにも宝玉を楽むのにも多少の知識は要る、あの程度の知識を星に就いて得れば、星は其の人に漸次(しだい)に微妙なる魅力を加へて来るのです。〔…〕

 しかも更に進んで星座を知るに及んで、吾々は宝玉を以て描かれた天図が夜々周ってゐることに驚喜します。希臘へ、伊太利へ、スカンディナヴィアへ、――地上の美しい国々へは旅したいと思っても、事情によって一生そこを訪れる事が出来ないかも知れない。然るに天界の八十八座は吾々が安座してゐる頭の上を毎夜ぢりぢりと動いて、次々に優麗荘厳なる天図を展開して行くのです。」

これぞ天文学の王国から天文趣味が独立を果たした、力強い「独立宣言」です。
星の美を味わうのに天文学は不要だ…とまでは言わないにしても、それが無くとも星の美は十分味わえると、抱影は言うのです。


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抱影は天文趣味を自然科学から文学へと大きく接近させましたが、そこには抱影の青年期の体験が色濃く影響しています。『星座巡礼』には、著者・抱影による「序」とは別に、友人・相馬御風(1883-1950)による「序文」が寄せられています。

 「〔…〕僕は今大兄からおくられた其の懐しい書物の一部を手にして、二十一二年も遠い過去の涙ぐましい追憶に耽られずにはゐられませんでした。

 二十余年前、早稲田の学窓で始〔ママ〕めて大兄と不思議な深い交りを結ぶやうになったあの頃のことを憶ひ起すと、僕は今でもたまらない懐しさを覚えます。あの頃は日本の文壇の趨勢もさうであったが、とりわけ僕たちの仲間は若くして清い夢見る人のあつまりであったやうな気がします。そしてあの頃既に星と神話とにかけては驚くべく深く且広い造詣のあった大兄は、僕たちの夢見る者にとりては最も華やかな先達の一人でした。ワーズワース、コーリッヂ、スコット等の湖畔詩人を始めとして、ブレーク、シェリー、キーツ、ロセチ等のイギリス浪漫派の詩人達の生活とにとりわけ熱烈な思慕を寄せてゐた僕たちの美しい純な心に、大兄の星と神話との誘ひがどんなに強い魅力を持ってゐたかは、今でもはっきりと思ひ出すことが出来ます。〔…〕

 あれからもう二十幾年かの歳月がいつの間にか過ぎてしまひました。その二十幾年かの間に僕の心も実にさまざまの変遷を経て来ました。世間の思潮も、文芸界の思潮も、むろんその間には複雑極まる変転を閲してゐます。しかし僕は自分の過去を顧みて、自分らの貴い青春期をロマンチシズムの思潮に浸潤されてゐた時代のうちに過し得た事を。恵まれたる一つの幸運として感謝してゐます。」

抱影が早稲田で学んだのは、明治35年(1902)から39年(1906)までです。

世はまさに与謝野鉄幹・晶子夫妻の文芸誌、『明星』(明治33/1900創刊~明治41/1908終刊)の全盛期。抱影自身、早稲田在学中に『明星』の亜流といえる『白百合』の発刊に関わり、ハイカラで甘やかな明治浪漫思潮にどっぷりつかっていた…というのが、上の御風の文章の背景にあります。

(この項つづく)

星空浪漫、明治から大正へ(1)2025年08月03日 16時22分38秒

10年前、20年前と言わず、もっと最近の話ですが、5か月ばかり前に書きかけのまま、ずっと筆が止まっていたテーマがあります。

下の記事を皮切りに、「乙女チックな天文趣味」の話題から、更に星空とロマンチシズムやセンチメンタリズムの結び付きを考えよう…という話題です。


■乙女の星空
■続・乙女の星空

結論からいうと、この“センチメンタリゼーション”は大正時代に一気に表面化した気配があって、そのことを跡付けようと古い本を眺めていたのですが、他に気がそれて自然沙汰止みになっていました。でも中途半端は良くないので、この辺で改めて文字にしておきます。

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上で、“センチメンタリゼーション”は大正時代に一気に表面化したと書きました。そう考えるわけは、単純に明治時代の一般向け天文書と、大正時代のそれを比べたとき、その手触りがあまりにも違うからです。一言でいうと、明治の天文書はお堅く、大正の天文書はおセンチです。もちろん大正時代の天文書といっても、学術書はお堅かったでしょうが、一般読書人向けの本はひどくセンチメンタルです。

その変化は明治40年代から大正10年代にかけて、西暦でいえば1910年前後から1920年前後という、驚くほど短いスパンで生じました。

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たとえば明治の例として、横山又次郎『天文講話』(初版・明治35年/1902;引用は第5版・明治41年/1908)を見てみます。その「緒言」に曰く(以下、引用はすべて新字体・旧仮名遣いとし、カナ書きの文章は平仮名書きとします)、

 「天文学は一名星学とも称〔とな〕へ、日月星辰地球等の、所謂天体と称するものの学問で、其の形状運動等より、如何なる物質より成れるかまでも併せて研究するものである、随〔したが〕って其の実益も極めて大で、正確に時刻を知り、暦を製して時を分ち、吾人日常の生活に時日を誤らしめず、又地球の形を精査して正確なる地図海図等の基礎を拵〔こしら〕ゆる等の事は、其の応用の直接なるものである」(p.1)

ここで強調されるのは、天体の研究が大きな「実益」(報時、編暦、地図作成の便)を伴うということです。まあ著者・横山は、本書が早稲田大学の史学科の学生を対象にした講義録であることから、「数学上に関する事項は、成るべく之を省き、天体に就て何人が読でも解し易く且面白さうに考へらるる事のみを説く積りである」と述べてはいますが(p.2)、それは一種の便法で、天文学が無条件に面白いものだ…とは言わないし、ましてや夜空の美観については、一言も触れていません。

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次に見るのは、本田親二(著)『最新天文講話(全)』(明治43/1910)です。冒頭の「第一篇 緒論-第一章 天文学の目的」を読んでみます。

 「天文学は普通の人が必ずしも閑却して差支ないといふやうなものではない。寧ろ社会の総ての方面に於て必要を感じなければならぬものであらうと思はれる。そこで本書は古今の学者の研究した結果を通俗的に一般の人に伝へ天文学の趣味と実用との方面の幾分を紹介したいといふ目的で書くのである。」(p.2)

本田がいう「実用の方面」というのは、横山とまったく同じです。すなわち報時業務、暦の作成、測地学・航海術等への応用です。では「趣味の方面」は何か。

 「天文学は常に実用の方面許〔ばか〕りを研究して居るのではない。時には実用にもならぬやうな、普通素人が考へると全然空想のやうなものを頗る精密に研究して居ることもあるのである。〔…〕吾人が宇宙の中に棲息して居る以上は、自分の住家として宇宙を研究したいといふ事は誰でも起すべき欲望でなければならぬ。其智識欲の要求によって天文学の最大なる而〔しこう〕して最終の目的が定るのである。即宇宙全体の構造及び過去将来を詳しく知り尽くすといふ、総ての空間及総ての時間を包含する大問題である。それは吾々の心中に於ける智識の統一の欲望の最大なる発現であると言っても宜〔よ〕いのである。」(pp.5-6)

本田がいう「趣味の方面」とは、要するに宇宙の成り立ちに関する「科学的探究ロマン」です。実際、その思いに突き動かされて、我々は100年余りの間に長足の進歩を遂げ、今もその歩みを止めていないわけで、これが壮大なロマンであることは間違いないでしょう。

本田は「星座ロマン」や「星空の美」こそ説きませんでしたが、そこには確かなロマンチシズムの萌芽があり、それが大正時代になると一気に噴き出してくることになります。

(この項つづく)

Flying to the Planets2025年08月01日 17時41分05秒



こんな不思議な絵を見つけました。


大地と雲、そして太陽と惑星がひとつの画面に描かれ、遠い惑星に向けて複葉機が飛び立つのを子供たちが見送っています。


複葉機が登場するのは、惑星がどれほど遠いかを教えるための方便で、当時の「速い乗り物」の代表が複葉機だったのでしょう。この(時速96kmの)超速飛翔体でも、木星までは740年もかかるよ…云々というわけです。描かれているのは、ファルマンっぽい草創期の複葉機ですから、この絵も1910年代前半の出版物から取ったもののようです。


しかもよく見ると、地上から見上げる空に、もう一つの地球が浮かんでいます。これは惑星の大きさを比較するために描いたのだとキャプションは述べていますが、それにしたってシュールというか、不条理というか、言い知れぬ幻想味をたたえた絵です。

(薄雲をまとった土星)

題して「惑星までの飛行機の旅」(An airship voyage to the planets)。作者はCharles Ketchum という伝未詳の人物で、さらにこの絵自体の出典も不明という(※)、何だか全体に謎めいた感じです。

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とは言え、この絵は初見ではありません。
前回(7月27日)、10年前の過去記事をネタにしましたが、この絵はさらに以前、早20年にもなろうかという昔に、mistletoeさん(子羊舎)のブログで拝見し、強烈な印象を受けた絵です。

ある年代の方はよくご存知でしょうが、20年前は個人ブログが大層流行った時期でした。私もいろいろなブログをのぞき見しては、ときにコメントを残し、やがて相互訪問の関係になり…という交流をしていたのです。ですから、上の絵は尋常の天文アンティーク的郷愁を誘うと同時に、そうした個人的郷愁とも結びついています。

…と、妙に懐古モードに入るのもいかがなものかと思いますが、20年はやっぱり長いです。当時、私の心と体は今よりもだいぶ若かったし、天文アンティークの世界は、広大な未知の大陸のように眼前に横たわっていました。

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当時欲しかった絵を、こうして約20年ぶりに手にして、往時の気分が束の間よみがえったことを素朴に喜んでいる自分がいます。


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(※)画像検索したら、「for an article on astronomy in the American Reference Library, Vol. 10, 1924. (Collection of Adam Levine)」という注釈とともに紹介されているページ【LINK】に行き当たりました。でも、この絵は明らかに科学や天文に関する児童書の挿絵に見えるし、そんな渋い定期刊行物には、どうも似合いません。未確認のままウロンなことを書きますが、上の出典にはさらにオリジナルの原典がある気がします。

ソォダ色の少年世界、ふたたび2025年07月27日 07時58分14秒



平成の初め、1991年から92年にかけて出た、長野まゆみさんの「天球儀文庫」
「月の輪船」「夜のプロキオン」「銀星ロケット」「ドロップ水塔」から成る四連作です。


長野作品の定番である、二人の少年を主人公にした物語。
本作では、それぞれアビと宵里(しょうり)という名を与えられています。

二人が暮らすのは、波止場沿いの町。

(イラストは鳩山郁子さん)

物語は夏休み明けから始まり、再び夏休みが巡ってきたところで終わります。
例によって、筋というほどのものはなく、二人の会話と心理描写で物語は進みます。

その世界を彩るのは、ルネ文具店のガラスペンであり、スタアクラスタ・ドーナツであり、プロキオンの煙草であり、砂糖を溶かしたソーダ水です。


学校の中庭で開かれる野外映画会、流星群の夜、銀星(ルナ)ロケットの打ち上げ。
鳩と化す少年、地上に迷い込んだ天使、碧眼の理科教師、気のいい伯父さん…


永遠に続くかと思われた、そんな「非日常的日常」も、宵里が遠いラ・パルマ(カナリア諸島)への旅立ちを決意したことで、幕を閉じます。

宵里が去って数週間後、アビが宵里から受け取ったのは、「手紙のない便り」でした。
それは、どこかでまた「はじめて逢おう」と告げるメッセージであり、アビもあえて返事を書きません。その日が来ることを期待して、二人はそれぞれの人生を再び歩み始める…というラストは、なかなか良いと思いました。


   ★

これはひたすら甘いお菓子のような作品です。
格別深遠な文学でもなく、そこに人生の真実が活写されているわけでもありません。
(いや、真実の断片は、やはりここにも顔を出していると言うべきでしょうか?)

とはいえ―。
お菓子は別に否定されるべきものではありませんし、どちらかといえば、私はお菓子が好きです。

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上の文章は、10年前に書いた記事の一部再掲です。
なぜそんなことをしたかといえば、10年前、私の心の中で別れを告げたアビと宵里が、今年の夏休み、ふたたび私の心の中で出会ったからです。


この澄んだソォダ色のガラス玉。
アメリカの売り手は、これをカナリア諸島の海岸で採取されたシーグラスと記載していました。それを知って、私はすぐカナリア諸島の宵里からの便りだと思いました。


この手紙には、やっぱり文字が書かれていません。


でも光にかざすと、カナリア諸島から見える光景が、青い空と海が、そして水平線上に浮かぶ雲がぼんやりと浮かび上がり、宵里がアビに何を伝えたかった分かるような気がしたのです。つまり「世界はこんなふうにつながっているんだよ」と。

この水色のガラス玉を通して、彼らの目と心が一瞬重なったと思うのは、もちろん一読者の勝手な思い入れに過ぎません。理屈も何も通ってないし、それこそお菓子のように甘ったるい妄想といわれればそのとおりです。それでも夏休みは、私にとってそんな空想をふとしてみたくなる時期なのです。

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今日も朝から降るような蝉時雨。

パサチョフ博士の夏休み2025年07月26日 09時46分45秒

ジェイ・パサチョフ(Jay Myron Pasachoff 、1943 –2022)という人がいます。

主に太陽と惑星大気の研究で知られた天文学者です。ハーバードで学んだ後、マサチューセッツのウィリアムズ・カレッジに籍を置きながら、サバティカルを利用して各地の大学や天文台で研究生活を送り、また天文教育にも情熱的で、多くの教科書を著した…というのは主にWikipediaの同氏の項目の受け売りですが、そこには彼がルネッサンス期以降の絵画における日食描写の分析といった、いわば「天文美術史」的研究にも手を染めていたことが書かれており、その関心の幅広さを知ることができます。

そのパサチョフ博士の書斎に置かれていたであろう、かわいい品を見つけました。

(台座の長辺は約18cm)

望遠鏡を操作する女性をかたどったオブジェで、その銘板に博士の名前があります。


アメリカで1959年以来続いている「サマー・サイエンス・プログラム(SSP)」という教育プログラムがありますが、その2004年の開講時に、博士がゲスト講師として招かれた際、記念品として博士に贈られたものです。


SSPは、アメリカ内外から集まった優秀な高校生が、5週間の共同生活を送りながら、第一線の研究者をはじめ、大学院生や学部生のサポートを受けつつ、専門的な研究を体験するプログラムです。研究や講義の合間には、各種のレクリエーションも用意されており、ここで共に学んだ仲間とは一生の友情がはぐくまれる…と聞くと、自分もそんな体験がしてみたかったなあと、羨ましい気がします。(プログラムについていく能力があれば、の話ですが。)

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ときに、この小像のテーマになっている望遠鏡は何だ?ということですが、これはWikipediaの「Summer Science Program」の項に掲載されているのと同じものです。


昔はこの画像がSSPのシンボルであり、ロゴでもあったようですが、現在のSSP Internationalの公式サイトからは消えています。

たぶん…ですが、最近になってプログラムの内容が天文学にとどまらず、生物学や化学分野にまで広がったこと、そして開催地も南カリフォルニアのハイスクールを間借りする形から、全米各地の大学キャンパスを使った大規模なものに変わったことから、SSPのシンボルとして、最早そぐわなくなったからだろうと想像します。

以前のSSPの様子が、「Sky & Telescope」の2001年3月号にリポートされており、この望遠鏡も写真に写り込んでいます。それによれば、この望遠鏡は最初カリフォルニア州オーハイのサッチャー・スクールに置かれ、その後近くのベサントヒル・スクール(旧称ハッピーバレー ・スクール)に移設された、口径7インチのツァイス製アストログラフ(=写真撮影専用望遠鏡)で、ガイド用の屈折望遠鏡を同架しています。SSPの参加者はこれで小惑星を撮影し、位置測定と軌道計算をするのが定番だったようです。



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アメリカも最近は貧乏くさい話が増えてきましたが、こういう物心伴う豊かさは、多様性を当然のものとして受け入れる度量の広さとともに、失ってほしくないものです。
(ちなみに、望遠鏡の操作者が女子学生として造形されているのは、1969年以来女性に門戸を開放してきたSSPの矜持でもあり、開明さの表明でもあるのでしょう。)