北の大地に太陽は黒く輝いた(3)2025年06月28日 11時36分53秒

北海道日食のつづき。

北海道で皆既日食があった1896年と1936年、明治と昭和の間の40年間で大きく変わったものがある…と書きましたが、それは私の創見ではなく、1936年の日食観測報告書にそう書いてあるのを見て、「なるほど」と思ったのでした。

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連載の2回目で書いたように、このときは大学関係をはじめ、気象台や逓信省等、多数の観測隊が北海道入りをしましたが、その中にあって純然たる民間の立場で参加したのが、五藤光学研究所の遠征隊であり、それを率いたのが所長の五藤齊三(ごとうせいぞう、1891-1982)です。

(興部〔おこっぺ〕の観測地に立つ五藤齊三。『北海道日食観測報告書』より。以下同じ)

(五藤隊が見た日食)

(五藤隊が布陣した興部の位置)

五藤隊は、帰京後『北海道日食観測報告書』という冊子を公刊しています(奥付がなく、正確な刊年は不明)。

(まだらになっているのは染みではなく、そういう模様の紙を使っているため)

ただし、これは独立した報告書ではなく、既に公刊済みの以下の3編の報文を一冊にまとめたものです。

■五藤齊三、「北海道興部皆既日食観測に於ける眼視観測と撮影装置」
 「科学知識」昭和11年8月号
■平山清次、「日食後記」
 「改造」昭和11年8月号
■S. GOTO  & M. YAMASAKI, 
 Cinematographic Observations of the Total Solar Eclipse of June 19, 1936.
 Popular Astronomy, vol. XLV, No.5, May, 1937.

2番目の「日食後記」の筆者、平山清次(ひらやまきよつぐ、1874-1943)は、五藤隊に加わっていたわけではありませんが、文中で五藤隊の業績を好意的に取り上げているので、特に載せたものと思います(平山は前年に東京天文台を定年退官しており、自ら隊を率いることはありませんでしたが、東京天文台あるいは東大隊のどれかに随行していたのでしょう)。

平山はこう書きます(引用にあたり旧字体を新字体に改めました。〔 〕内は引用者)。

 「朝日新聞社の援助で五藤、三木〔新興キネマ会社技術部の三木茂〕両氏が興部で日食の活動撮影を試みた。コロナの方は別に珍しいもので無いがフラッシ〔フラッシュ〕の変化を撮ったのは稀で、しかもそれを無電の秒の信号と合せてトーキーで撮ったのは恐らく最初であらう。此の映画は朝日新聞社主催の日食座談会で見せて貰ったが予期以上の好成績である。〔…〕とにかく此観測では玄人連が顔負けをした形で、学術の進歩の為めに誠に喜ばしい事である。」

(左:活動写真トーキーの成果)

五藤隊の面目躍如。そして平山は続けてこうも書きます。

 「是迄の日本の日食観測は殆ど全部、外国から輸入した器械で行ったのであるが、今度の日食には国産品が大部用ひられた。小清水で松隈博士が用ひたコロナ写真器、興部で村上理学士が用ひたコロナ写真器、稚内で鈴木理学士が用ひたフラッシ・スペクトル写真器は其主なるもので何れも相当の成績を挙げて居る。光学工業は言ふ迄もなく精密工業の基礎で、それが出来ないでは一流の工業国たる資格が無い。写真工業に就いても同じ事である。其等が日食観測に使用し得べき程度に運んだのは真に国家の為に喜びに耐えぬ事である。」

そう、これこそ私が「なるほど」と思った大きな変化です。

ニコンの前身、日本光学が設立されたのが大正6年(1917)。その日本光学を飛び出し、五藤齊三が廉価な望遠鏡の製作販売を目指して五藤光学研究所を創設したのが大正15年(1926)。明治と昭和の間にはさまった大正時代に、日本の光学工業は画期を迎え、長足の進歩を遂げたのでした。

(冊子の裏表紙と、冊子に挟まっていた案内文。「弊社製品の型録〔カタログ〕御入用有之候はゞ左記へ御申越被下度候」。時代は進んでも、まだ完全な候文であるのがいかにも戦前)

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ときにまったくの余談ですが、五藤光学のロゴマーク。


同社のサイト【LINK】を拝見すると、現在は下のデザインに変わっていて、「創業者 五藤齊三は富士山がとても好きでした。弊社の社章は、世界中の人がひと目でそれとわかるように、日本を代表する富士山と、光学技術の象徴であるレンズが組み合わされています」との説明があります。


公式がそうアナウンスしている以上、まあその通りなのでしょうけれど、同社はウラノス号、アポロン号、ダイアナ号、エロス号のように、ギリシャ・ローマ神話にちなむ製品名を多用したので、このマークも「ギリシャ神話の主神ゼウスと霊峰オリンポス山を組み合わせたもの」という“裏解釈”が当時なかったかどうか、そこがちょっと気になります。