星空浪漫、明治から大正へ(1)2025年08月03日 16時22分38秒

10年前、20年前と言わず、もっと最近の話ですが、5か月ばかり前に書きかけのまま、ずっと筆が止まっていたテーマがあります。

下の記事を皮切りに、「乙女チックな天文趣味」の話題から、更に星空とロマンチシズムやセンチメンタリズムの結び付きを考えよう…という話題です。


■乙女の星空
■続・乙女の星空

結論からいうと、この“センチメンタリゼーション”は大正時代に一気に表面化した気配があって、そのことを跡付けようと古い本を眺めていたのですが、他に気がそれて自然沙汰止みになっていました。でも中途半端は良くないので、この辺で改めて文字にしておきます。

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上で、“センチメンタリゼーション”は大正時代に一気に表面化したと書きました。そう考えるわけは、単純に明治時代の一般向け天文書と、大正時代のそれを比べたとき、その手触りがあまりにも違うからです。一言でいうと、明治の天文書はお堅く、大正の天文書はおセンチです。もちろん大正時代の天文書といっても、学術書はお堅かったでしょうが、一般読書人向けの本はひどくセンチメンタルです。

その変化は明治40年代から大正10年代にかけて、西暦でいえば1910年前後から1920年前後という、驚くほど短いスパンで生じました。

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たとえば明治の例として、横山又次郎『天文講話』(初版・明治35年/1902;引用は第5版・明治41年/1908)を見てみます。その「緒言」に曰く(以下、引用はすべて新字体・旧仮名遣いとし、カナ書きの文章は平仮名書きとします)、

 「天文学は一名星学とも称〔とな〕へ、日月星辰地球等の、所謂天体と称するものの学問で、其の形状運動等より、如何なる物質より成れるかまでも併せて研究するものである、随〔したが〕って其の実益も極めて大で、正確に時刻を知り、暦を製して時を分ち、吾人日常の生活に時日を誤らしめず、又地球の形を精査して正確なる地図海図等の基礎を拵〔こしら〕ゆる等の事は、其の応用の直接なるものである」(p.1)

ここで強調されるのは、天体の研究が大きな「実益」(報時、編暦、地図作成の便)を伴うということです。まあ著者・横山は、本書が早稲田大学の史学科の学生を対象にした講義録であることから、「数学上に関する事項は、成るべく之を省き、天体に就て何人が読でも解し易く且面白さうに考へらるる事のみを説く積りである」と述べてはいますが(p.2)、それは一種の便法で、天文学が無条件に面白いものだ…とは言わないし、ましてや夜空の美観については、一言も触れていません。

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次に見るのは、本田親二(著)『最新天文講話(全)』(明治43/1910)です。冒頭の「第一篇 緒論-第一章 天文学の目的」を読んでみます。

 「天文学は普通の人が必ずしも閑却して差支ないといふやうなものではない。寧ろ社会の総ての方面に於て必要を感じなければならぬものであらうと思はれる。そこで本書は古今の学者の研究した結果を通俗的に一般の人に伝へ天文学の趣味と実用との方面の幾分を紹介したいといふ目的で書くのである。」(p.2)

本田がいう「実用の方面」というのは、横山とまったく同じです。すなわち報時業務、暦の作成、測地学・航海術等への応用です。では「趣味の方面」は何か。

 「天文学は常に実用の方面許〔ばか〕りを研究して居るのではない。時には実用にもならぬやうな、普通素人が考へると全然空想のやうなものを頗る精密に研究して居ることもあるのである。〔…〕吾人が宇宙の中に棲息して居る以上は、自分の住家として宇宙を研究したいといふ事は誰でも起すべき欲望でなければならぬ。其智識欲の要求によって天文学の最大なる而〔しこう〕して最終の目的が定るのである。即宇宙全体の構造及び過去将来を詳しく知り尽くすといふ、総ての空間及総ての時間を包含する大問題である。それは吾々の心中に於ける智識の統一の欲望の最大なる発現であると言っても宜〔よ〕いのである。」(pp.5-6)

本田がいう「趣味の方面」とは、要するに宇宙の成り立ちに関する「科学的探究ロマン」です。実際、その思いに突き動かされて、我々は100年余りの間に長足の進歩を遂げ、今もその歩みを止めていないわけで、これが壮大なロマンであることは間違いないでしょう。

本田は「星座ロマン」や「星空の美」こそ説きませんでしたが、そこには確かなロマンチシズムの萌芽があり、それが大正時代になると一気に噴き出してくることになります。

(この項つづく)