ガラスの海(後編)2025年10月01日 19時32分00秒

(昨日のつづき)


この品を見たとき、これは「ガラスの海」だと思いました。
透明なガラスの中に、紺碧の波涛がどこまでも続くガラスの海。

そして「ガラスの海」といえば、たむらしげるさんの同名の作品をただちに思い浮かべます。

(「ガラスの海」より。『スモールプラネット』(青林堂、1985)所収。初出誌は「ガロ」1982年4月号)

透明なガラスの海の上を歩む旅人。
その海面は一見不動に見えますが、よく見るとゆっくりと上下動しており、旅人はその表面をつるはしで割ってイワシを捕えては腹を満たし、巨大な船を見送り、ガラスを突き破って昇った月を眺めます。

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このガラスの海のモチーフは、その後、たむらさんの中でさらに深化を遂げて、「クジラの跳躍」という作品に生まれ変わります。後者において、ガラスの海は、単に硬質で透明な存在というばかりでなく、「時間の流れ」の隠喩ともなります。

(「クジラの跳躍」より。『水晶狩り』(河出書房新社、1986)所収。初出誌は1985年7月刊「小説新潮臨時増刊/書下ろし大コラム Vol.2 個人的意見」)

こちらの作品にも、ガラスの海を歩む男が登場します。
彼にとって、海上を飛ぶビウオは凍り付いたように静止しており、その描写から、トビウオと男は別の時間の流れを生きていること、そのために海もまたガラスの相貌を帯びていることが示唆されます。

このガラスの海からジャンプするクジラは、何時間もかけてその巨体を海面上に現し、再びゆっくりと没していきます。

(2つの作品にともに登場する巨大客船のイメージ)

一方、ガラスの海をゆく巨大客船の乗客にとって、クジラの跳躍はごく一瞬の出来事に過ぎず、これら2つの世界の住人は、決して交わることがありません。

ある意味哲学的なこの作品を、私はひどく気に入っていて、9年前も話題にしたことがあります。

■平行世界

たむらさん自身にとっても、「クジラの跳躍」はきわめて重要な作品とおぼしく、上記のように1985年にコミック作品として発表された後、1995年にリブロポートから同名の絵本が出版され、さらに1998年には、CGによる23分間のアニメ作品として、劇場公開もされました。(このときは、先行してCG化された「銀河の魚」(1993)および「ファンタスマゴリア」(1995)からセレクトした4編と併映されました)。

(「クジラの跳躍」の映画パンフレット表紙)

(同上より)

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「この小さなオブジェの向こうには、そうした不思議な世界があり、それは不思議であると同時に、確かにこの世界の真実でもあるのだ…」と、ガラスの立体を眺めながら、ぼんやり思います。

父蜂、母蜂2025年10月01日 19時47分17秒

(今日は2連投です)

今朝、メダカに餌をやるため庭に出ました。
視線は自ずと例のハチの巣に向きましたが、今朝はなんだか様子が違いました。
いつもより羽音が激しいので、目をこらしたら、巣の周りに15匹あるいはそれ以上のハチがぶんぶん飛び回っていました。中には2匹がもつれあうように、飛んでいるものもいます。

あっと思いました。まぎれもなくハチの結婚飛行です。
10月に入ると、新世代の女王バチと雄バチの巣立ちがあるだろうと、先日書いたばかりですが、まさか10月の第一日にそれが起きるとは思いもよりませんでした。

家族にそれを告げ、15分後に再び見に行ったら、ハチたちの姿はすでに消えていました。結婚飛行は、本当にごく短時間で終結するもののようです。偶然それを見られたのは幸運でした。こうして雄バチはじきにその短い生涯を終え、女王バチは越冬体制に入り、来春新たな巣作りにチャレンジすることになります。

ハチの結婚飛行を目にしたのは、生まれて初めてのことです。
少なからず感動もしたし、これはハチの巣の駆除を思いとどまったことに対する、ハチからの贈り物だと思いました。

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ところで、これは後から気が付いたことですが、今日の明け方、私は亡き父母の夢を見ていました。随分と込み入ったストーリーの夢です。両親の夢を見ることはめったにないので、そのことが強く印象に残ったのですが、改めて考えると、何やら不思議な暗合のようでもあります。