羊飼いの暦2024年12月19日 05時57分51秒

「羊飼いの暦」という言葉をネットで検索すると、真っ先に出てくるのがシェイクスピアと同時代の英国の詩人、エドマンド・スペンサー(c.1552-1599)の 詩集『羊飼いの暦』(1579)です。

しかし、今回話題にするのは、それとは別の本です。
学匠印刷家のひとり、ギー・マルシャン(Guy Marchant、活動期1483-1505/6)が、1490年代にパリで出版し、その後、英訳もされて版を重ねた書物のことで、英題でいうとスペンサーの詩集は『The Shepheardes Calender』で、後者は『The Kalender of Shepherdes』または『The Kalender and Compost of Shepherds』という表記になります(仏題は『Le Compost et Kalendrier de Bergiers』)。

マルシャンの『羊飼いの暦』は、文字通り暦の本です。
当時の常として、暦にはキリスト教の祝日や聖人の縁日などが細かく書かれ、さらには宗教的教訓詩や、星占い、健康情報なども盛り込んだ便利本…のようです。想定読者は文字の読み書きができる人ですから、その名から想像されるような「農民暦」とはちょっと違います(この「羊飼い」はキリスト教でいうところの司牧、迷える民の導き手の意味と思います)。

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暦や占星への興味から、マルシャンの『羊飼いの暦』を手にしました。

(1493年パリ版)

もちろん本物ではなく、1926年にパリで作られた複製本ですが、複製でも100年近く時を経て、だいぶ古色が付いてきました。


一般民衆向けの本なので、言葉はラテン語ではなく、日常のフランス語です。…といっても、どっちにしろ読めないので、挿絵を眺めて楽しむぐらいしかできません。我ながら意味の薄い行為だと思いますが、何でもお手軽に流れる世情に抗う、これぞ良い意味でのスノビズムではなかろうか…という負け惜しみの気持ちもちょっとまじります。


さて、これが本書の眼目である「暦」のページ。
読めないなりに読むと、左側は10月、右側は11月の暦です。冒頭の「RE」のように見える囲み文字は、実際には「KL」で、各月の朔日(ついたち)を意味する「kalendae」の略。そこから暦を意味するKalender(calendar)という言葉も生まれました。

(12月の暦よりXXV(25)日のクリスマスの挿絵。こういうのは分かりやすいですね)


これは月食の時刻と食分の予測図でしょう。


星を読む男。


占星学の基礎知識もいろいろ書かれていて、ここでは各惑星が司る事柄が絵入りで説かれています。左は太陽(Sol)、右は金星(Venus)。


何だか謎めいていますが、たぶん天象占い的な記事じゃないでしょうか。


身体各部位を支配する星座を示す「獣帯人間」の図。


これも健康情報に係る内容でしょう。


恐るべき責め苦を受ける罪人たち。最後の審判かなにかの教誨図かもしれません。

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印刷術の登場により情報の流通革命が生じ、世の中が劇的に変化しつつあった15世紀後半の世界。

それでも庶民の精神生活は、キリスト教一色だったように見えますが、庶民が暦を手にしたことで、教会を通さず自ら時間管理をするようになり、そして星の世界と己の肉体を―すなわちマクロコスモスとミクロコスモスを―自らの力で理解するツールを手にしたことの意味は甚だ大きかったと想像します。

その先に「自立した個の時代」と「市民社会」の到来も又あったわけです。

冬来たりなば春遠からじ2024年12月14日 16時57分56秒

前回のおまけ。ケプラーの法則は地球にも当てはまるという事実を反芻していて、はたと気づきました。


地球の公転図として、真っ先に思い浮かべるのは上のような図ですが、本当は下のようであるべきだと。

(ただし遠日点と夏至点、あるいは近日点と冬至点はズレているので、この図はあくまでも近似のイメージです。【参考LINK:近日点の移動】

そして冬場の地球は、より短い経路を相対的に速いスピードで公転し、夏はその反対になるので、必然的に冬は夏よりも短いはずだと。

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実際に、今年から来年にかけての二至二分(春分・夏至・秋分・冬至)の時期を分単位で確認してみます。

(国立天文台の2024年 暦要項および2025年暦要項より)

ここから、二至二分のインターバルを出せば下のようになり、


さらに「春分から秋分まで」の「夏の半年」と、「秋分から春分まで」の「冬の半年」を計算してみます。


なるほど、これまで等しいと思い込んでいた二至二分のインターバルにはずいぶん差があって、たしかに冬は夏より短いことが確認できました。

私もずいぶん長いこと生きてきて、毎年夏を送り、冬を送り過ごしてきましたが、この事実に気が付いたのは今日が初めてです。夏より冬が短いのは、何も長期休暇ばかりではありません。まさに「冬来菜葉、春唐辛子」。

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知っている人にとっては当たり前のことを、さも重大事であるかのように書きました。でも、この話の眼目は「冬は夏より短い」という事実ではありません。それ以上に重要なのは、「人間いくつになっても新たな発見をしうる」という事実です。これは声を大にして触れ回る価値があると信じます。

暑さ寒さも…2024年09月21日 05時37分36秒

あれ?と思ったことがあります。

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「立秋」が、8月の暑い盛りに来ることへの違和感を述べた以下の記事。

(今や立秋は大本営発表か? 元記事はこちら【LINK】

そのコメント欄で、常連コメンテーターのS.Uさんが、「立秋とは夏至と秋分の真ん中の日」とシンプルに説明すればよい…という提案をされました。つまり、「風の音にぞおどろかれぬる」とか、そこに何か季節感を求めるから話がおかしくなるので、純粋に天文学的事実のみに基づいて立秋を説明したほうが、大方の理解が得られ易いだろうというご指摘です。

それに対して、私は「いっそのこと春分・夏至・秋分・冬至を季節の区切りにしたほうが、現代の皮膚感覚や言語感覚に合うのでは?」とお答えし、「まあ、言っても詮無いことですが」と付け加えました。

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今回「あれ?」と思ったのは、それは詮無いことでも何でもなくて、そもそも西洋では「春夏秋冬」をそのように定義していると知ったからです。

この事実は、例によって天文学史のメーリングリスト(HASTRO-L)で教えてもらったのですが、当該投稿は以下の記事にリンクを張っていました。Glenn A. Walsh氏による今年の9月20日付けの記事で、「秋は秋分の日曜朝に始まる」と題されています。

■SpaceWatchtower:Fall Begins at Equinox Sunday Morning

その冒頭に載っているのが、二至二分における地球と太陽の位置関係を示した下の図です。

( ©1999, Eric G. Canali. Permission granted for non-profit use only, with credit to author.)

このことは私の知識の盲点だったので、本当に「へええ」と思いました。

まあ「西洋」と一口に言っても、時代も国もさまざまなので、また別の定義や理解もあるとは思いますが(実際、上の記事でもいろいろ説明があります)、日本でも今後は「秋が立つのは秋分の日だぞ!それまでは立派な夏だぞ!」…というのが常識化する日が来ないとも限りません。いや、今年みたいな異常な暑さが続けば、早晩必ずそうなってしまうでしょう。

そうならないことを切に願います。

秋立つ。2024年08月07日 19時06分22秒

暦の上では今日から秋。
…そう言われて、「馬鹿も休み休み言え」とお怒りの方もいらっしゃるでしょう。たしかに私もそう思うし、「どうも最近の暦は、大本営発表が過ぎる」とも思います。


でも、これは気温だけに注目するからそう思うので、日の出・日の入りの時刻、太陽の天球上の位置、夜空の星座の顔ぶれ…それら気温以外の天象は、すべて今が秋の入り口であることを示しています。

「暑いのが夏、涼しいのが秋」、そんな「常識」は捨て去らねばなりません。
そんなことでは、もはや季節は判別できないのです。

天を管掌した古今東西の学者たちのように、我々はじいっと太陽の運行を観測し、ただそれのみによって四季を知るしかないのです。
そう、誰が何と言おうと、すでに秋は立ったのです。

…と力説せねばならないことを悲しく思います。
地球はいったいどうなってしまうのでしょうか。

土御門、月食を予見す(後編)2024年06月10日 17時59分43秒

(昨日のつづき)

(画像再掲)

さて、改めてこの明和3年の月食予測の詳細を見ると、「月食五分。寅の一刻東北の方より欠け始め、寅の八刻甚だしく、卯の六刻西北の方終わり」と書かれています。

ここに出てくる「寅の一刻」とか「寅の八刻」の意味が最初分からなかったんですが、ものの本(※)を見て、ようやく合点がいきました。

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よく知られるように、江戸時代の時刻表示は、日の出と日の入りを基準にした「不定時法」が一般的です。そのため、「子の刻」「丑の刻」「寅の刻」…等、1日を12区分した「辰刻」の長さは季節によって伸び縮みがあり、たとえば真夜中の「子の刻」は、短夜の夏場は短く、冬の夜長には長くなりました。真昼の「午の刻」ならばその逆です。

しかし、暦に記される時刻は、これとは違って(最後の天保暦を除いて)「定時法」を使っていたんだそうです。つまり、季節に関係なく子の刻なら23時~1時だし、丑の刻は1時~3時…という具合に固定されていました。これは現代の時間感覚と同じです。したがって同じ「子の刻」「丑の刻」といっても、日常生活と暦本ではその用法が微妙に違った…というのが、ややこしい点です。

暦ではそれをさらに「寅の一刻」とか。「卯の六刻」とか、細かく言い分けているわけですが、この辺は一層ややこしくて、当時の定時法では、1日を12等分した「辰刻」と、1日を100等分した「刻」という単位(1日=100刻)を併用していました。

「辰刻」と「刻」の関係は、

 1辰刻 = 100÷12 ≒ 8.33刻 (8と3分の1刻)

であり、1刻を現在の時間に直せば

 1刻 = 120分÷8.33 ≒ 約14分24秒

になります。何だかひどく中途半端ですが、実際そうだったのでやむを得ません。
そして、たとえば「寅の刻」だったら、以下のように呼び分けられることになります(時刻はすべて概数で示しました。「八刻」だけ他の刻より短いことに注意)。

 寅の初刻 午前3:00~3:14
 寅の一刻 3:14~3:29 
 寅の二刻 3:29~3:43 
 寅の三刻 3:43~3:58 
 寅の四刻 3:58~4;12 
 寅の五刻 4:12~4:26 
 寅の六刻 4:26~4:40 
 寅の七刻 4:40~4:55 
 寅の八刻 4:55~5:00

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こうしてようやく、上記の月食記載の意味が理解できます。
すなわち、「月食五分〔食分0.5〕。寅の一刻〔3:14~3:29〕東北の方より欠け始め、寅の八刻〔4:55~5:00〕甚だしく、卯の六刻〔6:26~6:40〕西北の方終わり」です。

これがどの程度実際を反映しているか?
国立天文台の日月食等データベースに当たると、このときの月食(部分食)は、以下の通り3:45に始まり、4:52に最大食となり(食分は0.336)、5:59に終わっています。


比較してどうでしょう? 食甚の時刻および食の開始と終了の方位はほぼ正解ですが、食分を実際よりも多く見積もった関係で(つまり、月がもっと地球の影の中心に近い位置を横切ると予想したため)、食の始まりと終わりが前後に30分ほど間延びしています。この予測を以て、「それでも、それなりに当てたんだからいいじゃないか」と言えるかどうか?

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西洋天文学を採り入れて宝暦暦を改良した「寛政暦」の場合と比較してみます。


手元に天保8年(1837)の暦があります。


年号は天保でも、当時はまだ寛政暦を使っていました(さらに改良を加えた「天保暦」は、天保15年=1844から施行)。

「月帯食(げったいしょく/がったいしょく)」とは、月が月食の状態で昇ったり沈んだりすること)

この年は3月17日(グレゴリオ暦では4月21日)に皆既月食がありました。
暦には、寅の三刻【3:43~3:58】左の上より欠け始め、卯の二刻【5:29~5:43】皆既〔みなつき〕て入【=そのまま沈む】」と書かれています。

上と同じように、国立天文台のデータベースを参照すると、3:49に欠け始め、4:50に皆既となり、5:40が食の最大、そして6:31に皆既が終わる」となっています。上記の「卯の二刻」は皆既の開始時刻とずれていますが、これが「食の最大時刻」の意味だとすれば、まさにどんぴしゃりです。


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まあ、それぞれ1つの例だけを取り出して、逸話的に比較しても意味は薄いでしょうが、「やっぱり宝暦暦はゆるいなあ…」と感覚レベルで分かれば拙ブログ的には十分で、当初の目的は果たせたことになります。


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(※)本項の記述にあたっては、橋本万平(著)『日本の時刻制度 増補版』(塙書房、昭和56年第2版)を参照しました(特にpp.125-8「暦に見られる定時法」の節)。

(同書127頁より参考図を掲げます(第15図)。当時は仮名暦(右)と七曜暦(左)の間でも――両者ともに定時法ですが――時刻の表示法が異なり、ややこしいことこの上ないです。本項で採り上げたのは、もちろん仮名暦の方です)

土御門、月食を予見す(前編)2024年06月09日 08時41分38秒

日食の予測といえば、先日の宝暦暦(ほうりゃくれき)を思い出します【LINK】
蘭学流入とともに、新しい天文学の風が吹き始めた18世紀半ばの日本で、過去の亡霊のような存在、陰陽頭・土御門泰邦が作った宝暦暦。

この暦にはいろいろ芳しくない評判がつきまといますが、施行9年目の宝暦13年(1763)、日食の予測に失敗し、暦に書き漏らしたことは、その最たるものです(日食・月食に関する情報は、毎年の暦に必ず書かれていました)。しかも、民間学者の麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)らは、独自にその予測に成功していたので、お上の面目丸つぶれです。

これに懲りた幕府は、麻田の弟子である高橋至時(たかはしよしとき、1764—1804)を天文方に取り立て、新たに寛政暦(寛政10年=1798年施行)を完成させますが、それはまだ少し先の話。

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(明和3年宝暦暦、末尾)

宝暦暦のことを思い出したついでに、手元にある明和3年(1766)の宝暦暦(出版されたのは前年の明和2年)を素材に、これがどの程度の精度を持っているのか、裏返せばどの程度「ダメな」暦なのかを知りたいと思いました(意地悪な興味ですね)。

(「月そく(月食)」の文字)

この年は、ちょうど1月17日――グレゴリオ暦に直すと1766年2月25日――に月食が予測されているので、これが当たっているかを確認してみます。
結論からいえば、確かにこの日は月食が発生しているのですが、果たしてその生起・継続時間の予測精度はどうか?

(この項つづく)

宝暦暦一件2024年05月30日 18時32分26秒

渋川春海が心血を注いだ貞享暦
しかしそれも完璧ではありえず、時代が下るとともに、改暦の声がぽつぽつ出てきます。まあ、実際には貞享暦もまだまだ現役で行けたのですが、将軍吉宗の鶴の一声で、最新の蘭学を採り入れた新暦プロジェクトが動き出し、それを受けて宝暦5年(1755)から使われるようになったのが「宝暦暦」です(「宝暦」という年号は「ほうれき」と読むのが普通だと思いますが、暦のほうは「ほうりゃくれき」と呼びます)。

(明和3年(1766) 宝暦暦)

しかし、この暦には芳しからぬ評判がついて回ります。
その点についてウィキペディアの「宝暦暦」の項は以下のように記します。

 「将軍徳川吉宗が西洋天文学を取り入れた新暦を天文方に作成させることを計画したが、吉宗の死去により実現しなかった。結局陰陽頭・土御門泰邦〔つちみかどやすくに、1711-1784〕が天文方から改暦の主導権を奪い、宝暦4年(1754年)に完成させた宝暦暦が翌年から使用されたが、西洋天文学にもとづくものではなく、精度は高くなかった。」

 「騙し騙し使っていたものの、先の暦である貞享暦よりも出来が悪いという評価は覆し難く、日本中で様々な不満が出て、改暦の機運が年々高まっていく事となった。結局、幕府や朝廷は不満の声に抗しきれず、改暦を決定した。評判の高かった天文学者の高橋至時〔たかはしよしとき、1764—1804〕を登用し、寛政暦が作成され、宝暦暦はその役割を終えた。」

(同上。部分拡大)

渋川春海の「貞享暦」と高橋至時の「寛政暦」。
実力隠れなき2人の俊才が、知恵と努力を傾けた2つの暦の間にあって、宝暦暦は「ダメな暦」の代表であり、それはひとえに土御門泰邦という愚かな「公家悪(くげあく)」のせいなんだ…というのが、一般的な見方でしょう。

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歴史物語は往々にして「悪者」や「敵役」を欲するので、土御門泰邦も実際以上に悪者とされている部分があると思います。泰邦にだって、きっと言い分はあるでしょう。

兄たちが次々に早世する中で、土御門兄弟の末弟でありながら当主の役割を負った泰邦。彼の行動は私利というよりも、暦に関する権能を幕府天文方から取り戻し、土御門家の栄光を再び輝かすことに動機づけられており、当時の「家の論理」に照らせば、それは一種の「正義」とすら言えます。

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宝暦の改暦をめぐっては、渡辺敏夫氏が『近世日本天文学史・上巻』で、70頁余りを費やして詳しく論じています。それによると、泰邦も最初から横車を押してきたわけではなく、改暦の準備作業のため江戸から派遣された天文方の西川正休(にしかわまさやす、1693-1756)に対して、当初はまずまず穏当な対応をしていました。しかし、西川の表裏ある性格や、明らかな実力不足を知るに及び、「それならば…」と暦権奪還に向けて舵を切ったことが窺い知れるのです。

愚昧という点でいえば、西川正休の方がよほど愚昧だったかもしれません(西川が作成した新暦案に土御門側は数々の疑問を呈しましたが、それらは一応筋の通ったもので、西川はそれに返答することができませんでした)。その意味で、泰邦とその周辺にいた人物は、たしかに暦学について一通りの見識を備えていたのです。

しかし問題は、改暦の大仕事は「一通りの見識」でできるようなものではなかったということで、そこを無視して改暦に手を染めたのは、やはり無謀だったと言わざるを得ません。

(同上)

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暦というのは、天体の運行と人間生活が出会うところに生まれるものなので、本来的に人間臭いところがあります。そして宝暦暦を見ると、改暦というイベントはそれに輪をかけて人間臭いなあ…と思います。

貞享暦に触れる2024年05月26日 10時22分14秒

暦の話題は地味ですから、世間の人々の関心をあまり惹かないと思います。
江戸時代の暦の現物も、言ってみればただの煤けた紙に過ぎませんし、何か目を見張るようなものがそこにあるわけではありません。

でも、子細に見れば編暦や改暦のエピソードはなかなかドラマチックで、貞享暦を作った渋川春海(1639-1715)は、冲方丁さんが小説『天地明察』で採り上げ、岡田准一主演で映画化もされました(2012年)。

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渋川春海による暦法改良が認められ、貞享2年(1685)から宝暦4年(1755)まで使われ続けた「貞享暦」。江戸時代中期の人々の生活は、この貞享暦にしたがって営まれました。

私の場合、天文から暦に興味を寄せていったわけですが、それに加えて「煤けた紙」が根っから好きなので、暦の実物を手に取ることも多いです。ただ幕末頃の暦は容易に手に入るものの、貞享暦の現物はなかなか見つけられませんでした。

(江戸後期~幕末に伊勢で発行された暦。左は元治2年(1865)の天保暦、右は文政4年(1821)、手前は天保8年(1837)のいずれも寛政暦)。

いろいろ探してようやく見つけたのが、下の元禄8年(1695)の伊勢暦。出版自体は前年の元禄7年(1694)に行われました。


裏打ちした暦に「元禄七年/米満( )」の署名が入った仮製表紙が付いています。

元禄8年といえば、今から329年前。江戸時代最後の慶応4年(1868)を基準にしても173年前ですから、これは相当古いです(慶応年間の人にとっては、元禄よりも令和の今の方が時代的に近い計算です)。渋川春海も数え年57歳で、まだまだ元気な頃。この暦に仮製表紙が付いているのは、前の持ち主がこれを大事にしていた証拠で、米満某という人は、江戸時代における好古家だったのかもしれません。


暦の冒頭部。残念ながら、この暦には欠失があります。下は同じ発行元(箕曲主計与一大夫)が出した寛延2年(1749)の暦ですが、版元表示に続く2行目の「寛延二年つちのとのミ乃貞享暦」に相当する部分が、手元の暦では切り取られています。

(出典:国書データベース。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021235/

(手元の暦の部分拡大。切断の跡を示す切れ込みがあります)

(同上。暦下部の切断跡。上手に貼り合わせてありますが、手で触ると紙の合わせ目が感じ取れます)


それでも暦の末尾に「元禄七年出」とあるので、これが元禄8年用の暦であることは確かでしょう。

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冷静に考えると、元禄時代の古暦を手に入れたから何だというんだ…という気もするんですが、これを見れば渋川春海その人に近づけたような気がするし、まだ赤穂事件も起こっていなかった時代の空気にじかに触れるようで、この煤け具合が大層床しいです。

結局、私はこの暦に学問的にアプローチするでもなく、単に床しがるだけに過ぎないんですが、こうして古暦を並べてみると、「慶応年間の人にとっては、元禄よりも令和の今の方が時代的に近い」と言いつつも、文化的に江戸時代はやっぱりひと連なりで、暦に関しては、幕末の人も元禄の人も同じようなものを使っていたことが分かるし、さらにいえば室町や鎌倉の頃も、暦の体裁は似たり寄ったりですから、そこから日本文化の不易と流行に思いをはせたり…という若干の効用はあります。

暦道の傑人、大春日真野麻呂2024年05月25日 10時57分49秒

大春日真野麻呂(おおかすがのまのまろ)という人がいます。
生没年は未詳ですが、平安時代の前期、9世紀の半ばから後半にかけて活躍した人で、安倍晴明なんかよりも100年以上昔を生きた人です。

前にも書いたように、平安時代後期以降、暦道は加茂氏が独占するようになりましたが、もっと昔はこの大春日氏が暦道を司っていた時期がありました。真野麻呂は歴代の中でもことに学識に優れ、暦博士と陰陽頭を兼任した史上最初の人でもあります。そして、暦法の精度を実証的に比較した上で「宣明暦」の導入を建議し、862年にそれが実現することになった立役者こそ、この大春日真野麻呂です。

この宣明暦が、日本では江戸時代の貞享元年(1684年)まで823年間使われ続けましたが、さすがに長年月のうちに現実との齟齬を生じたため、渋川春海(1639-1715)が建議して、新たに「貞享暦」が採用されたのは、広く知られた事実と思います。

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…と、何となくもっともらしく書きましたが、私が真野麻呂の名を知ったのは、つい昨日のことです。そして上に書いたことは、すべてウィキペディアの受け売りです【LINK】。 

真野麻呂の名は、S.Uさんにコメント欄【LINK】で教えていただいたのですが、暦道史における傑人・大春日真野麻呂の名を知らなかったことを深く恥じ入るとともに、彼の名は渋川春海に比べてあまりにも知られてないよね…ということで、S.Uさんと意見が一致したので、こうしてブログの隅に書き付けることで、顕彰の一助にしたいと思います。

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歴史上の人物を記憶にとどめる上で、肖像画の存在は大きいと思います(聖徳太子も、源頼朝も、足利尊氏も、学問的には疑問符が付いても、依然として「あの顔」とともに想起されることが多いでしょう)。

大春日真野麻呂については、画家の菊池容斎が古人の肖像画と略伝をまとめた『前賢故実』 巻四(明治元年、1868)に載っていることを、これまた先ほど知りました。同書は国会図書館のデジタルコレクションで公開されているので、手っ取り早く下に画像を貼っておきます。

(大春日真野麻呂、菊池容斎『前賢故実』 巻四より)

はるか後代に想像で描かれた肖像画ですが、在ると無いとでは訴求力が違いますから、この後ろ姿とともに、今後真野麻呂の名を思い出したいと思います。

具注暦を眺める(後編)2024年05月23日 05時15分20秒

大河ドラマのストーリーは、今週の段階で、長徳2年(996)まで進んできました。
この年は藤原道長が政敵を追い落とし、権力を掌握する山場となった「長徳の変」が起こった年であり、一方、主人公の紫式部は――ドラマの中ではまだ紫式部ではなく、「まひろ」と呼ばれていますが――父親である藤原為時の越前国司抜擢にともない、父とともに越前に下った年です。

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その長徳2年の具注暦が手元にあります。

(下辺と右辺の色が濃いのは日焼けによる変色。約28×42.5cm)

具注暦の現物を探していて見つけました。
『御堂関白記』で現存するのは、長徳4年(998)以降のものなので、長徳2年の具注暦はすこぶる貴重です。


といって、もちろん本物ではありません。平成8年(1996)に、「現存しない長徳2年の具注暦の内容はたぶんこうであろう」という考証の末、復元されたものです。


復元に当たったのは青山学院女子短大の藤本勝義氏(国文学)。形態は巻子本ではなく、ばらばらの和紙に刷られていますが、これを表具屋に出して巻物にしてもらえば、より本物らしくなるでしょう。

(奥付)

この具注暦が作られたのは、ずばり紫式部の遺徳によります。
同封されている藤本氏の送り状には、その間の事情がこう書かれていました。

 「〔…〕昨年は紫式部の越前下向一千年に当たり、福井県武生市を中心に、華やかできめ細やかな千年祭行事が催されました。紫式部の通った木の芽峠、湯尾峠などを越える国司下向の旅では、馬が横倒しになり動けなくなるなどのハプニングも生じましたが、紫式部、為時らに扮した一行が峠を上り下りする姿は、千年の時を越えたハイライトでした。

 さて、その千年祭の折、紫式部が武生で見た暦―長徳二年具注暦―を復元・発行しました。原稿を私が執筆・作成し、能筆の前武生市立図書館長の加藤良夫氏が「御堂関白記」具注暦の書体・形式に準じて書写し、越前和紙に印刷したものです。

 今回は正月・六月(越前下向の月)・九月・十月(紫式部が暦を見て歌を詠んだ月)の四カ月分を作成しました。〔…〕」

つまり、本品は今から28年前、「紫式部、越前下向1000年」を記念するイベントが福井県で開催された際、それにちなんで制作され、関係各方面に配られたものです。体裁は『御堂関白記』を参考に、それを一部簡略化(朱書と縦罫を省略)してありますが、これは許容範囲内でしょう。

特筆すべきは、具注暦を現代人が見てもチンプンカンプンでしょうが(少なくとも私はそうです)、この復元品には藤本氏による簡明な解説メモ↓が付いていて、これを見れば一目瞭然…とまでは言いませんが、その構成がおぼろげに分かるのは大層有難いです(メモは下の1枚だけで、暦全体に及ぶわけではありません)。


1000年前の人々の精神世界を律していた暦。
その実際を、こうして手に取って眺めるのは興の深いことで、大河ドラマを見る際も一層力こぶが入ります。