続・冬の月2025年12月07日 08時43分15秒



一昨日の月は暖かみがありましたが、冬の月といえば、皓々と冴え返る銀月がまず念頭に浮かびます。確かに、あれはいかにも光が強いです。


 ふき晴(れ)て 月ひとりゆく 寒さかな

木枯らしが鳴り、耳が切れそうなほど凍てつく晩。
澄み切った漆黒の空に、月だけがまばゆい光を放っている…。
この場合、「ひとりゆく」のは月であり、同時に作者でもあります。

いかにも寒々とした句ですが、こういう凛とした風情を愛する人もいるでしょう。
冷気を肺に取り入れるたびに、身体の中が純化していくような感覚。

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短冊には「是空」の名がありますが、この句を詠んだのは彼ではありません。
これは一茶の有名な句で、是空はそれに敬意を表しつつ筆意を凝らしたのでしょう。


是空については、短冊を包む「たとう」に以前の持ち主によるメモがありました。

ふきはれて月ひとりゆく寒さかな 下絵短冊
「是空 葛飾北斎四世画師 曇華」
是空 森崎氏 明治十二年没七十四才。通称幸左ヱ門。尾藩広敷詰。書を教へ、小沢さゝをに俳諧を学ぶ。熱田の衰へた俳風を興す。

森崎是空(1806?-1879)は、『名古屋市史 人物編 第2』にやや詳しい記述があり、上のメモもそれに基づいているようです。元は尾張藩に仕える小身の武士でしたが、中年以降職を辞して熱田に隠棲し、子供たちに書を教えるかたわら俳諧を学び、後にひとかどの宗匠となって門人多数…という経歴の人で、要は名古屋で活躍した地方文人のひとりです。

ただし是空が曇華という画号で絵師としても活躍したという記述は諸書に見えないので、これは更なる考究を要します。

ちなみに「葛飾北斎四世」とは、北斎を代々襲名したその4代目という意味ではなく、北斎の「曾孫弟子」という意味だと思います。北斎は文化9年(1812)と文化14年(1817)の2度にわたって名古屋に長期滞在し、牧墨遷、葛飾北雲、葛飾北鷹、葛飾戴懆、沼田月斎らの弟子をとっているので(吉田俊英『尾張の絵画史研究』)、彼らの孫弟子となれば、まあ「葛飾北斎四世」を名乗っても辛うじて許されるだろう…というわけです。


なお、短冊のツタ模様は肉筆ではなく木版ですが、ひょっとしてその下絵を描いたのが是空(曇華)なのかな?とも思いましたが、これまた確かなことは分かりません。

カササギの翼2025年08月29日 06時18分54秒

カササギに乗って遥か銀河へ…という昨日の話のつづき。

素敵なカササギの帯留めを眺めながら、私はいっそ「ホンモノのカササギ」も手にしたいと思うようになりました。そうして見つけたのが、カササギの羽根です。


白い模様の入った初列風切羽


鋼青色に光る次列風切羽


そして瑠璃色の尾羽

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 「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何気なく叱るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。
 「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすように云いました。
(宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』、第9章「ジョバンニの切符」より)

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私もカササギというと、カラスみたいな黒い鳥をイメージしていました。
実際、黒い鳥には違いないんでしょうが、その「黒」の中身が問題です。
カササギの衣装が、こんなにも絢爛たる黒だったとは、実際その羽根を手に取るまで思ってもみませんでした。

特にその尾羽の翠色といったらどうでしょう。
羽軸の元から、先端にいたるまで、




その色合いの変化は、本当にため息が出るようです。


夜の闇の中で、星の光を受けて輝くカササギの群れ。
その様を想像すると、なぜ天帝が彼らを呼び寄せて、二つの星のために橋を架ける役を命じたのか、その理由がよく分かる気がします。

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いよいよ今宵は七夕。
どうも雲の多い天気になりそうですが、しかし、ひとたびカササギが翼を打ち振るえば、すでに銀河は眼前に在り、です。

銀河のほとりへ2025年08月28日 18時56分00秒

今日は旧暦の7月6日、いよいよ明日は七夕。

七夕の晩は涼しい銀河のほとりで過ごそうと思います。
でも、どうやって?
もちろんカササギの背に乗ってひとっ飛びです。


何せカササギの並んだ橋は、牽牛・織女が乗ってもびくともしないのですから、人ひとり運ぶぐらいわけはないでしょう。

このカササギのアクセサリーは、モノとしては「帯留め」なので、私が実用に供するわけにもいきませんが、これを手にすれば、いつでも心の耳に銀河の流れる音が聞こえてくるのです。


これは、アクセアリーブランド「数(SUU)」が手掛けた現行の品で、ピューター製の鳥の表面にカットガラスの星を埋め込んだ、なかなか美しい仕上がり。

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明晩、こと座とわし座のそばに常ならざる星、すなわち「客星」が見えたら、それは私です。

瞳の中の天の川2025年08月27日 05時40分35秒

今日も七夕の絵葉書の話題です。

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天の川を描かずに天の川を表現する。
…果たしてそんなことが可能でしょうか?


風古(いしわた・ふうこ、1891-1961)作、「天の川」。
現在の日展の前身、「帝展」の第11回(1929/昭和4)出品作です。


この絵葉書を見たとき、「ああ、やられたなあ」と思いました。


ご覧のとおり、七夕飾りをした商家の前に立つ2人の若い女性を描いた絵で、ここには天の川はもちろん、一片の空すら描かれていませんが、それでもこの二人の視線の先に、我々はたしかに銀の砂をまいた天の川の姿を「見る」ことができます。

絵画作品としての評価は、また自ずとあると思います。
しかし、この絵を「天の川」と題した作者の機知は大いに評価したいところです。

なお、ネット情報によると、作者の石渡風古は川合玉堂に師事し、大正~昭和初期に文展・帝展で活躍した日本画家で、人物画を得意とした由。

梶の葉に託す2025年08月25日 21時44分22秒

昨日と同じ「滑稽新聞」の付録絵葉書。


梶の葉、短冊、ほおずきに、七夕の季節感を盛り込んだ絵です。
ただそれだけだと、単に風流な絵ということで、風刺や滑稽の意図はないことになってしまいますが、相手は何せ滑稽新聞ですから、当然そんなはずはありません。

では、この絵のどこに風刺と滑稽があるのでしょう?
昨日の絵葉書と同様、これも雑誌に綴じ込まれていた時は、きっと欄外に余白があって、そこに説明の文句が書かれていたはずですが、今は推測するほかありません。


しばし腕組みして思いついたのは、梶の葉に書かれた一文字が「恋」とも「忘」とも読める点が皮肉なんじゃないか…ということです。そう、「恋とは忘れ、忘らるるものなり」

まあ、ことの当否は分かりませんが、そこが天上世界と人間世界の大きな違いであるのは確かでしょう(たぶん)。

(裏面・部分)

人界の牽牛織女たちへ2025年08月24日 10時50分12秒

旧暦の7月に入ったので、七夕の話題で少し話を続けようと思います。
下は先日見つけた明治物の絵葉書。


欄外に「人界の牽牛織女」とあります。
川のほとりで、牛飼いの男が、機織り女にそっと付け文をしている場面。


女は辺りを気にしながら、それを素早く受け取っています。あるいは文を渡しているのは、女の方かもしれません。まあ見たまま、読んだままの内容です。


絵面の中には「新七夕」ともあって、こちらが正式なタイトルのようです。
「新」とあるからには、これは絵葉書の作られた当時の農村風景に、牽牛織女を重ねたものでしょう。


発行元は滑稽新聞社。「滑稽新聞」は、反骨のジャーナリスト・宮武外骨(みやたけがいこつ、1867-1955)が、明治34年(1901)から同41年(1908)にかけて発行した風刺雑誌です。

同誌は、いわば明治版『噂の眞相』のような雑誌で(このたとえも既に伝わりにくいかも)、徹底した反権力の姿勢を貫きました。この絵葉書も、天上の星々の涼やかな逢瀬を、卑俗な地上の男女のそれに置き換えたところに、滑稽と風刺を利かせたものと思います。

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まあ、上のように考えれば、ちょっと皮肉な印象の絵になりますが、反対に地上の逢引を天上の逢瀬に重ねれば、そこに優雅な趣も出てくるわけで、そのほうが何となく心優しい感じがします。

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ちなみに、この絵葉書は単独で発行されたものではなく、同誌の付録として綴じ込まれていたもので、絵葉書として使うときは赤枠のところで切り取って使いました(赤枠で切るとちょうどはがきサイズになります)。

(裏面)

七夕の逢瀬2025年07月25日 17時18分58秒

少しまとまった記事を書き終わって、ボンヤリしています。
あれは例によって調べながら書いたので、連載開始の時点では、個々のゲリッシュ資料の素性や意味合いは、まだほとんど分かっていませんでした。しかし、考えながら書いていると徐々に分かってくるもので、泥縄式の未熟な内容ですが、やっぱり書けば書いただけのことはあります。

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時に、アマースト日食観測隊のことを書くために、この時期いつも話題にする七夕のことを書き洩らしました。そのため先日もちらっと書いたように、旧暦の七夕(今年は8月29日)前後に、今年は七夕の話題を出そうと思いますが、その前に小ネタをひとつ。

しばらく前に、七夕を描いた明治物の錦絵が目に付いて、購入しようかなあ…と思っているうちに買い漏らしました。その商品画像だけ保存しておいたので、ここでちょっとお借りします。


明治30年(1897)、「風俗通」と題して出版された、美人画のシリーズ物の一枚で、作者は宮川春汀(みやがわ しゅんてい、1873-1914)。「風俗通」は、明治の同時代風俗ではなく、江戸時代の風俗を懐古的に描いたもので、この七夕の図も近世の町家における七夕行事を描いたものになっています。

そんなわけで、七夕に関する資料として見た場合、本図はリアルな1次資料とは言い難く、七夕行事について何か目新しい事実が提示されているわけでもありませんから、それもこの絵を買いそびれた理由です。

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でも、右上に書かれている文字がふと気になりました。


調べて見ると、これは以下の漢詩の転句と結句を取り出したものです。

 「七夕」  朱文公
 織女牽牛双扇開   織女牽牛 双扇開く
 年年一度過河来   年年一度 河を過ぎ来る
 莫言天上稀相見   言うこと莫れ 天上稀れに相見ると
 猶勝人間去不回   猶ほ勝れり 人間の去りて回(かへ)らざるに

作者の朱文公とは、朱子学の開祖・朱熹(しゅき、1130-1200)のこと。

「1年に1回しか逢えないなんて、七夕様は可哀そうだな…」と、地上の人間はときに優越感まじりに呟いたりします。でも、そうやって可哀そうがっている人間こそ、実は一瞬でこの世を去り、ふたたび帰ってくることはない、小さく果敢ない存在です。「だから天上の星々の逢瀬こそ、人間のそれよりはるかにまさっているのだ」と、朱文公は言うわけです。

あざやかな視点の転換です。
そう言われてみれば、見慣れた星の光がただならぬものと目に映るし、自らの限られた生が途端に強く意識されもします。

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でも…と、ここでもういっぺん考えます。

現代を生きる我々は、星もまた有限の存在であることを知っています。
永劫の時に較べれば、星の逢瀬もやはりかりそめのものに過ぎません。そうした観点に立てば、星の逢瀬も人間の逢瀬も等質のものであり、そこに優劣はないし、ともにいとしいものだ…という新たな共感の心が生まれてきたりもします。

星石先生の書斎へ2025年06月14日 09時28分36秒

宋星石(1867-1923)にほれ込んだ結果として(ほれ込んだのはその作品というよりも名前ですが)、その後さらに星石の蔵書印を手にしました。

(持ち手を除く高さは52mm)

この小さな「岡持ち」のような木箱に入っているのがそれです。
蓋には 「山陽翁遺愛 印材」 の墨書があって、


けんどん式の蓋を開けると…


蓋の裏にも墨で箱書きがあります。

「壬寅春日贈呈 星石公以為好 頼潔(印)」

併せ読むと、この印は江戸時代の学者・文人である頼山陽(らい・さんよう、1781-1832)が大事にしていた印材を使ったもので、印材の贈り主は山陽の孫にあたる頼潔(らい・きよし、1860-1929)、贈ったのは壬寅の年、すなわち明治35年(1902)の春です。二人はほぼ同時代を生きた人で、生年は頼潔のほうが星石より7歳年上。「星石公以為好」とありますから、贈られた星石も大いに喜んだのでしょう。

もみ紙に包まれたその印は…


こうした不思議な形状のものです。
私は最初「印材」とあるので、「石印材」を想像したのですが、実際には印面も含め総体が金属製(古銅)です。雰囲気的には、骨董界隈でいう「糸印(いといん)」【LINK】に似ています。

あるいはこれはまさに糸印そのものであり、元の印面を磨りつぶして「印材」として山陽が手元に置いていたのかもしれません。

よく見ると印面の側面にも銘が彫ってあり、そこには

「山陽翁遺愛 星石先生得之蔵(1字不明)刻 時甲辰夏日」

とあります。これによれば、印が彫られたのは、甲辰=明治37年(1904)の夏、すなわち印材を贈られてから2年後に、星石はそこに刻を施したことになります(ここで星石が自ら「星石先生」と称するのは奇異な感じもしますが、「先生」には師匠や偉い人の意味のほか、「自ら号に連ねて用いる語」という用法があって(大修館『新漢和辞典』)、ここもおそらくそれでしょう)。



印に彫られた文字は「藏之名山」(之を名山に蔵す)。

司馬遷の『史記』冒頭の「太史公自序」(太史公とは司馬遷のこと)にある「藏之名山 副在京師 俟後世聖人君子」に由来する文句です、明治書院のサイト【LINK】によれば、「この書の正本は帝王の書府に収めて亡失に備え、副本は京師に留めおいて、後世の聖人君子の高覧を俟ちたいと思う」という意味だそうです。

今日の記事の冒頭、この品を「蔵書印」と呼びましたが、それは売り主の古書店主の言い方にならったもので、本当に蔵書印かどうかは分かりません。自作に捺す普通の引首印や落款印だったかもしれないんですが、印文の意味を考えると、まあ蔵書印とするのが妥当だろう…と推測されるわけです。

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この品を見ていて思い出すシーンがあります。

漱石の「草枕」(1906)で、主人公の画家が、逗留中の宿の隠居から茶を振る舞われる場面です。その場にいるのは、他に近所の禅寺の和尚と、隠居の甥にあたる20代半ばの若者、久一(きゅういち)の4人。

隠居は正統派の煎茶をたしなむらしく、上等の玉露を染付碗にごく少量注いで出し、その後は隠居と和尚の骨董談義がにぎやかに続きます。床の間には荻生徂徠の書、古銅の花器には大ぶりの木蓮、そして目玉は隠居が秘蔵する頼山陽遺愛の硯です。この「山陽遺愛」という点で、手元の品と連想がつながるのですが、ともあれ江戸の文人趣味が、明治の後半、日露戦争のころまでは、十分リアリティをもって人々に共有されていたことが分かるシーンです。

とはいえ、それもある一定の世代までです。
若者代表の久一は、隠居から「久一に、そんなものが解るかい」と聞かれて、「分りゃしません」とにべもなく言い放ち、日露戦争で出征が決まった彼を一同が見送る中、久一の死を暗示する描写で物語は終わります。

時代は容赦なくずんずん進み、日本も急速に重工業化し、頼山陽の時代は遠くに霞みつつありました。手元の印材に星石が熱心に印刀をふるったのも、ちょうど同時期です。

宋星石は夏目漱石と同い年になりますが(慶応3年=1867生まれ)、南画やら文人趣味というのも、彼らの世代をもって終焉を迎えたんじゃないかなあ…というのが、個人的想像です。

(星石と漱石)

もちろん今でも煎茶をたしなむ人や、文人趣味を標榜する人はいますけれど、その精神はともかく、肌感覚において往時とはずいぶん違ったものになっているはずです。ネット情報を切り貼りして、何となく文人を気取っている私にしても又然り。
寂しい気はしますが、それこそが抗い難い時代の変遷というものでしょう。

星と石2025年06月08日 18時49分31秒

徐々に通常の話題に戻していこうと思いますが、もう少し「和」の話題を続けます。

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星と石、天文学と鉱物学。

両者は高校地学の二枚看板で、星も石も両方好きだよという方もきっと多いでしょう。賢治もそうだったし、足穂もそうでした。知識の多寡を無視すれば、かくいう私だってその一人に加わる資格はあります。

そんな次第ですから、古本屋の目録で「星石」を名乗る人物を知ったとき、すかさず「いいね」と思い、その人の筆になる古びた短冊をそそくさと注文したのでした。


星石山人作、月下吹笛図。


川面に舟を浮かべ、無心に笛を吹く男。


その姿を眺め、その楽に耳を澄ますのはひとり月のみ―。

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この短冊をしたためたのは、宋星石(1867-1923)という人物です。
「そうせいせき」と聞くと、なんだか中国や朝鮮王朝の文人を想像しますけれど、まぎれもなく本朝の人で、鎌倉以来、対馬国を領した宗氏第36代当主、宋重望(しげもち)がその本名。

彼が宋氏の当主となったのは、既に時代が明治となってからですが、大名華族として伯爵に列せられた彼は、まあ普通に言えば「対馬の殿様」と呼ばれうる立場の人です。もちろん殿様だからエライ…ということはないんですが、後半生を文人画家・書家・篆刻家として、もっぱら風雅の道に生き、東京南画会会長も務めた彼は、そのことを以て偉いと称しても差し支えないでしょう。

彼が星石という号を用いた理由は寡聞にして知りません。
呉石とか琴石とか耕石とか、「○石」という号を名乗る人は多いので、星石もそのバリエーションに過ぎないといえばそうかもしれませんが、何にせよ星と石が仲良く同居しているのは素敵な字配りで、私も使いたいぐらいです。

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宋星石とは関係ないと思いますが、ネットを見ていたら、「星石」とは隕石の古い言い方の一つだと知って、そのことも素敵だと思いました。



赤壁図、ふたたび2025年03月15日 11時31分11秒

過去記事を見直していて、素人考証のおそろしさということを感じました。

3年前の記事になりますが、「赤壁賦(せきへきのふ)」という漢詩を取り上げたことがあります。「赤壁賦」というのは、宋代の文人・蘇軾(そしょく、1037-1101)が、赤壁の地(三国時代の激戦地として有名)で、友人たちと清雅な舟遊びをした折の詠嘆の詩です。その詩中に月と星が登場し、それが好画題として、江戸時代の陶磁器類にも盛んに描かれたことを記事では話題にしました。


■星の豆皿を手に文人を気取る

さらにその6日後、自分はやっぱり江戸期の染付皿をネタに、別の記事も書きました。

■船と星

そこに登場したのは、以下の皿…というか鉢です。


3年前の自分は、この絵柄について自信満々にこう書いています。

 「北斗七星は妙見菩薩の象徴であり、北極星と共に道教的宇宙における至高の存在としてあつく崇敬されました。さらに時刻と方位を知る目印として、実生活でも重視された星です。ということは、これは航海の無事を祈り、平穏裡に航海が成就したことを祝う絵柄だと思います。」

当時の自分は、上の2つの器物に関係があると思わなかったので、こういう書きぶりになったわけですが、今にして思えば、この「北斗七星と船」の絵柄も、真っ先に赤壁図との関連を疑うべきでした。その理由を以下に述べます。

   ★

赤壁図の皿として、いちばん完備したものは、たとえば下のような品です(以下に登場する画像は、すべてオークションサイトからの借用です。関係各位に感謝とお詫びを申し上げます)。


断崖の奇勝、清流に浮かぶ舟、船中歓語、夜空に浮かぶ明月…そうしたものが渾然一体となって、文人趣味的な一種の理想世界が描かれています。欲をいえば、明月の背景に星空が描かれていれば、原詩に照らして完璧だったのですが、それは省略されています。

こうした絵が省筆されると、下のような図になります。


赤壁図の染付は「崖、船、星」の3点セットがいわば“お約束”で、この種の絵柄が最もポピュラーなものと見受けられます。もちろん、冒頭に登場した豆皿も、その同一線上にあります。

(画像再掲)

しかし、この「崖、船、星」のお約束は絶対至上ではなく、どれかの要素が脱落する場合があります。たとえば下の絵皿では「船」がありません(それでも遠くに帆船らしきものが見えるのは、船の名残かもしれません)。


あるいは下の絵皿は船と星のみで、「崖」が欠けています。


下は筒型の器物の側面に描かれた絵で、一応3点セットが揃っていますが、通常の「山形の三つ星」が、「逆山形の三つ星」に変形している例です。


こうした変形は、さらに下のような図を生みます。


こちらは、何とも解しかねる「四つ星」です。
そして、こうした変形の先に「北斗と船」の絵柄も生まれたのだろう…と、これまた素人考証の域を出ませんが、今ではそう考えています。

(画像再掲)

蘇軾の原詩は、月が星座から星座の間を動いていく様を読み込んでいるので、月の移動経路から遠く離れた北斗七星が登場するのは変なのですが、絵付け職人の念頭からは、既にそうした事実が消え去っていたのでしょう。(あるいは本当に単なる吉祥図としてのみ意識していたのかもしれません。)

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年度末のバタバタで記事がなかなか書けませんが、忙中おのずから閑あり、時に蘇軾の清遊に学び、時に「星空センチメンタリズム」の考究を続けながら、新しい年度に入っていきたいと思います。