1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(4)…出発 ― 2025年07月12日 10時51分01秒
7月も中旬に入り、アブラゼミの声がしきりに聞こえます。
下の写真は白飛びして細部が分かりませんが、肉眼ではモコモコした雄大な雲の峰で、まさに夏の盛り。でも夕暮れ時の色合いには、一抹の寂しさもにじみます。
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さて、勢い込んで筆をとったものの、やっぱりもう一度オリジナル資料を確認しておこうと思い、一寸もたつきました。
これからアマースト隊の動向と併せて、隊の天文助手を務めたウィラード・ゲリッシュの資料を紹介しようと思うのですが、ここで注意を要するのは、アマースト隊は横浜やサンフランシスコなど、往路と復路で同じ土地と経由しているので、たとえば横浜関連の資料にしても、それが往路に属するのか復路に属するのか、日付けが明記されていない限り判別不能だということです。でも、ここでは話の便宜上、どちらか不明なものは往路に含めて紹介することにします。
(紙物のエフェメラ類から成るゲリッシュ資料)
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アマースト隊の一行がニューヨーク駅を出発したのは1896年4月6日の朝でした。
4月とはいえ雪が降りしきる中、見送りの人たちの熱烈な声援に送られて、一行はグレート・ノーザン鉄道が用意してくれた特別車「Ai」号に乗り込みました。
途中、シカゴでアマースト大学から届いた資機材を積み込み、セントポールの町を過ぎ、ミズーリ川を渡り、大平原と山岳地帯を越えて、隊員たちは一路西を目指します。目的地・オークランド(サンフランシスコ湾沿いの町)までは、足掛け11日の鉄道の旅でした。
(サンフランシスコとオークランドの位置関係。ちなみに下述のサウサリートはサンフランシスコとサン・ラファエルの中間の町)
日本人だったら、その間せいぜい雑談して過ごすところですが、アメリカの人はひどく社交を好むらしく、夕食後には展望車両に集って、にわか四重唱団を結成し、みんなで歌を唄って楽しんだ…といったことが、『コロネット号航海録』には書かれています。我らがゲリッシュ氏は、そこでボストンの教会で鍛えた魅力的なテノールの声を披露したそうです。
ちなみに、旅のもう一方の主役であるコロネット号はといえば、一行に先立ち、前年の12月にニューヨーク港を発ち、南アメリカの先端(ホーン岬)を回ってサンフランシスコ湾に至る長途の旅に出ており、すでに4月1日には、現地で一行を待ち受けていました(なお、このときコロネット号を操ったのは、船主であるキャプテン・アーサー・カーティス・ジェームズではなく、キャプテン・C・S・クロスビーという別の人です)。
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この大陸横断の旅のお供をしたと思われるのが、アマースト隊の荷札です。
(紐を除いて約3.5×7.2cm)
きちんと印刷された荷札を準備したのは、それだけ大量の荷物があり、そのすべてに荷札を付ける必要があったからでしょう(「over」という注記の意味がはっきりしませんが、既定の上限を超えたエクストラな荷物だったことを意味するのかも)。
荷札の裏面。「ヨット・コロネット/ホールブルック・メリル・アンド・ステットソン商会気付/マーケット通り・ビール通り/カリフォルニア州サンフランシスコ」の文字があります。
ホールブルック商会というのは、金物の商いで財を成した会社で、サンフランシスコの目抜き通りにそびえる社屋は、地元のランドマークだったそうです(1906年のサンフランシスコ大地震で損壊・焼失)。
(約16×24cm)
同社のことは『コロネット号航海録』にも『コロナとコロネット』にも記述がないので、この会社宛てに荷物を送った理由は分かりませんが、同社から協力の申し出があったか、とにかく隊にとって何らかの便益があったのでしょう。その後、5トン半に及ぶ物資は、サンフランシスコ北郊のサウサリート駅に運ばれ、そこからボートでコロネット号に積み込まれることになります。
こうして一行は、出航に先立つ最後の準備として、ヨットの船室を改造したり、サンフランシスコで必要なものを買い足したり、その合間に歓迎と壮行の宴に臨んだりして10日間を過ごしました。
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サウサリート港からコロネット号が出航したのは、4月25日朝です。
全長40メートルの大型ヨットで、これから太平洋の波涛を越え、まず中継地であるハワイのホノルルを目指そうというのです。
(この項つづく)
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