1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(6)…横浜での日々 ― 2025年07月14日 19時49分16秒
ハリエットの『コロネット号航海録』には、横浜上陸後、人力車を連ねて銀行等で用を足した後、グランドホテルに向かったことが書かれています。
「必要な用事を済ませた後、グランドホテルへ行き、ヨーロッパ風の美味しい軽食をいただきました。ホテルは大きくて快適で、港を見下ろす外灘に位置し、多くの宿泊客がいるようだが、そのほとんどはイギリス人とアメリカ人でした。」
それに先立ち、横浜に投錨直後のこととして、「グランドホテルと書かれた蒸気船が現れ、そのオーナーはトッド教授を旧友と認め、ホテルに招き入れたいと熱望しています。」という記述もあるので、グランドホテル行きはそれを受けてのことでしょう。もちろん宿泊するだけなら、コロネット号の船内でも十分なのでしょうが、それとは別に横浜ではグランドホテルに宿をとったようです。
下はゲリッシュ資料に含まれるグランドホテルのラゲッジタグ。
グランドホテルは明治6年(1873)創業の老舗ホテルですが、その後、関東大震災(1923)で焼失。今の「ニューグランドホテル」(1927開業)は、このグランドホテルとは系譜的には無関係だそうですが、名称を市民から公募して「ニューグランド」に決まったそうなので、そこにはグランドホテルの栄華が残り香として漂っています(この事実は、横浜近代建築アーカイブクラブさんのサイトで知りました)。
下はグランドホテルが客に配っていた横浜市街地図。
(参考として大きいサイズで貼っておきます)
地図の左上に見えるのが、海岸べりに立つグランドホテルの外観。
当時は居留地返還(1899年に実現)前で、地割には細かい「居留地番号」が振られています。グランドホテルは、居留地番号18~20を占めていました。
参考までに、上の地図とほぼ同じ範囲を示すグーグルマップを貼っておきます。
特徴的な形の「イングリッシュ・ハトバ(波止場)」は現在の「象の鼻パーク」、その上の「クリケット場」が「横浜スタジアム」に相当します。あとは推して知るべし。ちなみにグランドホテルがあったのは、「横浜人形の家」の場所になります。
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往路での横浜滞在は6月22日から7月1日までの足掛け10日間、実質的には8日間ですから、北海道遠征に向けてもろもろの準備作業があったことを思うと、そんなにのんびりはできなかったと思うんですが、それでもやっぱり社交は欠かせなかったようです。
ゲリッシュは横浜到着翌日の6月23日に、W・W・キャンベルという人物の紹介を得て、「横浜ユナイテッド・クラブ」【参考LINK】の臨時会員証(10日間有効)を発給されています。どうも当時、社交にクラブは不可欠だったようですね。
下はさらにその翌日の24日付で届いたキャンベル氏の手紙。横浜ユナイテッド・クラブの用箋に書かれています。
(My dear Mr. Gerrish で始まる書簡。友人に対する気遣いと心配りにあふれた文面…と想像するのですが、難読箇所が多いです。文面は裏面にも続きますが割愛)
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ゲリッシュの横浜モノの資料の中で興味深いのは、一連の商店のビジネスカードです。
上に写っているのは、港橋通り相生町1丁目の「ウィスキーボーイ」こと山本卯助商店のカード。ウィスキーといっても、別に洋酒屋ではなくて、水晶・べっ甲・真珠等をあしらった装身具のお店。「卯助」だから「ウィスキー」と覚えてくれ、というわけでしょうが、いかにも明治のヨコハマです。右下には「ウィスキー(卯助)の名をお忘れなく」ともあって、可笑しみを誘います。上部欄外には「このカードを人力車夫にお見せください」とあって、この種のカードの使い道の一端が分かります。
下のカードは弁天通2丁目のシバタ(柴田?)屋のもの。刀剣骨董商として、主に外国人相手に商売をしていた店だと思います。
上記の2枚は、あるいは故郷への土産物を買うため、復路に立ち寄った店かもしれませんが、下の3枚は実用品の店なので、往路っぽい気がします。
左から時計回りに、「西洋上等小間物」を扱う境町の近江屋栄介商店、馬車道の靴屋、森田佐吉商店、弁天通2丁目の薬屋、Z・P・マルヤ(丸屋?丸谷?)商会のビジネスカードです。
近江屋のカードは裏面にも文字があって、西洋小間物とは衣類、傘、敷物、リネンから石鹸まで西洋の日用品全般を指すようですが、欄外にゲリッシュが書いたらしい「mosquito net」のメモがあります。きっと枝幸での宿営用に、この店で蚊帳を購入したのでしょう。
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こうして観光気分は徐々に消え、遠征隊はいよいよ日食(と蚊)が待つ北辺の町・枝幸を目指します。
(この項つづく)
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