本邦解剖授業史(1)2017年06月09日 21時50分16秒

医学史の古典、富士川游(著)『日本医学史綱要』(1933)によれば、宝暦4年(1754)、山脇東洋が京都西郊で刑死した屍を解剖し、『蔵志』を著したのが、我が国における解剖図譜の嚆矢であり、下って明和8年(1771)には、例の杉田玄白が、江戸小塚原の刑場で、女性刑死者の腑分けを行ない、『解体新書』の翻訳を志すきっかけとなったことが書かれています。

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その後、100年の時を経て、近代教育制度がスタートすると、本邦の子供たちは、みな罪人の腑分けを経験し、以て人体生理の精妙さを学ぶようになった…なんてことはありませんが、その代わりに、理科室の隅っこには人体模型がぽつねんと立ち、死罪人の代わりに、カエルやフナがその身を犠牲にして、理科教育の進歩向上を図る時代が、けっこう長く続きました。

とはいえ、いかに「教育のため」という大義名分があっても、カエルにしろ、フナにしろ、生きながら解剖するのは残酷だし、一方で口を酸っぱくして命の大切さを説きながら、あっさり授業で生き物を殺しては話の筋が通らないじゃないか…という批判も強く、昭和が終わりを迎える頃には、理科の授業における解剖実習は、すっかり影をひそめたのでした。

(かつて初等教育で使われた解剖器セット)

小学校の懐かしい思い出を集めた、串間努氏の『まぼろし小学校』(小学館、1997)を参照すると、昭和45~6年生まれの人が、解剖経験のクリティカルポイントで、それよりも上の世代はカエルやフナの解剖を経験した世代、それよりも下の世代は未経験世代になるようです。

ただし、これまで文科省が公式に「解剖をしろ」とも「するな」とも通達した形跡はなく、ある年を境として、全国一斉にパッと切り替わったわけではありません。
解剖の取りやめは、あくまでも世間の声に配慮した、各学校個別の判断であり、一般的傾向としては、上記のようなことが言えそうだ…ということです。

実際、今でもカエルの解剖を“強行”している学校も少数ながらありますし、先生たちも授業の仕方を工夫して、食用魚の解剖と調理を、家庭科の授業を兼ねて行っているところも多いような話を聞きます(要は魚の下ろし方の勉強ですね。昔と違って食べる行為とセットになっているのがポイントです)。

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医学教育における人体解剖実習をめぐっては、いろいろ都市伝説が生まれていますが、ここでは「そっち方面」の話は脇に置いて、理科の授業における解剖の話題を少し振り返ります。

(あやしいメスの輝き。なお、串間氏上掲書によれば、大正4年(1915)に、「博物用解剖器」というのが、実用新案として出願されている由。この手の学校用解剖セットは、少なくとも大正初期までさかのぼれるようです。)

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2017年06月10日 00時27分40秒

>カエルの調理経験~必ずしも解剖とセットではなかった
 1日前のコメントスレッドをこちらに移動させてもらいました。

 さすがに私の世代はセットではありませんでしたね。でも、どちらも小6~中1の頃だったと思うので、学校での解剖と家庭での調理は時期的にはセットといってもよかったかもしれません。手慣れたものでした。普通は解剖はトノサマガエルですよね。私は、トノサマガエルは食べたことがありません。でも、食べた友人もいたみたいで、小さいだけで食用ガエルと味はほとんど違わないのではないかと思います。
 
 現在、学校では解剖のないところが多いのですね。、魚の調理と兼用とかなかなか苦労されていることがわかりました。ただ、実験屋のはしくれとして言わせていただくと、家庭科のついでに解剖的な観察をするのはいいですが、理科として解剖した物を食べるというスタンスはまったく賛成できません。一般に、実験道具とか、理科室にある材料はどのような汚染がなされているかわからず、通常はもちろん問題にならないとしても、積極的に相当量を口から摂取するということは一般に理科実験では(食品開発の実験を除いて)想定外ですので、実験の安全教育上の配慮をしてほしいものです。

_ 玉青 ― 2017年06月10日 12時43分55秒

おお、これは重要なアドバイス。
最後に食べることを目指すなら、家庭科が主、理科が従とならざるを得ないということですね。そういえば、ビーカーで飲むコーヒーにも憧れましたが、あれも考えてみたらかなり危なっかしいですね。そのためのマイビーカーを用意して…となると、まったく本末転倒ですし、まあ理科室趣味はすべからくイメージ先行の気味があります。

_ S.U ― 2017年06月10日 13時56分25秒

>食べること
 この注意は、実は、私がたぶん小4の時、初めて化学実験が授業であった時に担任の先生から習ったことです。実験材料として薬包紙上に食塩が配られたのですが、それをすぐに勝手になめた児童がいました。それを見つけた先生が、かなりきつく注意したのを今でも強烈に憶えています。「食塩以外のものが混じっているかもしれないし、先生が別の粉を間違えて持って来たかもしれない」というようなことを言っていました。でも、この実験は、一度食塩水をつくったのち、それを蒸発皿かフライパンで加熱して、析出してきた粉をなめて食塩であることを確かめる実験だったので、先生の指示のもとに結局はなめるのでした。

>理科室趣味
 まあ玉青さんがご自宅の書斎兼実験室でやられるのでしたら、ビーカーで入れたコーヒーでも、リービヒ管を通った果実酒でも、「家庭」科ですから管理されておれば問題ないと思います。問題は共用の理科室の場合ですね。

 似たような話が、武田邦彦氏の本にも載っていました。自宅の生ゴミを集めて堆肥にして家庭菜園に利用するのは支障ないが、これを学校で各児童が持ちよった生ゴミを集積して学級菜園にまくのはいけないという主張でした。つまり、1軒でも、間違って生ゴミに蛍光灯やら充電電池やら捨てている家庭があると健康被害の危険があり、菜園も台無しになってしまうからということでした。堆肥の利用も良い教育ですが、安全性の確認されていないものを畑にまかないということも重要な教育であると感心しました。

_ 玉青 ― 2017年06月11日 12時53分02秒

なかなか含蓄に富んだエピソードですねえ。
されどつらつら思うに、ビーカーのコーヒーは理科室で飲んでこそのもので、そこにいささかリスクが伴うが故に、いっそうその味わいが深くなるのかもしれません。まあ、一種のフグ道楽みたいなものでしょう。

_ S.U ― 2017年06月11日 18時33分51秒

ははは。安全への配慮はするとしても実験には本質的にスリルとリスクがつきものですね。それも必要な要素と言えます。その魅力は本来、理科少年少女には学校で教育するまでもないことですが、はてさて昨今はどうなのでしょう。

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