石の人、本の人…和田維四郎のこと ― 2025年06月05日 06時16分26秒
この間の「旅」のこぼれ話の一つとして、ひょんなところで和田維四郎(わだつなしろう、1856-1920)に出くわしたことがあります。
日本の鉱物学草創期の偉人である和田のことは、以前――15年も前のことです――、その名をとった「和田石」の話題のところで、少し触れました。

(和田維四郎 出典:ウィキペディアの同人の項)
■人、石と化す
また前後して、和田の三男が幻想・推理作家の大坪砂男(本名:和田六郎、1904-1965)であることも話題にしました。
■鉱物、幻想、文学の系譜
その和田は、息子ばかりでなく自身も文学畑の活動にいそしみ、和漢の古典籍の蒐集家として名をはせたことを先日知りました。この事実はウィキペディアの同人の項にも、
「晩年は雲村と号し、岩崎久弥〔=三菱財閥総帥〕と久原房之助〔=くはらふさのすけ、「鉱山王」の異名をとった久原財閥総帥〕の財政支援により古書籍を蒐集、研究し、大著『訪書余録』などを著わし、科学的な書誌学の開拓に貢献した。」
…とあるので、その道の人には周知のことかもしれませんが、恥ずかしながら私は全く知らずにいました。
上の引用文中に出てくる『訪書余録』というのは、私が和田と古典籍との関係を知るきっかけとなった本です。大正7年(1918)に和装本の形で自費出版され、現在は古書価が20万円前後もする高価な本です。ただ幸いなことに、臨川書店から昭和53年(1978)にハードカバーの複製本が出たおかげで、その内容に触れることは容易です(ただしオリジナルは高さ33cmの大型本ですが、こちらは高さ26.5cmに縮刷されています)。
(全6編で出たオリジナルを「本文篇」と「図録篇」の2巻に再構成した複製本。本文篇は268頁、図録篇は裏面が白紙の折込図も多いため、単純に頁数で数えられませんが、全部で412図を収めています)
(同書奥付)
「本文篇」の内容は、漢文訓読のための「ヲコト点」の解説や、文字・料紙・印刷等の基礎知識、現存する主要古典籍の紹介ですが、目を引くのはなんといっても大部な「図録篇」です。普段容易に見ることのできない秘籍類を、原色版(オリジナルでは精巧な多色木版で表現)もまじえて紹介した内容は、和田の旺盛な集書・探書活動の賜物であり、その背後に大財閥の豊かな資力があったればこそです。まあ、言ってみれば「他人の褌」なのですが、彼の活躍によって財閥の書庫に収まった貴重書類は、その後も散逸することなく、現在の東洋文庫や大東急記念文庫に引き継がれたので、その努力は仇花で終わることなく、大きな実を結んだことになります。
(図版篇より『高野版 悉曇字記』)
(同『三十六人家集』 西本願寺蔵)
(図録篇目次。各種のサンプル画像を「標本」と呼んでいるのが、鉱物学者らしい)
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ここまでだと、和田は文理双方に深い学殖を備えた天晴れな人物である…ということなりますが、先ほどのウィキペディアの記述は、その次に妙な一文があります。
「但し、川瀬一馬の『日本における書籍蒐蔵の歴史』によれば、『訪書余録』は高橋微笑という者の編著という。」
川瀬一馬(1906-1999)は日本書誌学の権威と呼ばれた人。
学生時代から古典籍の世界の表裏を知り抜いた川瀬氏は、また違った和田像を伝えています。ついでなので、氏の言葉も原文で挙げておきます。
「さて、村口〔=神田神保町の村口書店主・半次郎〕はそれ以前に和田維四郎(雲村)にうまく結び付いて一人占めにして、数年の間に古本屋の巨商とも言うべき地位を獲得しましたが、どうも一手にすがるお客様がいないと心淋しいと漏らしていました。〔…〕大正の半ばに村口がうまく取り付いた和田維四郎(雲村)は、憲法以前の農商務省鉱山局長の役職にいて、藤田組や三菱に有望な鉱山を払い下げて、その見返りに両方から一生多額な小遣いを貰って暮らし、年を取って茶屋遊びから古書買い遊びに転じた人で、『江戸物語』などを作りましたが、『訪書余録』なども全部高橋微笑の編著です。」 (川瀬一馬『日本における書籍蒐蔵の歴史』(ぺりかん社、1999)、p.159)
これは相当毒のある評言ですが、斯界の権威・川瀬氏の目には、和田の古典籍研究も所詮は「古書買い遊び」のレベルに映ったのでしょう。なお、ここに名前の挙がっている「高橋微笑」は、『訪書余録』の「緒言」に見える「又高橋美章君は本書の印刷を監督せられ」…云々とある人のことと思われ(微笑はその名を音読みした号でしょう)、川瀬氏の回想では東京の市ヶ谷仲之町に屋敷を構えていたそうですが、それ以上の伝は未詳。
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若き日の和田はたしかに鉱物に心をはずませ、死後、自ら石と化しました。
しかし、生身の人間が硬く冷たい鉱物に伍すことはやはり相当難しいことで、ときに生臭いエピソードが漏れ出るのもやむを得ません。まあ、だからこそ人間的であり、人でなしと呼ばれるよりはいいのだ…とも言えます。
(庭仕事をしているときに拾った青い小石。玉髄?)
狐狸と屍喰(グール)の跋扈するところ ― 2025年06月07日 13時10分44秒
(前回のつづき)
和田維四郎(号は雲村)の古書蒐集に関して、前出の川瀬一馬氏は、もう少し言葉を加えています。
「村口は雲村の購書を一手に扱って、ほかの古本商を寄り付けぬように努め励んだと言います。〔…〕雲村は、岩崎・久原両文庫へ購入する古書の中に自分が欲しい物があると手もとに残し、それは後に「雲村文庫」として岩崎文庫に買って貰いました。体のよい二度取りです。それは半分久原文庫へ遣らなければならぬはずのものですが、久原は破産して最後は購入費を出しませんでしたから、岩崎文庫の方へ皆行ってしまったのでしょう。」 (川瀬前掲書、p.160)
川瀬氏はさらに
「古書善本の購入にかかわると利が伴ないますから、生活のため色々のことが起こりやすいものであります。その間に身を潔く保つことははなはだ難しいことです。」(同)
と余韻のある結び方をされていますが、川瀬氏の本には、ほかにもいろいろと人間臭いエピソードが紹介されていて、学ぶことが多かったです。
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こういう商取引に関わる「ズル」以外に、この本には偽作の話題も出てきます。
私はこれまで書画骨董の世界は偽作・贋作だらけにしても、刊本である古書にもそうした例があることを知りませんでした。
具体的には、名のある蔵書、たとえば古くは北条氏の「金沢文庫」とか、下って太田南畝の「南畝文庫」とかから出た本であることを装う<偽印>、あるいは無刊記の本に他本の刊記を持ってきて補う<目直し>など。もちろん、いずれも書物の「格」と値段を吊り上げるための工夫に他なりません。
(川瀬氏の本に紹介されている偽印の例。右は真正の金沢文庫印、左は偽印三体)
まあふつうの古書だったら、初版本のコレクターが「本当の初版」の見極めに血眼になったり…とかはあると思いますが、意図的な偽作というのは、あまり聞きません(「著者サイン入り」が、別人の筆だった…というのは聞きます)。しかし「古典籍」の世界はまさに生き馬の目を抜く世界で、なかなか油断できないわけです。
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古書と言えば、最近、こんな事実を知りました。
書物研究家の庄司浅水(しょうじせんすい、1903-1991)氏の古書エッセイに教えられたことです。
庄司氏は、愛書趣味の先人、アンドリュー・ラング(Andrew Lang、1844-1912)のいう「ブック・グール(書籍墓発き)」を紹介して、こう書きます(改段落は引用者)。
「〔…〕「書籍墓発き」に至っては、本を滅茶々々にしないと収まらないと云ふのだから、困ったものである。彼等は題扉(タイトルペーヂ)、口絵(フロントピース)、挿画、蔵書票等を蒐集するを以てこよなき楽しみとしてゐる。これがためには、公私の別なく書庫に忍び入り、湿した糸を挿込んでは己が欲する挿画を切り取り、アラビヤの伝説に伝はるかの不吉な悪魔の如く、巨人の残骸に見入る者である。
この方の代表的人物にジョン・バグフォードと云ふ靴屋の親爺がある。彼は英吉利好古物協会創設者の一人であるが、己が地位を利用して、各国各地の図書館、文庫を歴訪し、貴重珍稀な書籍を見せて貰ひ、監視の眼をごまかしては、さうした本のタイトル・ペーヂを片っ端からちぎり取ったのである。斯くして蒐集したものは、夫々の国々町々によって分類し、キチンと板紙に貼付けたが、二つ折判にして、優に百冊を突破したとのことである。」 (庄司淺水「書蠹」、奥本大三郎・編『蒐集(日本の名随筆別巻34)』、作品社、1993所収)
なるほどと思いました。
古書のカタログを見ていると、よく「タイトルページ欠」という本が売られています。現に私の手元にもあります。あれが一体何なのか、ずっと不思議に思ってたんですが、どうやら意図的に切り取る人がいたんですね。これが美しい口絵なら、それを切り取って手元に置きたいという気持ちは理解できるので、「口絵欠」の本は別に不思議とは思わないんですが、無味乾燥なタイトルページまで集めている人がいるとは、ちょっと予想していませんでした。
庄司氏と同様、私もそうした行為には眉をひそめますが、でもタイトルページがないおかげで、普通だったら手の届かない本が安価に売られている場合もあって、そのおかげをこうむっている私も、実は共犯者か…と、後ろめたいものも感じます。
(タイトルページを欠いたPierre Pomet(著)『A Compleat History of Druggs』、1712(フランスの本草書の英訳本)。パッと見タイトルページがあるように見えますが、これは前の所有者がカラーコピーで補ったもの)
星と石 ― 2025年06月08日 18時49分31秒
徐々に通常の話題に戻していこうと思いますが、もう少し「和」の話題を続けます。
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星と石、天文学と鉱物学。
両者は高校地学の二枚看板で、星も石も両方好きだよという方もきっと多いでしょう。賢治もそうだったし、足穂もそうでした。知識の多寡を無視すれば、かくいう私だってその一人に加わる資格はあります。
そんな次第ですから、古本屋の目録で「星石」を名乗る人物を知ったとき、すかさず「いいね」と思い、その人の筆になる古びた短冊をそそくさと注文したのでした。
星石山人作、月下吹笛図。
川面に舟を浮かべ、無心に笛を吹く男。
その姿を眺め、その楽に耳を澄ますのはひとり月のみ―。
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この短冊をしたためたのは、宋星石(1867-1923)という人物です。
「そうせいせき」と聞くと、なんだか中国や朝鮮王朝の文人を想像しますけれど、まぎれもなく本朝の人で、鎌倉以来、対馬国を領した宗氏第36代当主、宋重望(しげもち)がその本名。
彼が宋氏の当主となったのは、既に時代が明治となってからですが、大名華族として伯爵に列せられた彼は、まあ普通に言えば「対馬の殿様」と呼ばれうる立場の人です。もちろん殿様だからエライ…ということはないんですが、後半生を文人画家・書家・篆刻家として、もっぱら風雅の道に生き、東京南画会会長も務めた彼は、そのことを以て偉いと称しても差し支えないでしょう。
彼が星石という号を用いた理由は寡聞にして知りません。
呉石とか琴石とか耕石とか、「○石」という号を名乗る人は多いので、星石もそのバリエーションに過ぎないといえばそうかもしれませんが、何にせよ星と石が仲良く同居しているのは素敵な字配りで、私も使いたいぐらいです。
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宋星石とは関係ないと思いますが、ネットを見ていたら、「星石」とは隕石の古い言い方の一つだと知って、そのことも素敵だと思いました。
星石先生の書斎へ ― 2025年06月14日 09時28分36秒
宋星石(1867-1923)にほれ込んだ結果として(ほれ込んだのはその作品というよりも名前ですが)、その後さらに星石の蔵書印を手にしました。
(持ち手を除く高さは52mm)
この小さな「岡持ち」のような木箱に入っているのがそれです。
蓋には 「山陽翁遺愛 印材」 の墨書があって、
けんどん式の蓋を開けると…
蓋の裏にも墨で箱書きがあります。
「壬寅春日贈呈 星石公以為好 頼潔(印)」
併せ読むと、この印は江戸時代の学者・文人である頼山陽(らい・さんよう、1781-1832)が大事にしていた印材を使ったもので、印材の贈り主は山陽の孫にあたる頼潔(らい・きよし、1860-1929)、贈ったのは壬寅の年、すなわち明治35年(1902)の春です。二人はほぼ同時代を生きた人で、生年は頼潔のほうが星石より7歳年上。「星石公以為好」とありますから、贈られた星石も大いに喜んだのでしょう。
もみ紙に包まれたその印は…
こうした不思議な形状のものです。
私は最初「印材」とあるので、「石印材」を想像したのですが、実際には印面も含め総体が金属製(古銅)です。雰囲気的には、骨董界隈でいう「糸印(いといん)」【LINK】に似ています。
あるいはこれはまさに糸印そのものであり、元の印面を磨りつぶして「印材」として山陽が手元に置いていたのかもしれません。
よく見ると印面の側面にも銘が彫ってあり、そこには
「山陽翁遺愛 星石先生得之蔵(1字不明)刻 時甲辰夏日」
とあります。これによれば、印が彫られたのは、甲辰=明治37年(1904)の夏、すなわち印材を贈られてから2年後に、星石はそこに刻を施したことになります(ここで星石が自ら「星石先生」と称するのは奇異な感じもしますが、「先生」には師匠や偉い人の意味のほか、「自ら号に連ねて用いる語」という用法があって(大修館『新漢和辞典』)、ここもおそらくそれでしょう)。
印に彫られた文字は「藏之名山」(之を名山に蔵す)。
司馬遷の『史記』冒頭の「太史公自序」(太史公とは司馬遷のこと)にある「藏之名山 副在京師 俟後世聖人君子」に由来する文句です、明治書院のサイト【LINK】によれば、「この書の正本は帝王の書府に収めて亡失に備え、副本は京師に留めおいて、後世の聖人君子の高覧を俟ちたいと思う」という意味だそうです。
今日の記事の冒頭、この品を「蔵書印」と呼びましたが、それは売り主の古書店主の言い方にならったもので、本当に蔵書印かどうかは分かりません。自作に捺す普通の引首印や落款印だったかもしれないんですが、印文の意味を考えると、まあ蔵書印とするのが妥当だろう…と推測されるわけです。
★
この品を見ていて思い出すシーンがあります。
漱石の「草枕」(1906)で、主人公の画家が、逗留中の宿の隠居から茶を振る舞われる場面です。その場にいるのは、他に近所の禅寺の和尚と、隠居の甥にあたる20代半ばの若者、久一(きゅういち)の4人。
隠居は正統派の煎茶をたしなむらしく、上等の玉露を染付碗にごく少量注いで出し、その後は隠居と和尚の骨董談義がにぎやかに続きます。床の間には荻生徂徠の書、古銅の花器には大ぶりの木蓮、そして目玉は隠居が秘蔵する頼山陽遺愛の硯です。この「山陽遺愛」という点で、手元の品と連想がつながるのですが、ともあれ江戸の文人趣味が、明治の後半、日露戦争のころまでは、十分リアリティをもって人々に共有されていたことが分かるシーンです。
とはいえ、それもある一定の世代までです。
若者代表の久一は、隠居から「久一に、そんなものが解るかい」と聞かれて、「分りゃしません」とにべもなく言い放ち、日露戦争で出征が決まった彼を一同が見送る中、久一の死を暗示する描写で物語は終わります。
時代は容赦なくずんずん進み、日本も急速に重工業化し、頼山陽の時代は遠くに霞みつつありました。手元の印材に星石が熱心に印刀をふるったのも、ちょうど同時期です。
宋星石は夏目漱石と同い年になりますが(慶応3年=1867生まれ)、南画やら文人趣味というのも、彼らの世代をもって終焉を迎えたんじゃないかなあ…というのが、個人的想像です。
(星石と漱石)
もちろん今でも煎茶をたしなむ人や、文人趣味を標榜する人はいますけれど、その精神はともかく、肌感覚において往時とはずいぶん違ったものになっているはずです。ネット情報を切り貼りして、何となく文人を気取っている私にしても又然り。
寂しい気はしますが、それこそが抗い難い時代の変遷というものでしょう。
あれがポラリス ― 2025年06月15日 11時47分54秒
昨日の品からの連想ですが、星石先生の蔵書印と一寸似たものが手元にあります。
(全長78mm。私の手と比べたら、ちょうど中指の長さと同じでした)
まあ、見た目はご覧のとおり全然似てないんですが、似ているのはその機能です。
このデコラティブな金属細工の先が、やっぱり印章になっているのでした。
これは書状を蝋封するためのシーリングスタンプで、たぶん19世紀の品でしょう。
スタンプのヘッドはオニキス(縞めのう)を陰刻したものですが、ここまで寄っても図柄が分かりにくいので、購入時の商品写真をお借りします。
(コントラスト調整+左右反転画像)
星を指し示す手と「Bear」の文字が、約1cm四方の石面にきっちり彫り込まれています。
何となく謎めいた図柄で、その意味するところは想像のほかありませんが、その文字はたぶん持ち主が「Bear」家の一員であることを示すものでしょう(Bear という姓は特に稀姓ではありません)。
そしてその名前から「天空の熊」、すなわちおおぐま座・こぐま座(英名は Great Bear と Little Bear)を連想し、それを北極星を指し示す手として表現したんじゃないでしょうか。そこからさらに、“我らBear一族は、常に志操の極北を示す指針たらん”…とまで説教臭い意味をこめたかどうかは分かりませんが、でもヴィクトリア朝の人だったら、それぐらいのことは考えたかもしれません。
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大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
上の想像の当否は不明ですが、賢治の「星めぐりの歌」を聞きながら眺めれば、ここにも天文古玩的情趣が流れるのを感じるし、そしてこの品もまた星と石の取り合わせであることを、天上の星石先生に報告したくなるのです。
黒い太陽の幻 ― 2025年06月17日 19時19分37秒
今から27年前、1998年の8月11日。
イギリスの人たちは、92年ぶりに国内で皆既日食が見られるというので、大いに活気づいていました。下はそれを記念する絵皿。
(径20.5cm)
このときの皆既帯は、グレートブリテン島の西南端に位置するコーンウォール地方を通過しました。皆既帯の中心に位置するセント・モーズ村では、11時11分31秒から11時13分37秒まで、2分と6秒の天体ショーが見られることを、絵皿は詳細に告げています。
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(皿の裏面)
この皿を作ったのは、地元コーンウォールの陶磁器メーカー「Cornish Ceramics」社で、同社の所在するセント・アイヴスの町も皆既帯の中心に近かったので、絵皿づくりにも一層力がこもったことでしょう。(ちなみに、セント・アイヴスは古くから素朴な器が焼かれた土地で、濱田庄司とバーード・リーチが日本式の登り窯を築き、民藝的作品をせっせとこしらえたのもこの町です。)
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皆既日食はいつだって「ああ!」という嘆声に包まれています。
ひとつは、神秘の黒い太陽と壮麗なコロナに対する「ああ!」
もうひとつは、雲に隠れた太陽を見上げての「ああ!」
このときも、大勢の人がコーンウォールに詰めかけ、BBCも中継のため現地入りしたのに、非情な雲は人々の口から嘆きの「ああ!」を漏らさせるのみでした。コーンウォールの人も、こんな記念のお皿まで作って楽しみにしていたのに、まったく残念なことでした。
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雲は勝手気ままな気まぐれ者。
しかしその雲を生み出し、動かしているのは他ならぬ太陽ですから、太陽がそれを望んだのだ…と思って、ここは納得するしかないかもしれません。
北の大地に太陽は黒く輝いた(1) ― 2025年06月19日 05時11分31秒
英国の日食事情はひとまず脇に置いて、日本のそれはどうだろう?と思って検索したら、以下のような分かりやすいページがありました。いずれも富山市科学博物館のサイトに掲載されているものです。
■20世紀中に日本国内でみられた皆既日食・金環日食
■21世紀中に日本国内でみられる皆既日食・金環日食
ここに出てくる表をお借りして、手元で合体させると、以下のようになります。
こうして見ると、一見、皆既日食や金環日食はしょっちゅう見られるもののように思えますが、この中で皆既日食かつ「本土」(北海道・本州・四国・九州の四島)で観測可能なものに限定すれば、下の表のようになり、やっぱり「黒い太陽」は相当珍しいことが分かります。しかもロケーションは北海道が多いですね。
その意味で、今から10年後、2035年9月2日に本州のど真ん中で見られる日食は、まことに貴重で、ぜひこの目で見たいと思いますが、9月は本州中央を通過する台風の好発時期ですから、そこがちょっと気がかりです。
(台風の月別の主な経路(実線は主な経路、破線はそれに準ずる経路)、
ここは太陽の加護があることを祈るばかりです。
★
ときに上の日食表で、20世紀以降、「本土」で最初に観測された皆既日食は、1936年6月19日の北海道日食で、89年前のちょうど今日のことです。この日食に少し注目してみます。
(この項つづく)
北の大地に太陽は黒く輝いた(2) ― 2025年06月22日 06時21分03秒
前回の記事に掲げた表を見ると、北海道は日食の名産地のように思えますが、1936年(昭和11)以前に同地で見られた皆既日食は、さらに40年前の1896年(明治29)までさかのぼります(しかもこの時は悪天候に祟られて、ほとんど観測不能でした)。
のみならず、範囲を日本全土に広げても、この間皆既日食は見られませんでしたから(注1)、この1936年の日食は、列島の住人にとって40年ぶり、あるいはそれ以上に久しぶりの天文ショーだったわけです。
★
当時発行された小冊子が手元にあります。
■東京朝日新聞社北海道販売局(編集・発行)
『日食を見る―北海道観測記念』
昭和11年7月7日印刷、同7月12日発行
『日食を見る―北海道観測記念』
昭和11年7月7日印刷、同7月12日発行
写真主体のグラフ誌の体裁をとった、全16頁の薄い冊子です。
表紙のレタリングがいかにも洒落ていますね。
冒頭の「北海道日食観測陣」の紹介は、なかなか壮観です。
この日食には、東京天文台の7班を筆頭に、京都花山天文台(3班)、東京文理大(3班)、海軍水路部(2班)がそれぞれ複数の隊を派遣したほか、東大天文学教室、同・物理学教室、京大宇宙物理学教室、同・地球物理学教室、東北大天文学教室、同・物理学教室、東京工業大、広島文理大、北大医学部、海軍技術研究所、理化学研究所、海洋気象台、中央気象台、東京科学博物館、逓信省無線課、逓信省電気試験所、水沢緯度観測所、そして五藤光学研究所から各1隊が参加していました。
(当日の日食帯。北海道東北部、オホーツク海沿岸をなぞるように延びていました)
さらに海外に目を転ずれば、アメリカ、イギリス、オーストリア、ポーランド、チェコスロバキア、および中国の南京中山天文台と北平大学の観測隊がそれぞれ来日し、北の大地で黒い太陽を待ち設けたのでした。
(「上斜里〔かみしゃり〕に於ける外人部隊の記念撮影」)
(右上「雄武〔おうむ〕小学校の京大日食観測班」、右下「東北帝大班の松隈博士(小清水にて)」、他)
(右下「女満別〔めまんべつ〕で機械を点検する東京天文台の吉田技師」、左「女満別の早乙女班〔東京天文台〕大望遠鏡と田助手」、他)
この日、イギリス隊とポーランド隊を除き、各隊はおおむね観測に成功し、それぞれ詳細な報告書をまとめたはずですが、ここでは日食の学理面のことは割愛し、冊子を眺めて感じたことをメモしておきます。
★
表紙をめくると、その裏は北海道の酒造メーカー「北の誉」の広告で、
裏表紙は、翌年、小樽で開催が予定されていた「北海道大博覧会」の予告、
そしてその裏(=裏表紙の裏)は「札幌三越」の広告になっています。
これを見て気づくのは、この1936年の時点では、日食イベントが商業主義としっかり結びついていたという事実です。もちろん科学的探究心や自然への畏怖心も、そこには当然あったわけですが、それに加えて皆既日食が、メディアが企業と組んで仕掛ける「お楽しみイベント」化した…というのが、前代とは異なる20世紀の特色ではないかと思います。
まあ「お楽しみイベント」とはいっても、旅行会社の日食パックツアーはまだなかったと思いますが、冊子には女生徒の日食観測隊というのが紹介されています。
(「京大山本一清博士夫人に引率された自由学園生徒の日食観測隊」)
これなんかは日食ツアーのいわば「はしり」で、きっとリベラルで裕福な家庭のお嬢さんが、好奇心から参加したのでしょう(好奇心は大いに伸ばすべきですが、少なくともこの観測隊は学術研究を目的とはしていなかったはずです)。また下の「女満別小学校々庭のアマチュア観測陣」として紹介されている、学生・紳士の一団のうちにも、道外からの客がまじっていたと想像します。
と同時に、この間、北海道という土地も「秘境」の性格を薄めて、いわば急速に「世俗化」しつつあったんだろうなあ…とも思います。
今の北海道では鉄道がどんどん廃止されていますが、その総延長が最大に達したのは1966年(昭和41)で、その長さは4218.1kmでした。これを基準にすると、前回日食があった1896年の時点では、総延長333.6kmで、開通率は8%に過ぎません。しかしこの1936年になると、総延長は3732.7kmで、開通率はすでに88%に達しています(注2)。これによって人と物資の大量輸送が可能となり、北海道開拓は急速に進んだのです。
そうしたことを背景に、アイヌ習俗にも新たに「観光」のまなざしが注がれるようになったのでしょう。
(「アイヌの日食祭」)
★
というようなことをつらつら思いつつ、でも1896年と1936年、明治と昭和の間の40年間で大きく変わったのはそれだけではないぞ…と思うので、そのことにも触れておきます。
(この項つづく)
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(注1) 過去に日本で見られた日食 http://star.gs/njkako/njkako.htm
(注2) 中岡良司 「建設期間年表による北海道の鉄道の発展過程」
閑語… I’ll see you in hell ! ― 2025年06月23日 21時59分03秒
日食の話題の途中ですが、ちょっと寄り道します。
★
「地獄」というのは、どの文化圏でもたいてい地の底にあることになっています。したがって、その最大距離は足元から約6400km(=地球半径)で、それだけ掘り下げれば、早くも「地の底」に達します。
反対に地表から6400km上昇しても、月までの距離の38万kmに遠く及ばず、せいぜい中軌道の人工衛星ぐらいの高さにしかなりません。ましてや惑星や恒星は、まだまだ遥かに遠い存在です。
★
距離を基準にした場合の、天上世界と地下世界のこうした極端な非対称性は、ギリシャ人には既知のことでした。
廣瀬匠氏の『天文の世界史』(インターナショナル新書)を参照すると、ギリシャ人は観察と推論にもとづき、月までの距離は地球の直径のおよそ30倍である…と正しい結論に達していました(少なくとも紀元2世紀の人であるプトレマイオスは、著書にそのことを記しています)。そして太陽は月よりもずっと大きく、ずっと遠くにあることも分かっていました。
古代インド人の場合、純粋思弁ではありますが、やはり似たような結論に達しています。
もののサイトによると、地獄の最下層にある「無間地獄」は、地上から4万由旬の距離にあるそうです。1由旬の解釈は諸説紛々としていますが、最短で約100メートだとか。これにしたがえば、無間地獄の位置は地下4000kmとなり、ちょうど現実の地球半径と同じオーダーになります。
一方、天界は遠いです。須弥山の山頂にあって、地上とは地続きの忉利天(とうりてん)にしても海抜8万由旬。さらに上層に浮かぶ「本当の天上世界」といえるのは、同じく16万由旬にある夜摩天(やまてん)からですが、これは天上世界のほんの「とば口」に過ぎず、その上に兜率天(とそつてん)、化楽天(けらくてん)、他化自在天(たけじざいてん)…と多くの「天」が積み重なり、最後は遥か無限のかなた、空間をも超越した無色界天に至るというのが、仏教の説く「天」だといいます(諸説あります)。
★
いずれにしても地獄はすぐ近くにあるのに、天界の住人になるのは大変です。
裏返せば、人間世界は天国よりも地獄に一層近い様相を呈しており、眼前の事実を前にして、それを否定できる人は少ないでしょう。
★
死後の世界としての地獄が本当にあるのかどうか、まあ無いのかもしれませんが、ネタニヤフやトランプという人を見ていると、人間が地獄という観念を必要とする理由がよく分ります。
トランプ氏あたりは、ひょっとして「地獄の沙汰も金次第」と高をくくっているかもしれませんが、現世でずるい商売をした悪徳商人には、彼ら専用の地獄が用意されているそうで、地獄もなかなか遺漏がないです。
(奈良国立博物館蔵・原家本『地獄草子』より。桝目をごまかした商人の堕ちる「函量所(かんりょうしょ)」)
北の大地に太陽は黒く輝いた(3) ― 2025年06月28日 11時36分53秒
北海道日食のつづき。
北海道で皆既日食があった1896年と1936年、明治と昭和の間の40年間で大きく変わったものがある…と書きましたが、それは私の創見ではなく、1936年の日食観測報告書にそう書いてあるのを見て、「なるほど」と思ったのでした。
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連載の2回目で書いたように、このときは大学関係をはじめ、気象台や逓信省等、多数の観測隊が北海道入りをしましたが、その中にあって純然たる民間の立場で参加したのが、五藤光学研究所の遠征隊であり、それを率いたのが所長の五藤齊三(ごとうせいぞう、1891-1982)です。
(興部〔おこっぺ〕の観測地に立つ五藤齊三。『北海道日食観測報告書』より。以下同じ)
(五藤隊が見た日食)
(五藤隊が布陣した興部の位置)
五藤隊は、帰京後『北海道日食観測報告書』という冊子を公刊しています(奥付がなく、正確な刊年は不明)。
(まだらになっているのは染みではなく、そういう模様の紙を使っているため)
ただし、これは独立した報告書ではなく、既に公刊済みの以下の3編の報文を一冊にまとめたものです。
■五藤齊三、「北海道興部皆既日食観測に於ける眼視観測と撮影装置」
「科学知識」昭和11年8月号
■平山清次、「日食後記」
「改造」昭和11年8月号
■S. GOTO & M. YAMASAKI,
Cinematographic Observations of the Total Solar Eclipse of June 19, 1936.
Cinematographic Observations of the Total Solar Eclipse of June 19, 1936.
Popular Astronomy, vol. XLV, No.5, May, 1937.
2番目の「日食後記」の筆者、平山清次(ひらやまきよつぐ、1874-1943)は、五藤隊に加わっていたわけではありませんが、文中で五藤隊の業績を好意的に取り上げているので、特に載せたものと思います(平山は前年に東京天文台を定年退官しており、自ら隊を率いることはありませんでしたが、東京天文台あるいは東大隊のどれかに随行していたのでしょう)。
平山はこう書きます(引用にあたり旧字体を新字体に改めました。〔 〕内は引用者)。
「朝日新聞社の援助で五藤、三木〔新興キネマ会社技術部の三木茂〕両氏が興部で日食の活動撮影を試みた。コロナの方は別に珍しいもので無いがフラッシ〔フラッシュ〕の変化を撮ったのは稀で、しかもそれを無電の秒の信号と合せてトーキーで撮ったのは恐らく最初であらう。此の映画は朝日新聞社主催の日食座談会で見せて貰ったが予期以上の好成績である。〔…〕とにかく此観測では玄人連が顔負けをした形で、学術の進歩の為めに誠に喜ばしい事である。」
(左:活動写真トーキーの成果)
五藤隊の面目躍如。そして平山は続けてこうも書きます。
「是迄の日本の日食観測は殆ど全部、外国から輸入した器械で行ったのであるが、今度の日食には国産品が大部用ひられた。小清水で松隈博士が用ひたコロナ写真器、興部で村上理学士が用ひたコロナ写真器、稚内で鈴木理学士が用ひたフラッシ・スペクトル写真器は其主なるもので何れも相当の成績を挙げて居る。光学工業は言ふ迄もなく精密工業の基礎で、それが出来ないでは一流の工業国たる資格が無い。写真工業に就いても同じ事である。其等が日食観測に使用し得べき程度に運んだのは真に国家の為に喜びに耐えぬ事である。」
そう、これこそ私が「なるほど」と思った大きな変化です。
ニコンの前身、日本光学が設立されたのが大正6年(1917)。その日本光学を飛び出し、五藤齊三が廉価な望遠鏡の製作販売を目指して五藤光学研究所を創設したのが大正15年(1926)。明治と昭和の間にはさまった大正時代に、日本の光学工業は画期を迎え、長足の進歩を遂げたのでした。
(冊子の裏表紙と、冊子に挟まっていた案内文。「弊社製品の型録〔カタログ〕御入用有之候はゞ左記へ御申越被下度候」。時代は進んでも、まだ完全な候文であるのがいかにも戦前)
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ときにまったくの余談ですが、五藤光学のロゴマーク。
同社のサイト【LINK】を拝見すると、現在は下のデザインに変わっていて、「創業者 五藤齊三は富士山がとても好きでした。弊社の社章は、世界中の人がひと目でそれとわかるように、日本を代表する富士山と、光学技術の象徴であるレンズが組み合わされています」との説明があります。
公式がそうアナウンスしている以上、まあその通りなのでしょうけれど、同社はウラノス号、アポロン号、ダイアナ号、エロス号のように、ギリシャ・ローマ神話にちなむ製品名を多用したので、このマークも「ギリシャ神話の主神ゼウスと霊峰オリンポス山を組み合わせたもの」という“裏解釈”が当時なかったかどうか、そこがちょっと気になります。
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