<太陽の棘>…大正科学と太陽黒点 ― 2010年02月23日 18時31分29秒
(↑賢治の描いた黒点消長図)
話が少し脇道に入ります。
ガラクマさんにコメントをいただき、太陽と気象のことを一寸考えてみました。
とはいえ、この話題はアカデミック・サイエンスと、ポピュラー・サイエンスのせめぎ合いのようなところがあって、概観するのがなかなか難しいです。詳しい方から是非ご教示いただければと思います。
★
この話題から、私がまず連想したのは宮沢賢治のことでした。
以前とりあげた高村毅一・宮城一男(編)『宮澤賢治科学の世界―教材絵図の研究』(筑摩書房)には、以下のような記述があります。
「太陽の黒点にまつわるテーマは、大正年代においては、
斬新かつセンセーショナルなものであった。とりわけ、大
正12年に開設された盛岡測候所では、さっそく最新の望
遠鏡による黒点の観測を開始し、黒点の盛衰が気象・稲
作の豊凶と密接に関係しているという説を発表したほど
であった。」
「その頃、足繁く、盛岡測候所を訪ねていた賢治が、この
ような黒点のテーマに関心を寄せない筈がない。事実、
有名な童話「グスコン〔ママ〕ブドリの伝記」の草案とみら
れる「太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」という12章の
童話の構成メモからも、冷害の原因を太陽の黒点説に位
置づけた賢治の思考が垣間みられるのである。」
賢治は、この問題を非常に重視したらしく、農村青年向けの講義にそなえ、手ずから太陽黒点の消長を示す絵図を描いています(上の写真がそれで、これは現存するものとしては、彼が描いた唯一の天文関係の絵図です)。
ところで、上の文中で盛岡測候所云々というのは、当時の「岩手日報」の記事に基づく記述です。盛岡測候所による原論文(もしあれば)では、どう述べられているのか気になりますが、太陽活動と気象変動の問題は、当時きわめてジャーナリスティックな話題であり、記者が針小棒大に書き立てた可能性もありそうです。
★
アカデミックな学者は、実際のところどう見ていたのでしょうか?
当時京大に在籍していた天体物理学者、荒木俊馬(1897-1978)は、昭和3年に次のように書いています(※1)。
「太陽活動の、地球上の気象や、他の遊星表面の現象に
及ぼす影響は、確かに存在するが、其の詳細は今日の所
不明の点甚だ多く、その為か近来新聞紙上などで、黒点
に関する無責任な気象学的迷信とも言ふ可き説が屡々
〔しばしば〕誤り伝へられるのは遺憾な事である。」
何だか、にべもない調子ですね。
繰り返しになりますが、世間の関心と学界の大勢との間に乖離があったらしい…ということが、この話題を考える際のポイントだという気がします。
★
以下は、ほぼ斉田博氏の本(※2、3)の受け売りです。
そもそも、太陽活動と気象変動の関連が騒がれ出したのは、大正時代を遡ること6,70年前、1850年頃のことでした。ドイツのアマチュア天文家、シュヴァーベが、1843年に太陽周期(11年ごとに黒点数が増減する現象)を発見し、それが1850年代に入り学界で認められ、19世紀半後半には、太陽周期と気象変動の関係は学界のホットな話題となりました。
賢治と同じく、農業への影響がその関心の根っこにあったのですが、ただ、その視線は農民救済ではなく、むしろ収奪にあった…というと、書き過ぎかもしれませんが。どういうことかというと、この問題に最も関心を寄せたのはイギリスで、それは植民地インドの農業経営を考える上で、気候を予測することが国家的重要事項だったからです。
実際に研究を始めてみると、インド洋でのサイクロン発生と、黒点周期には確かに関係がありそうだという結果が出て、これに力を得て、イギリスでは様々な研究が行われました。太陽物理学の大家、ジョセフ・ノーマン・ロッキャーもこのテーマに傾倒した一人で、1870年代以降、その牽引役となりました。
ただ、研究が進むにつれて、黒点周期が気象変動とダイレクトに関係しているというような、素朴な説明は成り立ち難い事実も次々と明らかになり、また当のロッキャーも第一線を退いたことで、だんだん研究も下火になってきた…というのが、20世紀はじめの概況のようです。
★
もちろん今では、当時不可能だった太陽定数の微細な変化(平たく言えば太陽の温度変化)も直接測定できるようになり、その他の観測手段も格段に進歩しているので、この問題には新しい角度からスポットが当てられていると思いますが、大正時代においては、研究者にとって、これは「世間受けを狙うキワモノ的なトピック」だったような気がします。
前田河広一郎というプロレタリア作家は、「太陽の黒点」という作品の中で、一労働者に「太陽の黒点が多いから不景気になるなんてウソの皮だ。資本家の責任転嫁だ。資本家が悪いのだ」と言わせていますが(※4)、こうした科白に何となく時代の空気を感じます。
太陽黒点は「科学の装いをこらした新しい邪鬼」として、凶作におびえる農民の心胆を寒からしめ、利にさとい資本家の興味をそそり、科学というよりは、一種の社会現象として大正の世を蓋っていたのでしょう。
★
こうした文脈の中で、神戸の海洋気象台に巨大ドームが置かれました。
その辺の事情を踏まえ、クック望遠鏡の続きを書いてみようと思います。
いったい、この望遠鏡は周囲にどんな風に受け止められたのか?
はたして当事者の真意は?
(意外な長文になりつつ、つづく)
【参考】
※1)荒木俊馬、「太陽と黒点」、初出「科学画報」昭和3年1月号、『天文と宇宙』第7版(恒星社、昭和16)所収、pp.214-225
※2)斉田博、「黒点周期の発見」、『おはなし天文学1』、地人書館、2000、pp.25-35.
※3)同、「太陽周期と地球現象との関連性を求めて」、『おはなし天文学4』、同、pp.131-142.
※4)草下英明、『宮澤賢治と星』、学芸書林、1975、p.97
話が少し脇道に入ります。
ガラクマさんにコメントをいただき、太陽と気象のことを一寸考えてみました。
とはいえ、この話題はアカデミック・サイエンスと、ポピュラー・サイエンスのせめぎ合いのようなところがあって、概観するのがなかなか難しいです。詳しい方から是非ご教示いただければと思います。
★
この話題から、私がまず連想したのは宮沢賢治のことでした。
以前とりあげた高村毅一・宮城一男(編)『宮澤賢治科学の世界―教材絵図の研究』(筑摩書房)には、以下のような記述があります。
「太陽の黒点にまつわるテーマは、大正年代においては、
斬新かつセンセーショナルなものであった。とりわけ、大
正12年に開設された盛岡測候所では、さっそく最新の望
遠鏡による黒点の観測を開始し、黒点の盛衰が気象・稲
作の豊凶と密接に関係しているという説を発表したほど
であった。」
「その頃、足繁く、盛岡測候所を訪ねていた賢治が、この
ような黒点のテーマに関心を寄せない筈がない。事実、
有名な童話「グスコン〔ママ〕ブドリの伝記」の草案とみら
れる「太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」という12章の
童話の構成メモからも、冷害の原因を太陽の黒点説に位
置づけた賢治の思考が垣間みられるのである。」
賢治は、この問題を非常に重視したらしく、農村青年向けの講義にそなえ、手ずから太陽黒点の消長を示す絵図を描いています(上の写真がそれで、これは現存するものとしては、彼が描いた唯一の天文関係の絵図です)。
ところで、上の文中で盛岡測候所云々というのは、当時の「岩手日報」の記事に基づく記述です。盛岡測候所による原論文(もしあれば)では、どう述べられているのか気になりますが、太陽活動と気象変動の問題は、当時きわめてジャーナリスティックな話題であり、記者が針小棒大に書き立てた可能性もありそうです。
★
アカデミックな学者は、実際のところどう見ていたのでしょうか?
当時京大に在籍していた天体物理学者、荒木俊馬(1897-1978)は、昭和3年に次のように書いています(※1)。
「太陽活動の、地球上の気象や、他の遊星表面の現象に
及ぼす影響は、確かに存在するが、其の詳細は今日の所
不明の点甚だ多く、その為か近来新聞紙上などで、黒点
に関する無責任な気象学的迷信とも言ふ可き説が屡々
〔しばしば〕誤り伝へられるのは遺憾な事である。」
何だか、にべもない調子ですね。
繰り返しになりますが、世間の関心と学界の大勢との間に乖離があったらしい…ということが、この話題を考える際のポイントだという気がします。
★
以下は、ほぼ斉田博氏の本(※2、3)の受け売りです。
そもそも、太陽活動と気象変動の関連が騒がれ出したのは、大正時代を遡ること6,70年前、1850年頃のことでした。ドイツのアマチュア天文家、シュヴァーベが、1843年に太陽周期(11年ごとに黒点数が増減する現象)を発見し、それが1850年代に入り学界で認められ、19世紀半後半には、太陽周期と気象変動の関係は学界のホットな話題となりました。
賢治と同じく、農業への影響がその関心の根っこにあったのですが、ただ、その視線は農民救済ではなく、むしろ収奪にあった…というと、書き過ぎかもしれませんが。どういうことかというと、この問題に最も関心を寄せたのはイギリスで、それは植民地インドの農業経営を考える上で、気候を予測することが国家的重要事項だったからです。
実際に研究を始めてみると、インド洋でのサイクロン発生と、黒点周期には確かに関係がありそうだという結果が出て、これに力を得て、イギリスでは様々な研究が行われました。太陽物理学の大家、ジョセフ・ノーマン・ロッキャーもこのテーマに傾倒した一人で、1870年代以降、その牽引役となりました。
ただ、研究が進むにつれて、黒点周期が気象変動とダイレクトに関係しているというような、素朴な説明は成り立ち難い事実も次々と明らかになり、また当のロッキャーも第一線を退いたことで、だんだん研究も下火になってきた…というのが、20世紀はじめの概況のようです。
★
もちろん今では、当時不可能だった太陽定数の微細な変化(平たく言えば太陽の温度変化)も直接測定できるようになり、その他の観測手段も格段に進歩しているので、この問題には新しい角度からスポットが当てられていると思いますが、大正時代においては、研究者にとって、これは「世間受けを狙うキワモノ的なトピック」だったような気がします。
前田河広一郎というプロレタリア作家は、「太陽の黒点」という作品の中で、一労働者に「太陽の黒点が多いから不景気になるなんてウソの皮だ。資本家の責任転嫁だ。資本家が悪いのだ」と言わせていますが(※4)、こうした科白に何となく時代の空気を感じます。
太陽黒点は「科学の装いをこらした新しい邪鬼」として、凶作におびえる農民の心胆を寒からしめ、利にさとい資本家の興味をそそり、科学というよりは、一種の社会現象として大正の世を蓋っていたのでしょう。
★
こうした文脈の中で、神戸の海洋気象台に巨大ドームが置かれました。
その辺の事情を踏まえ、クック望遠鏡の続きを書いてみようと思います。
いったい、この望遠鏡は周囲にどんな風に受け止められたのか?
はたして当事者の真意は?
(意外な長文になりつつ、つづく)
【参考】
※1)荒木俊馬、「太陽と黒点」、初出「科学画報」昭和3年1月号、『天文と宇宙』第7版(恒星社、昭和16)所収、pp.214-225
※2)斉田博、「黒点周期の発見」、『おはなし天文学1』、地人書館、2000、pp.25-35.
※3)同、「太陽周期と地球現象との関連性を求めて」、『おはなし天文学4』、同、pp.131-142.
※4)草下英明、『宮澤賢治と星』、学芸書林、1975、p.97

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