モノは万里の波濤を越えて2022年06月11日 15時55分00秒

ずいぶん長いことブログを放置していました。

この間何をしていたかといえば、ひとつは前にも書いたように、ハーシェル展の準備作業をしてたわけですが、それともう一つ家の片づけに精を出していました。これは家人が職場に置いていた大量の資料を持ち帰ることになったため、いやでも応でも片付けざるを得なかったのです。

そのため、今回はかなり本格的に片付けを行いました。
おげでだいぶ部屋がスッキリしました。…というのはちょっと誇大で、見た目はそう変わらないんですが、今回はまさに「アンタッチャブル」だった物入の奥にも手を伸ばし、それまでデッドスペースだったところを蘇らせたのは、我ながら上出来です。つまり、見えないところが片付いたわけです。見えないところに堆積した物というのは、意外に潜在意識に圧迫感を与えるもので、それが無くなっただけでも、気分的にずいぶん楽になりました。

(ふと脇に目をやると机の上にプレーンな面がある…という、当たり前のことが無性に嬉しかったりします。これも片付けの成果です。)

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最近は急速な円安で、海外からモノを買うのが難しくなっています。
まあ、せっかく部屋を片付けたのだから、再びモノを増やすのも良くないし、当面は自重したいと思います。

それでも、「これだけは…」と思ったものがあります。本ブログではおなじみのブセボロードさんの新作です。新作が出たということは、即ちブセボロードさんとお仲間の製造ネットワークが復活したことを意味するので、これは祝賀の意味でも購入しないわけにはいきません。

問題は現在のウクライナからの配送状況です。
ブセボロードさんのオンラインショップの冒頭には、「ANY PURCHASES YOU MAKE AT THIS STORE ARE AT YOUR OWN RISK」 と大文字で書かれています。

自己責任は元より承知。しゃにむに注文を入れると、ブセボロードさんから以下の返信がとどきました。

「玉青さん、あなたが関心を持たれた品2点を送るには700ドルかかります(注:送料込みで700ドルではなくて、送料が700ドルです。そう、70ドルではなくて700ドル!)。ですから、代金の支払いは少しお待ちください。送料をもっと安くする方法を思案中です。

以前もお話ししたように、ウクライナ発着の国際配送業者、たとえばUPSとかFedexとかは、現在国内で営業を停止しています。したがって唯一可能な方法は、国営郵便だけです。でも今回の荷物は、私がふだん国営郵便に任せる品よりも高価ですし、今春、アジアに送った唯一の品は4月末に発送したものですが、それがまだ先方に到着しないので、少なからず不安に思っています。

しかし、もう一つ方法があるのを思い出しました。ノバ・ポストです(注:ノバ・ポストはウクライナの宅配会社らしいです)。同社は通常ウクライナ国内向けしか扱っていないのですが、同社にはノバ・ポスト・グローバル(NPG)というハイブリッドオプションがあります。これは外国のハブまで自前で荷物を運び、そこでUPSに荷物を引き継ぐというものです。UPSよりも若干安価で、若干長い時間がかかります。

私は去年1回それを試してみましたが、悪夢のような経験でした。係員はウエスタンビッド経由で発行された自社の追跡番号が分からなかったし、私は手続きのため、アプリをインストールしなければならず、そもそも社員はNPGの仕組みを知りませんでした。彼は倉庫からプリンターを持ってきて、コンピュータにつなぎ、ようやく必要な書類を打ち出しました。1時間を無駄にして、私はもうNPGは使わないぞと心に誓いました(ウクライナ国内であればノバ・ポストの配送はとてもスムーズなのですが)。しかし、今の状況では、NPGも選択肢のひとつだと思います。私たち二人が配達を待って数か月無駄にするより、私一人が1時間無駄にするほうがましです。」

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ブセボロードさんは信頼できる人だと改めて感じるとともに、ウクライナの日常の一断面を見る思いがします。戦争の影響は、本当にいろいろなところに及ぶものです。

21世紀になり、紛争当事国からでもメッセージやデータは一瞬で届くようになりましたが、モノの方はやっぱりそうはいきません。当面は遣唐使のころとあまり変わらない気分で、首を長くしてモノを待たねばなりません。(でも、将来的にVR世界がリアル世界を圧倒するようになると、人とモノの関係も大きく変わるのかもしれません。)

700 対 702022年06月12日 07時11分43秒

昨日の件は、結局送料70ドルで決着がつきました。ああ良かった。

まあ、普通に考えれば70ドルでも結構な額ですが、何せ話の前段があるので、そこに仮想的な割安感が生じるわけです。でも、話の前段である「送料700ドル」というのも、実は私の心のおびえが生んだ早とちりで、ブセボロードさんは単に「品代が700ドル」と言いたかっただけかもしれません(昨日の適当訳の原文は、“The package you were interested in would cost 700$ for both”です)。こういのを「疑心暗鬼を生ず」というのでしょう。

そして700ドルといえば、これまた極めつけに高価ですが、それがブセボロードさんを応援し、ウクライナ経済を支援することにつながるならば、ボーナスをはたく価値は十分あると信じます。(…と言いつつ、それも荷物が無事届くことが前提で、もし途中で行方不明になったら、そう勇ましいことも言ってられません。己の卑小さを恥じます。)

しばらくは毎日そわそわしながら、トラッキング情報を見ることになるでしょう。

(ウクライナと日本。ウィキメディア・コモンズより)

蝶の翅2022年06月13日 19時25分42秒

今回家を片付けて、これまで目に触れなかったものが、いろいろ表に出てきました。
例えば、三角紙に入った蝶の標本。


これは完全な虫体ではなしに、翅のみがこうして包んであります。長いこと仕舞いっぱなしだったわりに、虫損もなく、きれいなまま残っていたのは幸いでした。

(クロムメッキのケースも、今回引き出しの奥から発見。本来は医療用だと思いますが、密閉性が高いので、改めて標本ケースに転用)

種類も、産地も、系統立ったものは何もないし、翅も破れているものが多いので、標本としての価値はほとんどないと思います。でも、これは特にそういうものをお願いして、知り合いの知り合いの方から譲っていただいたのでした。

なぜかといえば、それは鱗粉を顕微鏡観察するためです。
別に研究的意味合いはなくて、あたかもカレイドスコープを覗き込むように、単に好事な趣味としてそうしたかったのです。


鱗粉の名の通り、鱗状の構造物が視界を埋め尽くし、不思議なタイル画を描いているのも面白いし、モルフォ蝶などはステージが回転するにつれて、黒一色の「タイル」が徐々に鮮やかなエメラルドに、さらに一瞬淡いオレンジを呈してから輝くブルーに変わる様は、さすがに美しいものです。

(下半分はピンボケ)

でも、忌憚のないところを言えば、私の場合、鱗粉の美しさを愛でるというよりも、まさに鱗粉を顕微鏡で眺めるという行為に酔いしれているところがあって、この辺は子どもの頃から進歩がないなと思います。


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私の人生の蝋燭もだんだん短くなってきましたが、夏の思い出はまた格別で、ふとした瞬間に、あの日あの場所で見た陽の光、木の葉の香り、友達の声を思い出します。

今年も理科室のノスタルジアの扉が開く季節がやってきました。

生物学の授業1939(その1)2022年06月17日 18時24分40秒

私が子供のころの理科室の思い出も、相当な過去に属するのですが、それよりもさらに昔、戦前の理科の授業の思い出を、鮮やかに今に伝える品が手元にあります。


すなわち昔の理科のノートを1冊にまとめて製本したものです。


標題は「生物学」。尋常科2年級の川崎浩君の力作です。

「尋常科2年級」というのを、私は最初「尋常小学校2年生」の意味だと思いました。これは今の小学2年生と同じです。でも、7つか8つの子供が「生物学」を学ぶのはちょっと変だなあ…と思って調べたら、これは「高等学校 尋常科2年生」の意味でした。すなわち昔の旧制高校の中には、今でいう中高一貫校に当たる「7年制高等学校」という区分があって、その7年課程を年少の4年と年長の3年に分かち、前者を「尋常科」、後者を「高等科」と称したのだそうです。

昔の学制はややこしいので、ウィキペディアから説明図を借ります(クリックして拡大)。


上は1935年頃の学制で、左端に「7年制高校」が見えます。
結局、尋常科2年級とは、今の中学2年生と同じ学年に当たります。

現在、大学の講義録をとっておく人がどれぐらいいるのかはわかりませんが、昔は講義の筆録を貴重な資料として後々までとっておく、心掛けの良い人が少なからずいました。そして、そういう習慣は大学のみならず、初等・中等教育段階でもあったらしく、この川崎君のノートも、稚拙といえば稚拙ですが、1年間の立派な学習の記録として、こんなふうにきちんと製本されて、ながく手元に留め置かれたと見えます。

(Nの書き方がちょっと変。)

ノートは1939(昭和14)年4月7日から始まっています。


「今日は今迄使用してゐた科学入門ではなくて
生物学(Biology)についておそはることになった。
此の生物学は人及び動植物は何故生きてゐるのだらう。
又生きて行くにはどうゆう条件が必要なのだらう。
といふことをきはむる学科は既〔即〕ち生物学である。」

たどたどしくも初々しい、川崎君の生物学探求の足跡を、さらにたどってみます。

(この項つづく)

生物学の授業1939(その2)2022年06月19日 16時07分32秒

今でいうところの中学2年生に進級した川崎浩君。

川崎君が在籍した学校名を探したのですが、それはどこにも書かれていませんでした。ウィキペディアによれば(↓)、旧制の7年制高校は台湾の台北高校を含めて9校のみで、わりとマイナーな存在のようです。創立はいずれも大正末から昭和の初めにかけてで、時代的にもかなり限定されます。


このうちのどこかに在籍した川崎君の生物学の勉学のあとを追ってみようと思うのですが、まず外形的なことを述べておくと、このノートは1学期が18回、2学期は16回、3学期は22回の合計56回分の講義録から成ります。(なお、当時の学期の区切りは今と違って、2学期の授業は6月26日から、3学期の授業は11月22日から始まっています。)

そして全ての回について、その都度ノートを先生に提出して添削を受け、ときには「も少し丁寧に書きなさい」と注意を受けたりしながらも、延々と川崎君はノートを書き継いでいきました。


その間に、Nの向きを間違えることもなくなったし、最初は「NOⅡ」(第2回講義の意)としか書かれてなかった冒頭部も、最後の方は「第十八回 第九章 第二課 下等生物の生殖(其の二)」とシステマティックに書くようになり、川崎君にも成長のあとが見られます。


(川崎君の悪筆は最後まで変わりませんが、レタリングは上手くなりました)

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授業は、1学期の最初の方は、

第1回 生物が生存する条件
第2回 生物と無生物、純正生物学と応用生物学
第3回 細胞
第4回 キュウリの種まき、植物の細胞観察、細胞の構造

…という具合に始まって、以下、細胞分裂、単細胞生物と多細胞生物、生物の栄養法、光合成、澱粉、下等動物の栄養法、昆虫の消化器、蝶の構造と観察、甲殻類と軟体動物、脊椎動物、哺乳類、(ここから2学期)寄生虫と寄生植物、生物の呼吸作用と循環作用、排せつ作用、蛙の解剖、植物の外皮、貝殻の真珠層、動植物の護身作用、(ここから3学期)保護色・警戒色・擬態、動物の移動運動、動物の感覚

…と続き、3学期の最後の方は

第15回 第9章 生殖 第1課 下等生物の生殖(其の一)
(アメーバ、バクテリア、ゾウリムシ)
第16回 同(ヒドラ)
第17回 同(菌類、スギゴケ、シダ)
第18回 第2課 下等生物の生殖(其の二)(つくし、とくさ)
第19回 同(サンショウモ、クラマゴケ)、第3課 顕花植物の生殖
第20回 第4課 下等動物の生殖(クラゲ、サナダムシ)
第21回 同(肝蛭、肝臓ジストマ、ミミズ、ヒル、回虫)
第22回 同(十二指腸虫、蟯虫、ウニ・ヒトデ、タコ・イカ・ハマグリ・アサリ・サザエ・ホラガイ)


…と、生殖作用に多くの時間をかけて、1年間の授業を締めくくっています。

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次回以降、ノートの中身を見ながら、当時の生物学の授業を振り返ってみようと思いますが、ここで次の疑問に答えておきます。

そもそもこのノートはどのように作成されたのか?

このノートには丁寧な彩色図がたくさん入っており、いろいろな図版の切り抜きも貼り込んであります。授業を聴きながら、そんな作業をする余裕があったはずはないし、「今日は○○について習った」という書きぶりから察するに、これは講義の最中に筆記したのではなくて(そういう本当の意味でのノートはまた別にあったはずです)、授業後に、今日習ったことをまとめた「復習ノート」なのでしょう。(それを先生に提出して、チェックしてもらっていたわけです。たくさんある科目のひとつに過ぎない生物学でも、それだけ時間をかけて学んでいたとなると、全体としては相当な学習量ですね。)

(応用生物学の例として挙がっている金魚の品種改良)

それともう1つ気になったのが、ノートに貼られた図です。
そこには学習雑誌の付録っぽいのもありますが、どうも教科書から切り抜いたとしか思えないものもあって、教科書を切り刻むというのは、今の感覚からすると違和感を覚えますが、それを先生も咎めていないところを見ると、少なくとも川崎君の学校では、既成の教科書よりも、自分の手でまとめた講義録に重きを置いていたような気がします。

(鳩の解剖図)

(この項つづく)

生物学の授業1939(その3)2022年06月25日 16時41分39秒

ところで現在の中学校では、生物の授業はどうなっているのでしょうか?


上は(株)進学会さんのサイトから勝手にお借りしたものですが、今の中学校の理科の生物分野では、大体こういうことを習うのだそうです。

80年余り前と今とを比較すると、意外にというか、当然というか、あまり習うこと自体は変わっていません。基本となるのは、大まかな生物分類の知識と、体の構造(細胞と器官)とその働き(光合成、呼吸、循環、消化、生殖)についてです。まあ、細部を見れば、今は生態系と環境のことを重視しているし、昔は保健分野(衛生の話題)が理科にくっついていたので、授業にやたら寄生虫の話題が出てくるという違いはあります。

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それよりも大きな違いを感じるは、叙述のスタイルです。
一言でいうと、当時は妙に「文学的」です。川崎君のノートは、教科書の文体や、先生の口述を反映しているのでしょうが、その言葉遣いや、論の立て方・進め方に、何となく文学的な匂いを感じます。

たとえばこれから生物学を学ぼうという、1学期の第2回目の授業で、先生はこんな実験に言及します(おそらく先生も実際にやったわけではなく、あくまでも思考実験だと思います)。


それは同じぐらいの大きさのソラマメと小石をならべて土に植えるというもの。


ずっと観察を続けていると、ソラマメからは、やがて根と芽が出て、葉を茂らせ、花が咲き、実がなります。それに対して小石の方に何の変化もない。あるいは、陶製の擬卵と本物の卵を鶏に抱かせても又然り。生物は常に変化し、無生物は変化しない。一体なぜか?

 「これは不思議なことだときがつくと、これをどうしてもしらべずにおけなくなるのが人性の常である。しかし人はこれに不思議を感じない人が多い」

目の前の事実を、当たり前ですませずに、なぜなんだろう?と疑問に思うことこそ、人間の人間たるゆえんであり、そこから「科学する心」も生まれるのだ…と先生は言いたいわけです。こういう考えさせる授業は、今でもあると思いますが、問題設定の仕方がいきなりというか、相手の虚を突くところが、少なからず文学的と感じられます。

続く第3回の授業でも、

 「前回に述べたように、蚕豆や鶏卵は小石や陶器とちがって色々の変化をなすものである。
野蛮人は物を考へないが文明人たるものは物を考へねばならぬ。
故に我々文明人は斯様な現象が起るかを不思議であると思はづにいられない。」


と、同じテーゼが繰り返されており、先生としては、この点に相当力こぶを入れていました。「文明人」と「野蛮人」を対比するのは、いかにも時代がかっていますが、まあ、ここでは「知性を重んずる人とそうでない人」ぐらいの意味に捉えていいのかもしれません。

こうして我々の心に芽生えた疑問に、我々はどのように答えを見出すべきか?

「これをしらべるにはその動物を解部〔剖〕するのも一つの手段であるし又その動物を培養飼育をするのも一つの手段である。
又他人の経験録すなはち昆虫であればファーブルの昆虫記を読むといったふうにするのもよい。」


「生物の生活の現象をしらべるにはどうして研究するのが便利か
蚕豆の根を針の先ほどとってこれを顕微鏡で観ると図の如く見える」

こうして細胞の話から始まり、授業はいよいよ本格的な内容に入っていきます。
余談ながら、授業の中でファーブル昆虫記が大いに推奨された事実は、日本人のファーブル好きを物語るもので、ファーブルは教育的良書として、当時は今以上に喧伝されていた気配があります。

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以後の内容は、当然のことながら教科書的な記述が多いですが、ところどころにリアルな授業の息吹が感じられる個所があります。たとえば、2学期の第5回の講義は、動物の呼吸について学ぶ回なのですが、なぜか唐突に上杉鷹山のことが出てきます。


 「かてもの
 この本は往昔山形の米沢の藩主上杉鷹山公が時の学者共に研究させて作った本である。当時は大ききんがたびたびあって人民はとても苦しんだ そこで上杉鷹山公は人民の苦るしみを思って終いにこの本をつくらうと意を決したのである。この本はだれにも読めるやうにかなまでがふってある。内容は米等があまり取れなかったのでその代りに何をたべればよいか又どうして食べればよいかなどとくわしく書いた本である。
明治時代等は何でも西洋のものがよいことにして西洋のものでなければだめであるといふ時代であったのでこの本などはわすれられた。しかし欧州大戦に独逸(Germern〔ママ〕)は野生の草を食用に用ひたので近来になって又日本の物がよいといふ時代になって再びこの本を造り出したのである。」

「かてもの」は「糧物」の意で、飢饉の際の救荒食物のことだそうですが、授業はこの後さらに脱線して、生徒たちは自ら「かてもの」作りを経験するため、校庭で育てていた大根の世話に精を出したことが書いてあります。

 「かてものの様なものを造る練習に夏休中に小使さん達が造ってゐて下さっ〔た〕大根をつくる事にした。今日は時間の余に1所に二〔三?〕株ある所を二株にしなほ時間があったので一株にし、なほ葉の後についてゐる蛾や蝶の卵をのぞきかつ家にもってかへった。」


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こんな風に見ていくと、本当にきりがありません。
当時の授業の進め方は、学校によっても違ったでしょうし、先生の裁量も大きかったと思いますが、少なくとも川崎君の受けた授業はとても魅力的です。

ここに宮沢賢治的世界を重ねて見ることは容易ですけれど、現実世界ではきな臭いものが間近に迫っていました。

(3学期第12回のノート。日付は2600年1月15日。1940年(昭和15年)は皇紀2600年だというので、世間は大層浮かれていました。しかし翌年には太平洋戦争に突入して、学校も徐々に授業どころではなくなっていきます。)

(中途半端ですが、この項いったん終わり)