「抱影」の誕生2010年10月05日 20時02分13秒

科博の話題からそれますが、一昨日の日曜、家でゴソゴソ調べていたことは、「飛行機の形をした科博の謎」の他に、実はもう1つあって(←つくづくヒマですね)、そちらもついでにメモしておきます。

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日曜の朝、新聞を開いたら、でかでかと「抱影」の文字があって、反射的に目が引き付けられました。

残念ながら、それは野尻抱影翁とは関係なくて、北方謙三の小説の広告でしたが、「そういえば、抱影はいつから抱影と号するようになったのかな?」という疑問が浮んだというのが、もう1つの話題です。これについては、石田五郎氏の『野尻抱影』(リブロポート)を開いたら、そこにアッサリ答が書かれていました。

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野尻抱影(本名・正英 まさふさ;1885-1977)が、「抱影」の号を使うようになったのは、明治37年(1904)、彼が19歳のときです。

明治36年(1903)の11月に、『明星』から分かれて文芸誌『白百合』が創刊されたとき、その中心にいたのが抱影の親友・相馬御風(1883-1950)で、その関係から、抱影も『白百合』創刊時からの同人でした。抱影はここで、バイロン、アンデルセン、モーパッサンなどの小品の翻訳を発表しています。

「はじめは「野尻陽炎」というペンネームを使ったが、
〔前田〕林外たちにすすめられ第七号からは「抱影」を
使うようになった。金剛経の「夢幻泡影」からとった
ものであるという。」(『野尻抱影』41頁)

「‘泡’影」がなぜ「‘抱’影」になったかは、石田氏も書いていないので分かりません。先輩同人に岩野泡鳴(1871-1920)がいたので、「泡」の字を遠慮したのかもしれません。

このとき抱影は、自分が将来「星の文人」になるとは予想もしなかったでしょうが、‘星影を抱く者’という美しいイメージを喚起する「抱影」と号したのは、彼にとっても、また彼を慕う天文ファンにとっても、至極幸いなことでした。(野尻抱影が「野尻泡影」や、ましてや「野尻陽炎」でなくて、本当に良かった!)

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『白百合』という雑誌は、その出自からも分かるように、明治浪漫主義の色濃い内容の雑誌です。山本一清も、野尻抱影も、青年期に浪漫主義思潮の洗礼を受けた人で、彼らの天文趣味には、その影響が終生付いて回った…ということを、以前書いた気がします。

彼らの末流である現代の天文ファンにも、その影響は及んでおり、天文趣味の追求が、「科学的営為」のみならず「文学的営為」の色彩をも帯びるのは、そのせいではないでしょうか(天文入門書の中で、星座の神話と伝説に多くのスペースが割かれていても、特に奇異と感じないのは、「刷り込み」が余程強固なのでしょう。)

まあ、天文ファンも千差万別なので、一括りに語ることはできませんけれど、少なくとも一部においては、そうしたウェットな星菫趣味に、賢治や足穂の硬質な抒情が加わったことにより、非常に奥行が生まれたのは確かで、それこそが日本の天文趣味の一大特徴ではないかと、ちょっと我田引水気味ですが、そう思います(このことも以前書いたかもしれません)。