街頭の理科研究(後編)2013年01月19日 15時40分22秒

(遅ればせながら、前回の続き)


この本の主人公は、小学5年生(途中で6年生に進級)の春夫さん。
本書は、彼が周りの大人たちと対話しながら、日常身の回りの事物の中に理科的知識を探っていくという、一種の学習読み物です。
その冒頭に置かれたのは「鉄一瓩〔キロ〕と木一瓩」という微笑ましい文章。

 春夫さんは国民学校初等科五年生で、理科が大好きです。
学校の往復やお散歩の時よく自然観察をしてゐますから、
ときどき面白い質問をお父さんや兄さんに持出します。どう
してもわからない時には学校の先生にお尋ねいたします。
先生は春夫さんには大へん感心していらっしゃいます。
 或日学校の運動場で遊んでゐる時、一人のお友達が突然
春夫さんに向つて
 「鉄一瓩と木一瓩とどちらが重いと思ふ?」
と尋ねました。春夫さんは、
 「君は変は事を云ふんだね。鉄も木もどちらも重さが一瓩
なのに、どちらが重いといふのは変じゃないか。同じ重さだよ。」
と云ひますと、そのお友達は得意さうに、
 「それが違ふんだ。鉄の方が重いんだよ。うそだと思ったら
両方一しょに水の中へ入れてごらん。鉄は沈むけれども、
木は浮くだろう。どうだ、木の方が軽いぢゃないか。」
と云ひました。
 皆さんはこの話を聞いて、どちらが正しいと思ひますか。

なかなか導入部も惹き付けるものがありますね。
ちなみに、春夫さんの住まいは東京の西部という設定ですが、当時の山の手の子供たちは、本当にこんな生意気な口調だったんでしょうか。


本の目次を見ると、上の話題に続いて圧力、浮力、比重に関連した話題が続き、著者はある見通しを持って、系統立てて知識を伝えようとしていることが分かります。

   ★

理科そのものとは関係ありませんが、この本のページをめくっていると、あることに気付きます。それは、この小さな本の中にも、<時局の変化>が如実に表れていることです。



奥付を見ると、この本は昭和16年12月15日印刷、同20日の発行です。実際に発売されたのは、たぶんその一寸前でしょう。この年の12月8日が、言わずと知れた真珠湾ですから、この本は太平洋戦争開戦と同時に世に出たことになります。

子ども向きの気軽な本とはいえ、書き上げるにはそれなりの日数がかかったはずで、著者がせっせと執筆に励んでいる間に、世の中の空気は急速に変化したのでしょう。そのことが内容から想像できます。

本の前半は、それこそ鉄1キロと木1キロはどちらが重い?というような、ほのぼのした話題が続きます。もちろん中国大陸では日中戦争の最中ですから、当時の日本が平和を謳歌していたわけではありません。しかし、春夫さんの生活は、日曜日にはお父さんとハイキングに出かけたり、町でのんびり買い物をしたり、散歩帰りには大人びてコーヒーを飲んだりと、まだまだ余裕がありました。


(本書口絵。古き良き昭和風景)

樟脳舟のしくみを説く「夜店で見つけた表面張力」、本影と半影について学ぶ「影法師遊び」、音楽会場の構造から知る「音の反射」、出前持ちの妙技に感心する「おそば屋さんと重心」…etc。本の最初の3分の2ぐらいまでは、戦前から続くのどかな市民生活が垣間見られます。

しかし、その後は本の世界でも急速に戦時体制への移行が進み、「焼夷弾を恐れるな」、「炭素と薪自動車」、「ガソリンの一滴は血の一滴」といった、切ない章題が並びます。以下は「ガソリンの一滴は…」中の、春夫さんとお父さんとの会話。

「〔…〕世界中で一年に汲出される原油は大たい二億七千万トン
だが、そのうち、日本でとれるのはどれ位だと思ふ?」
「知りません。」
「戦時日本の少国民がそんな認識不足では困る。びっくりしちゃ
いけないよ。たった0.2パーセントだ。〔…〕だから日本では、
国内で使ふ石油の約九割は外国から買ってゐたのだ。
そこへこんどの支那事変がはじまって、飛行機に、戦車に、
又軍艦にもたくさんの油が入用なのだ。〔…〕最近になって、
アメリカも、蘭印も、日本の正しい東亜共栄圏確立といふ考えを
誤解して、日本へ石油を売ってくれなくなってしまったのだ。
本当にガソリンの一滴は血の一滴だ。」

   ★

最終章は「今は軽金属の時代」。飛行機を作るジェラルミンの話題です。
ジェラルミンの主成分はアルミニウムで、その原料はボーキサイト。しかし、日本ではボーキサイトが取れません。でもお父さんは、力強く春夫さんを励まします。

日本人もえらいぞ。大ぜいの学者がいろいろ研究した結果、
日本にたくさんある粘土や明礬石(みょうばんせき)から
アルミナを作る方法に成功したのだ。〔…〕春夫も中学校に入ったら
うんと勉強して、世界を驚かすやうな大発明をするんだな。
それも御国に忠義を尽すことになる。

本の結びで、春夫さんは爆音を上げて飛ぶ戦闘機を見上げ、期待に胸をふくらませます。

「僕は少年航空兵になりたいなあ。」
とひとり言のやうに云ひました。皆さん、この春夫さんは、
これから中学校へ入学するさうですが、将来は大学者大研究家に
なってお国に尽すでせうか。それとも荒鷲となって、我が国の
空の護りを固めるでせうか。皆さんの中の誰かときっと一しょに
なって、御国のために名を成すときがあるだらうと思ひます


戦争というのはなかなかシビアなものですが、それによって失われるものが何なのか、この本を読むと少し分かる気がします。