日本のグランドアマチュア天文家(3)2017年03月14日 07時20分31秒

萑部進・守子両氏のお名前は、『改訂版 日本アマチュア天文史』(日本アマチュア天文史編纂会編、恒星社厚生閣、1995)、および『続 日本アマチュア天文史』(続日本アマチュア天文史編纂会編、同、1994)に、複数回登場します(以下、前者を『正編』、後者を『続編』と記すことにします)。

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まず夫君である進氏の名は、『正編』に9か所、『続編』に1か所出てきます。また、守子氏の名は、『正編』に7か所登場します。これは両氏がアマチュア天文家の中でも、相当熱心な活動家だったことを示す数字です。

その天文家としての活躍ぶりは、前回、木辺氏の文章でも挙げられていたように、惑星面、掩蔽(星食)、微光変光星と多岐にわたっていました。

東亜天文協会(現東亜天文学会)は、観測対象に応じてセクション体制をとっており、昭和9(1934)年には、進氏は「掩蔽課」に、守子氏は「遊星面課」に、それぞれ課員として名を連ね、昭和11(1936)年には、守子氏も掩蔽課員となっています。
(なお、当時の掩蔽はもっぱら月によるものを指し、惑星や小惑星による掩蔽観測は一般的ではありませんでした。)

また、変光星についても、夫婦揃って熱心な観測家で、進氏は438個、守子氏は29個の観測データを、東亜天文協会に報告しており、さらにアメリカのAAVSO(アメリカ変光星観測者協会)にも、進氏は249個、守子氏は14個のデータ報告を行なっています。

変光星の観測報告は、すべて昭和10(1935)年に行われたものですが、萑部氏に限らず、この年は東亜天文協会の内部で、ちょっとした「変光星ブーム」があったらしく、その前後に比べて、報告者も、報告数も、格段に多くなっています。

そのことは、『正編』172ページに所載の「東亜天文協会変光星観測リスト」に明瞭ですが、ここでいっそう注目されるのは、このリストに挙がっている55名の観測者中、女性は萑部守子氏と、京都の成川梅子氏の2名のみであることです。

さらに、『正編』の319ページには、以下の記述も見られます(筆者は重久長生氏)。

 「萑部夫妻は10吋反射(赤)、6吋屈折(赤)などを持ち、変光星観測をやっていた〔註:吋はインチ、「赤」は赤道儀式の意〕。とくに夫人の方が熱心だったという。その他に18吋・リンスコット反射鏡(末組立品)を持っており、これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。」

横浜云々のことは、また後でも触れますが、守子氏の熱心な観測ぶりは、こんなふうに周囲にも広く聞こえていたのでしょう。

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1930年代の神戸。美しい六甲の山裾に瀟洒な山荘風の屋敷を構え、専用の観測室と大型機材を持ち、夫婦そろって熱心に星を観測した人たち。

口径10インチが放つオーラも、女性が星を観測することの社会的意味合いも、当時と今では全く異なることにご留意いただきたいですが、何だか本当にタルホの小説に出てきそうな、いかにも浮世離れした二人です。

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そもそも萑部氏とは、どんな経歴の人物なのか?

興味は自ずとそこに向きますが、ネット上にはきわめて情報が乏しいので、図書館に行って、当時の人名録(いわゆる紳士録の類)を見てきました。さすがにこれだけの資産家ですから、その名前は載っていて、萑部氏の仕事向きのことも分かったので、日本アマチュア天文史の一断章として、簡単に触れておきます。

(この項つづく)