古星図と天文アンティーク2019年11月30日 16時14分20秒

前回触れたアンティーク望遠鏡の本ですが、著者のウォルフ氏から、「配本が大幅に遅れるよ」と連絡がありました。例のメーリングリストの影響か、注文が重なって在庫払底の由。

紙であれ、電子であれ、レファレンスブックというのは、いつの世も有用なもので、関心領域のそれは、手元に置いて、いつでも参照できるようにしたいものです。ウォルフ氏の本が在庫切れとなったのも、そう思う人が世界には依然たくさんいる証拠でしょう。

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ときに、レファレンスブックで思い出しましたが、今から7年前に(…と自分で書いてビックリ。もうそんなになるんですね)、星図蒐集の参考書を取り上げました。

■改めてアンティーク星図の話(3)…収集の手引書

そこで取り上げたのが、Nick Kanas(著)『STAR MAPS: History, Artistry, and Cartography』(Springer)です。リンクした記事で書いたように、この本は初版が2007年、初版改訂版が2009年、そして第2版が2012年に出ています。

今年、その第3版がついに出ました。かなりニッチな本のわりに、よく売れているのは、この分野でしっかりした参考書を求める人が多いことを示しています。

(『STAR MAPS』第3版)

第3版刊行の意図と、それ以前の版との違いは、冒頭におかれた「第3版への序」でカナス氏自身がこう書いています(以下適当訳。改行は引用者)。

 「〔…〕さて、今や第3版を出すべき時だ。

この第3版は、前の版に対して、多くの重要な変更や追加が行われている。まず多くの読者の要望に応え、今回はハードカバー版とし、耐久性が増した。さらにカラー図版を巻末の別項にまとめるかわりに、本文と一体化した。

また、「第11章 地上及び天空の絵地図」及び「第12章 美術絵画における天空のイメージ」という2つの新章を加え、さらに5点の図版を鮮明なものに差し替え、54点の図版を新たに加えた。そのうち20点は第11章、28点は第12章に配し、その他何点かの図版を、先行する各章に配した(すなわち図4.9、6.4、6.5、8.61、8.62、8.63)。そして、第2版出版後に公刊された情報を反映して、新たな参考文献を83点追加するとともに、本文中でもそれに対応するアップデートを行った。また新たな節として、大航海時代がもたらした新星座に関する「4.3.4 イスラム世界への影響」と、「8.7.6 口絵のコスト削減の手立て」が加わっている。最後に本文全体を見直し、誤植を訂正し、表現をより明確かつ詳細にした(特にイスラムとビザンツの章と、「8.1 天球儀とゴア」〔ゴアは天球儀用船形星図のこと〕)。

総じて、読者の便と理解向上を図るため、本書は多くの点が新しくなっている。
ぜひご一読を!」 

…というわけで、カナス氏はなかなか意気盛んです。

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あくまでもパラパラ見ただけの感想ですが、本書の内容増補のあり方が、なかなか興味深くて、それはカナス氏の蒐集対象の拡大が、日本の天文アンティーク趣味の外延(ちょっと強気に出れば、私自身の興味の広がり)をなぞっているように感じられたからです。

これは強調されねばなりませんが、日本で「天文アンティーク」と総称されるアイテム群を指す言葉は、英語にはありません(フランス語にもドイツ語にもないでしょう)。それを指す言葉がないということは、それに対応した概念もないということです。

日本で「天文アンティーク」というと、堂々たる古星図あり、天文古書あり、真鍮製の望遠鏡あり、星座早見あり。さらには、ペンダントやブローチ、シガレットカードに切手、絵葉書、ピンバッジといった小物類にまで及びます。そのモチーフも、正統派天文学史の遺品もあれば、月や星、コメットを洒落たデザインに落とし込んだアクセサリーもあり、宇宙開発ブームのなごりの品もあるという具合で、その範囲ははなはだ広いです。

我々は、それを「天文アンティーク」と総称して怪しみませんが、でも異国の人には、かなり奇異に感じられる嗜好だと思います。天文アンティークとして売買されるのは、主に異国の品ですが、その異国の品々から紡がれた「天文アンティーク」という概念は、あくまでも日本生まれのものであり、ひょっとしたら、将来「TEMMON-ANTIIKU」という言葉が、外来語として英語の辞書に載るんじゃないかと思えるほどです。

この辺の事情は、日本の漫画やアニメが、“comic”や“cartoon”、“animation”ではなく、あくまでも「MANGA」や「ANIME」として言及されるのに似ています。そして、フランスを舞台とした「ベルばら」に、今度はフランスの人が憧れ、コスプレイヤーとして来日するなんていう「ねじれ現象」が、天文アンティークの世界にも起こるんじゃないか…ということを、カナス氏の本を読んで感じました。

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カナス氏の本も、最初は普通の古星図の解説書でした。

15世紀、16世紀、17世紀と、世紀を追うにつれて、より精緻に、より大量に作られるようになった美麗な星図の歴史をたどり、さらに18世紀、19世紀、20世紀に至る星図たちを、その作者とともに総まくりした内容だったのです。

しかし、そうした古星図に一通り馴染んだあとも、カナス氏のコレクション欲が衰えることはなく、新天地を求めて、さらに多方面に触手が伸びていきました。コレクターにはありがちなことだし、私も大いに共感を覚えます。

氏の関心は、天球儀やアストロラーベ、星座早見、ヴォルヴェル(回転盤)を備えた天文古書へと広がり、まあ、ここまでは星図のお仲間といえますが、さらに星図以外の天文測器の古図とか、さらには天体を描いた現代絵画やフォークアート、バック・ロジャースのコミックポスター、古い果物ラベルや切手、カード類まで手を出すに及んで、ついに氏は日本の天文アンティークの徒と一味同心となったのです。

(左は2017年の日食記念切手(アメリカ)、右は1964年発行のソ連の人工天体切手)

そして、第12章第5節「Children’s Art(児童画)」では、自身のお孫さんの作品も登場して、天文アートの本質が大いに語られるのですが、ここまでくると、私もちょっとポカーンとするところがなくもありません。

(右がお孫さんのネイサン君で、この絵も当然カナス・コレクションの一部。)

この勢いで増補が繰り返されると、第5版が出るころには、快著がすっかり怪著化する可能性もあって、それはそれで大いに楽しみです。

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ちなみにカナス氏の本業は医学者。氏は少年時代から望遠鏡で星を覗くことと、古地図が好きでした。大人になってから、たまたまロードアイランドのアンティーク屋で、フラムスティード星図のバラ物を2枚購入し、さらにその数年後、大英博物館で星図展を見たことがきっかけで、氏の2つの興味関心が同時に火を噴き、氏はすっかり古星図のとりことなり、あとは蒐集まっしぐら―。

そうした経歴も大いに共感できるし、勝手に同志意識を抱いてこの本を読むと、いっそう興が深まります。

ある望遠鏡コレクションの話2019年11月24日 07時58分56秒

ちょっと気鬱になった話。
…と言って、話の発端は別に気鬱でもなんでもありません。ごく普通の話題です。

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Edward D. Wolf 博士という、かつてコーネル大学でコンピュータ工学を教えた先生がいます(現在は名誉教授)。科学の最先端を歩んだウォルフ博士は、同時にアンティーク望遠鏡の熱心なコレクターでもあり、18~19世紀の中~小型機材を中心とする、そのすぐれたコレクションは、博士のサイトを一瞥しただけで溜息が漏れるほどです。


■Wolf Telescopes ― A Collection of Historical Telescopes

黄金を欺く、まばゆい真鍮の輝き。
この平和な砲列は、過去のスターゲイザーの優美な営みを、遺憾なく伝えてくれます。(昔も今も星をきっちり観測することは大変ですから、本当はそれほど優美な営みではなかったかもしれませんが、少なくともその姿はたいそう優美です。)

昨日小耳にはさんだ話題は、そのコレクションの全容を伝えるハードカバーの立派な本が編まれていて、今なら85ドルの特別価格で購入できるよ…という耳より情報でした。それは上記サイトのサブページに説明されており、購入ページは以下。

■Wolf Telescope Collection Book

日本までの送料が50ドルというのが一寸痛かったですが、背に腹は代えられません。さっそく一冊注文しました。あとは本の到着を待つばかり。

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…と、ここまでは良いのです。
ちょっと気鬱になったというのは、ウォルフ・コレクションが、すでにウォルフ氏の手元を離れ、昨年一括して外国のプラネタリウムに買い上げられたことを知ったからです。

購入したのは中国の北京天文館。1957年にオープンし、2004年にガラス張りのモダンな新館ができた同館のことは、以前もちらっと書きました【LINK①】【LINK②】。

(北京天文館 新館)

でも、メーリングリスト情報によれば、ウォルフ・コレクションはプラネタリウム本館ではなく、今は同館が運営する「旧・北京観象台」に、他の天文測器類と一緒にズラッと展示される予定だそうです。ウォルフ・コレクション自体は、中国天文学史とは直接関係ないわけですが、北京プラネタリウムは、天文学史の包括的なビジュアル展示を狙っているようで、そこに潤沢な予算が回っているのでした。

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「気鬱」と言ったのは、別に私がいわゆる嫌中思想から、中国に優れたコレクションが渡ったことを憤っているからでは無論ありません。

むしろこの出来事によって、日本の現状が逆照射されたからです。
位相は異なりますが、日本にも望遠鏡愛にあふれた「天体望遠鏡博物館」LINK】があり、熱心な収集・保存・展示活動が行われています。しかし、それはあくまでも民間の篤志と熱意に支えられた活動です。

あけすけに言って、中国の振る舞いには「金に飽かせて…」の色彩がなくもありません。それをケシカランと言うのは簡単ですが、我がニッポンには既にその金がないのです。そう、文化にかけるお金が―。仮にウォルフ・コレクション売却の話が、最初に日本に持ち込まれていたとしても、それに応える機関や組織は、きっとなかったでしょう。私が気鬱に思うのは、そのことです。

まあ、いつの時代にも、どこの国にも、「文化で腹がふくれるか!」と豪語する人はいるので、今の日本が特別ひどいということもないのかもしれませんが、それにしたって日本国が貧困の淵に沈みつつあり、ここに来て貧すれば鈍する現象があちこちで目に付くようになったのは、否定のしようがありません。これはいつもの「アベガー」的主張ではなくて、たぶん誰が政治のかじ取りをしても、この傾向に歯止めをかけることは難しいでしょう(だからといって、安倍氏の非行が免罪されるわけではありません)。

まあ、事がアンティーク望遠鏡だけならば、そう目くじらを立てなくても良いのですが、これが真善美に関わる学芸全般のこととなると、その影響は計り知れません。やっぱり気鬱だし、侘しいです。

師走の空の下、星の音楽会へ2019年11月23日 11時02分24秒

暦は霜月、そして二十四節気だと「小雪」を迎えました。
今年もあとひと月ちょっとですね。

ブログを書かなくても日常生活に支障はないので、何かきっかけがないと、なかなか再開のモチベーションが湧かないのですが、クリスマスを控えた師走の街に、ちょっと素敵な彩りを添える催しがあるので、ご紹介します。

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■プラネタリウムコンサート2019 ~ヴィオラと星めぐりの夜~

〇日 時  2019年12月15日(日)  18:30~20:00 (開場18:10~)
〇会 場  かわさき宙と緑の科学館 プラネタリウム
         川崎市多摩区枡形 7-1-2
         最寄駅 小田急線・向ヶ丘遊園駅(徒歩15分) ※バス便あり
○出 演  ヴィオラ・多井千洋氏、 ピアノ・萩森英明氏
○観覧料 全席自由、1,000円/名
○公式サイト(リンク先から申し込み可)

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まさに「星尽くし」の音楽会です。

予定されている演奏曲目は、シューベルトの『双子の星に寄せる舟歌』、メキシコのマヌエル・ポンセ(1882-1948)の『エストレリータ(小さな星)』、前衛音楽で知られたジョン・ケージの『黄道星図(Atlas eclipticalis)』、尾上和彦作曲、 無伴奏ヴィオラ詩曲『よだかの星』(宮沢賢治『よだかの星』の朗読付き)…などなど。

そして、注目すべきは、ウィリアム・ハーシェルによる『ヴィオラとオーケストラのための協奏曲ニ短調』です。

楽譜には「メイドストーン、1759」の注記がされており、1759年といえば、ハーシェルがまだ二十歳そこそこの青年音楽家として、北イングランドの地方軍楽隊の隊長をしていた時期。楽譜が残っている彼の作品としては、最も古いものの一つです。(ちなみにメイドストーンはケント州の州都で、この曲が作曲された場所を示します。ハーシェルはドイツ出身者で、1756年に渡英したのですが、最初に身を置いたのがメイドストーンの町で、彼はここで必死に英語の勉強をしたというエピソードもあります。)

(William Herschel(1738-1822)、1785年の肖像)

ハーシェルが天文学に目覚め、音楽家として活動するかたわら、望遠鏡作りにのめり込んだのは、1770年代に入ってからですから、1759年に書かれたこの作品に、直接「星の光」の片鱗をうかがうことはできません。しかし、いわばその才気そのものが「地上の星」であり、その人生行路の先に、無限の宇宙が開けていたのだ…と思いながら、その音楽に耳を傾けるのは、大いに興あることです。

そもそも、ハーシェルの天文学志向は、数学者であるロバート・スミス(1689-1768)の『和声楽』と『光学』を手にしたことに端を発しており、彼の中では音楽と天文学が、数学を介してつながっていました。ハーシェルは情熱の人であると同時に「理の人」でもあり、1759年においても、そうした性向は変わらなかったでしょう。

(スミスの『光学』(1738)、冒頭)

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ハーシェルに文字数を費やしましたが、今回この催しを知ったのは、当日のヴィオラ奏者である多井千洋さんから、日本ハーシェル協会に対して、この曲の楽譜の所在のお問い合わせがあったことがきっかけでした。

(ハーシェル作曲『ヴィオラとオーケストラのための協奏曲ニ短調』楽譜、部分)

遠隔地の悲しさで、私は伺うことができませんが、コンサートに行かれた方々が、若き日のハーシェルのことをチラッと思い浮かべていただければ、ハーシェル協会員として、とても嬉しく思います。

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地上の営みはいつだって苛烈です。
その一方で人々は常に天上に憧れ、ある人はそこから宗教的観念をつむぎ、またある人は叡知を傾けた学理を築き上げ、またある人はそれを音楽で表現しました。

2019年現在の世界も、苛烈な世界であることにかけては、なかなかのものです。
だからこそ、いっとき天上の音楽に耳を傾け、人間と宇宙の運命に思いを巡らすことは、少なからず意味があります。しかも「救い主」と呼ばれた人物の降誕も近い、師走の夜長なのですから、まさに沈思するにはもってこいです。

大きな家、小さな家2019年10月12日 08時03分23秒

すっかり沈黙していますが、以前も書いた自宅の改修は依然続いていて、来週から屋根と外壁の塗装に入ります。台風が迫る中、急いで組んだ足場がもつかどうか、若干心配です。

この間の心模様を書くと、いろいろ荷物を整理する中で、押入れの奥から昔買った皿とか、江戸おもちゃとかを発掘して、それらを見ているうちに、だんだん和の世界に魅かれて、天文趣味は脇に置いて、このところ和骨董ばかり見ていました。そんなわけで「天文古玩」もお休みでしたが、あまり脇道に入っても、“虻蜂取らず”になるので、またこちらの世界に戻ってこなければなりません。

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さて、自宅の改修といえば、今日驚きの話題に接しました。

誰の自宅かといえば、学者一家としてのハーシェル家2代目、ジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel, 1792-1871)のそれです。彼の旧居「コリングウッド・ハウス」が、現在売りに出ていて、その不動産広告を見ると、外部は昔のままですが、内部はだいぶリノベーションされていて、いろいろな意味でスゴイと思ったのでした。

Peter Broughtonさんによる、天文学史のメーリングリストへの投稿文を、そのまま適当訳して転載すると―

 「皆さん、こんにちは。皆さんの中で、ポンと400万ポンド出せる方はいらっしゃいませんか?どうやらジョン・ハーシェル卿の家、「コリングウッド」が、売りに出ているようなのです。以下をご覧ください。
 https://fivestar.ie/luxury-property-sales/collingwood-house/
あるいは、“Collingwood Hawkhurst Kent”でググっていただければ、より詳細がお分かりになるでしょう。まあ、この大邸宅を買うというアイデアを、現実のものと考えるかどうかはともかく、ヴァーチャルツアーだけでもお楽しみください!」

(上記リンク先ページより)

いやあ、繰り返しますがスゴイですね。
400万ポンドというのは、グーグル曰く、今日現在のレートで5億4,839万円なり。
もちろん絶対的には高いですが、モノの価値を考慮した場合、相対的には安いのかもしれません。せめて5億円値引いてくれたら…、さらに4千万円値引いてくれたら、ローンを組んでもいいと思いました。

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しかしですね、この広壮な館とみすぼらしい我が家を比較した場合、私にとっては、やっぱり我が家の方がくつろげるし、愛着が持てるというのが話の味噌です。それは、私がジョン・ハーシェルになりたいか?と聞かれれば、やっぱり今の私のままでいたいと思うのと同じです。たとえみすぼらしくても、我が家も、私という人間も、私自身がこれまでいろいろな選択を重ねて作り上げた、かけがえのない存在だからです。

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なお、コリングウッド・ハウスの来歴については、日本ハーシェル協会のサイトに紹介記事があります。

■ハーシェル関連史料:コリングウッド、むかしといま


蝉の世、人の世2019年08月31日 08時35分50秒

俳句の季語でいう八月尽(はちがつじん)、今日で8月も終わりです。

今年の夏も猛暑続きでしたが、個人的に気になったのは、「今夏はツクツクボウシが聞かれない」という事実。いつもだと、甲子園の決勝が終わる頃から、その盛りになって、晩夏を惜しむ気持ちが募るのですが、今年は今に至るまで至極まばらです。

これは「13年ゼミ」みたいに、ツクツクボウシの発生にも周期性があって、当たり年とそうでない年があるせいかな…と、思ったのですが、下のページを拝見すると、ツクツクボウシの幼虫期間は1~2年と短く、そもそも日本に周期ゼミはいないそうなので、上の考えは当たっていません。ひょっとして、ツクツクボウシの生息数そのものが減っているのかもしれず、これは来年もよく観察せねばなりません。

■村山壮吾氏「蝉雑記帳」:3と4の偶然(「素数ゼミへの反論」)

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さて、陋屋の改修が来週から本格的に始まります。

もちろん意図しての断捨離はしないんですが、この機会に多少物を減らすことを迫られています。そういう目で見ると、たとえば蒐集の初期に手に入れたモノたちは、今の目で見ると選択の基準が甘いので、彼らがまず「首切り」の候補に挙がってきます。でも、彼らこそ草創期から私の周囲を彩ってくれたモノたちであり、付き合いも長いので、そうバッサリ切ることもためらわれます。まあ、「糟糠の妻」みたいなものですね。

そんなこんなで、他人から見ればどうでもよいことに心を悩ませつつ、今年の秋を迎えます。

 法師蝉 不語禅定の 八月尽  玉青


アルカーナ2019年08月24日 18時10分51秒

家の改修やら何やらゴタゴタしているので、ブログの方はしばらく開店休業です。
そうしている間にも、いろいろコメントをいただき、嬉しく楽しく読ませていただいています。どうもありがとうございます。

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しかし、身辺に限らず、世間はどうもゴタついていますね。

私が尊敬する人たちは、人間に決して絶望することがありませんでした。
これは別に、偉人伝中のエライ人だからそうというわけではなくて、どんなに醜悪な世の中にも善き人はいるし、どんなに醜悪な人間の中にも善き部分はある…という、至極当たり前のことを常に忘れなかったからでしょう。(その逆に、どんなに善い世の中、どんなに善い人であっても、醜悪な部分は必ずあると思います。)

私も先人のあとを慕って、絶望はしません。
まあ、絶望はしませんが、でもゲンナリすることはあります。
醜悪なものを、こう立て続けに見せられては、それもやむなしです。
それに、このごろは<悪>の深みもなく、単に醜にして愚という振る舞いも多いので…とか何とか言っていると、徐々に言行不一致になってくるので、この辺で沈黙せねば。

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本棚の隅にいる一人の「賢者」。
彼が本当に賢者なのか、あるいは狂者なのかは分かりません。突き詰めるとあまり差がないとも言えます。今のような時代は、こういう人の横顔を眺めて、いろいろ沈思することが大切ではないか…と思います。

その人は、医師にして化学者、錬金術師でもあったパラケルスス(1493-1541)

写真に写っているのは、オーストリアのフィラッハ市が1941年、パラケルススの没後400年を記念して鋳造した、小さな金属製プラーク(銘鈑)です。フィラッハは、パラケルススが少年時代を過ごした町であり、郷土の偉人をたたえる目的で制作したのでしょう。

上の写真は、プラークを先に見つけて、あとからちょうどいいサイズの額に入れました。どうです、なかなか好いでしょう。

(プラークの裏面。購入時の商品写真の流用)

(仰ぎ見るパラケルスス)

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本棚ではたまたまユングの本と並んでいますが、ユングにはずばり『パラケルスス論』という著作があります。

(榎木真吉・訳、『パラケルスス論』、みすず書房、1992)

原著は1942年に出ており、内容は前年の1941年、すなわち手元のプラークが制作されたのと同年に、やっぱりパラケルススの没後400年を記念して、ユングがスイスで行った2つの講演(「医師としてのパラケルスス」と「精神現象としてのパラケルスス」)を元に書き下ろしたものです。

しかし、本書を通読しても、ユングの言っていることは寸毫も分かりません。
したがって、パラケルススその人のこともさっぱりです。

 「パラケルススは、〈アーレス〉に、≪メルジーネ的≫(melosinicum)という属性を与えています。ということは、このメルジーネは疑いもなく、水の領域に、≪ニンフたちの世界≫(nymphididica natura)に、属しているわけですから、≪メルジーネ的≫という属性に伴って、それ自体が精神的な概念である〈アーレス〉には、水の性格が持ち込まれたことになります。このことが示唆しているのは、その場合、〈アーレス〉とは、下界の密度の高い領域に属するものであり、何らかの形で、身体ときわめて密接な関係にあるということです。その結果として、かかる〈アーレス〉は、〈アクアステル〉と近接させられ、概念の上では、もはや両者は、ほとんど見分けがつかなくなってしまうのです。」
(上掲書 p.132)

私が蒙昧なのは認めるにしても、全編こんな調子では、分れという方が無理でしょう。
しかし、こうして謎めいた言葉の森を経めぐることそれ自体が、濁り多き俗世の解毒剤となるのです。そして、私が安易に世界に対して閉塞感を感じたとしても、実際の世界はそんなに簡単に閉塞するほどちっぽけなものではないことを、過去の賢者は教えてくれるのです。

100年前、8月の空を彗星が飛んだ2019年08月19日 10時33分52秒

ちょっと素敵な品を見つけました。
明治時代に刷られた天文モチーフの絵葉書です。


地上の黒々としたシルエットは、こんもりと茂る木々に火の見梯子と電信柱、大きな屋根は村のお堂でしょうか。これは紛れもなく日本の風景です。そして、その上に広がる紺色の空と白い星、刷毛ではいたように飛ぶ彗星。

19世紀後半以降、ヨーロッパではギユマンの『Le Ciel』をはじめ、星景画の傑作がたくさん生まれましたが、明治の日本でも、こんなに美しい作品が描かれていたのですね。これは嬉しい発見。


キャプションを見ると、「明治40(1907)年8月20日、午前3時の東の空」だと書かれています。

薄明を迎える前のこの時刻、西の地平線では巨大な白鳥がねぐらへと急ぎ、頭上にはアンドロメダが輝き、そして東の空にはオリオンとふたご座がふわりと浮かんでいます。8月の空も、夜明け前ともなれば初冬の装いです。

絵師はK.Oonogi(大野木?)という人ですが、伝未詳。当然、外国書も参照したでしょうが、それを日本に移植して、詩情あふれる一幅の絵にしたのは、相当の絵ごころ、星ごころを持った人だと思います。(「オリオン座」を「オリオン宮」とするのは変だし、英語キャプションの「STER」もスペルミスでしょうが、この際それは些事です。)

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ところで、今から112年前のちょうど今頃見られた天体ショーの主役である、この美しい彗星。


これは、米国のザキアス・ダニエルが、1907年6月9日に発見した「ダニエル彗星 C/1907 L2(Daniel)」です(日本語版ウィキペディアで「ダニエル彗星」を検索すると、彼が1909年に発見した“33P/Daniel”しか出てきませんが、ここに登場するのはその2年前に発見されたもの)。

発見後にぐんぐん光度をあげて、7月中旬には4等級となり、肉眼でも見えるようになりました。さらに8月初めには3等級となり、15度という長大な尾――これは満月を30個並べた長さです――を引いた姿が、夜明け前の東の空に眺められました。そして9月初めには、尾の長さこそ短くなりましたが、最大光度2等級に達したのです。(この件はなぜか英語版Wikipediaには記述がなくて、上記はドイツ語版を参照しました)

数多の大彗星の前では、ちょっと影が薄いですが、それでもここまでいけば大したものです。

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以下、余談。

現代の星景写真は、主に雄大な大自然の中で見上げる星空を取り上げており、「人間生活と星たちの対比」という視点は薄いように思います。でも、かつての星景画を見たとき、最も胸に迫るのは、「転変する人の世と常に変わらぬ星空」という普遍的なテーマです。都会地で星を撮るのは大変だとは思いますが、ぜひ現代のデジタル撮像と画像処理技術を駆使した、現代のギユマン的作品に接してみたいです。

蛍光と蛍石の話(その3)2019年08月18日 08時37分01秒

(昨日のつづき)

論旨を補強するため、もう一冊明治の本を挙げておきます。


こちらは、和田の本のさらに4年前に出た、松本栄三郎『鉱物小学』(錦森閣、明治15年(1882)再版)です。この本には種本があって、スコットランドのJames Nicol(1810-1879)の『Elements of Mineralogy』(初版1858)を編訳したものです。

(上掲書第27丁「蛍石」の項)

この本は、鉱物名が未確立だったことを反映して、石脳油(クサウヅノアブラ)とか、石英(メクラズイセウ)とか、ほかにも雲母(キララ)長石(ボサツイシ)緑泥石(チチブアヲイシ)など、漢字の脇に古めかしいルビを振っています。そして、この本でも「蛍石」はやっぱり「ホタルイシ」ですから、これが日本に昔からあった名前である傍証になります。

注目すべきは、文末に産地として「豊後・美濃等」が挙がっていること。

同書の産地記載は、琥珀は「陸前、陸中等」、辰砂は「大和、紀伊等」、雲母は「岩代、近江、三河其他所々」…などとあって、近時のものではなく、古来の産地のように読めます。少なくとも明治の初めには、蛍石の産地と見なされる鉱床が見つかっていたことは確かです。

蛍石が江戸時代にも産した(天然自然に存在するばかりでなく、人の手で採掘が行われていた)ことをうかがわせるものとして、シーボルト(及び彼の同行者、ハインリッヒ・ビュルガー)が、日本産鉱物種を記載した資料中に、「Flussspath」(蛍石)が出てくることが挙げられます(文献1)。

オランダ商館員のシーボルトらが、各地の山間深く分け入って、自由に鉱物を採集できたはずはないので、これも同時代の日本人が掘ったものが、彼らの手に渡ったのでしょう。

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その後、明治から昭和にかけて、工業化の進展とともに蛍石の需要はますます高まり、あまりにも掘られすぎたせいで、ついに国内鉱山からは枯渇し、姿を消します。

岡野武雄氏の論文(文献2)を読むと、「日本で蛍石は1972年迄採掘され、その最盛期は1963年(2.1万t)であった。日本の蛍石はほぼ掘り尽くされたといってよい。〔…〕国内からは今後も採掘可能な鉱床の発見される可能性は乏しい」とあります(p.30)。

1980年代以降、今に至るまで、蛍石は全量を輸入に頼る状態が続いています。

その使途は、当然のことながら、ほぼすべて工業用で、岡野氏が挙げる1981年現在の状況は、「1981年の蛍石の輸入量は43万tで、中国(60%)、タイ(20%)、南ア(18%)などから輸入されている。輸入蛍石の主要な仕向先は、製鋼用18万t、弗化物用(弗酸など)12万t、アルミ精錬用3万tなど」でした(同)。

最近、韓国ともめた高純度の「フッ化水素」も元は蛍石が原料です。(フッ素の「フッ(弗)」も、大元は「フローライト」の「フ」であり、猛毒の弗素を相手に、かつて多くの科学者が犠牲になったことを、今回知りました。)

(英・ロジャリー鉱山産)

可憐な「ほたる石」も、なかなか可憐の一語では済まないものがあります。

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以上、勢い込んで調べ始めたわりに、さっぱり分からないことばかりですが、でも、「分からないということが分かる」ことも大事ですし、こうやって疑問を形にしておけば、いつか『諸国産物帳』とか、江戸時代の本草書や地誌の中から、蛍石の名がひょいと見つかることもあるでしょう。

(この項おわり)

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文献1) 田賀井篤平 「江戸時代の鉱物認識とシーボルト」
東京大学コレクションXVI「シーボルトの21世紀」所収
※蛍石は「石類」の26に登場。

文献2)  岡野武雄 「日本の工業原料としての非金属鉱物 (2)」
「地学雑誌」92-6(1983)、pp.22-38.

蛍光と蛍石の話(その2)2019年08月17日 08時55分21秒

蛍石の人気は、色・形・透明感の3拍子が揃っていることに加えて、「ほたる石」という名前の可憐さも一役買っているでしょう。その名前をめぐって、さらにメモ書きを続けます。

(様々な蛍石。中央は中国湖南省の黄沙坪鉱山産。八面体は、米・ニューメキシコ州、同イリノイ州産)

そもそも、「蛍石」という名前はいつからあるのか?

この点を考えるのに、一つ重要な資料があります。それは以前、「天河石(アマゾナイト)」の由来を調べたときにも参照した、ヨハンネス・ロイニース(著)、和田維四郎(訳)の『金石学』(文会舎、明治19年<1886>)です。

和田はこの本を訳すにあたって、鉱物の名称について、意訳したり、直訳したり、音訳したり、いろいろ苦労してネーミングしています。そして、それが現在の鉱物和名の基礎となっているので、鉱物名の由来を調べるときには、真っ先に参照すべき本です。

さて、同書で蛍石はどうなっているか?

(国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831991
 から第257~258丁(コマ番号141~142)を合成)

結論からいうと、「蛍石」はそうやって明治に生まれた新名称ではありません。昔から日本で使われた「和名」だと、和田は記しています。(彼はそれとは別に「コウ灰石」(コウは「行」の中央に「黄」)という意訳を考えましたが、これは普及しませんでした。文意をたどると、コウは今の弗素のことらしく、今風にいえば「弗灰石」です。)

ということは―。
「蛍石」の称は少なくとも江戸時代にさかのぼるものであり、しかも江戸時代の人は、蛍石という鉱物を知っていたばかりでなく、その発光現象も知っていたことになります(そうでなければ、唐突にホタルを持ち出すことはないでしょう)。

   ★

「へえ」と思う一方、でも、そんなに印象的な名前を持った石なら、江戸時代の書物にもっと出てきてもよさそうなのに、江戸の大百科事典『和漢三才図絵』にも、当時の代表的な鉱物誌である『雲根志』にも、蛍石の名を見つけることができないのが、ちょっとモヤモヤする点。

そんな次第なので、江戸時代の蛍石が、すでに工業的に利用されていたのか、あるいは単なる飾り石としての扱いだったのか、そういう基本的なことも今のところ不明です。

(蛍石。メキシコ産)

(この項さらにつづく)

蛍光と蛍石の話(その1)2019年08月16日 21時09分41秒

ところで、「蛍光」という言葉。

エネルギーの供給を受けて励起状態となった物質が、再び基底状態に戻る際に発する光、それが「蛍光」です。何か言われて頭に血の上った人が、冷静さを取り戻す際、頭蓋から赤外線を放出する…かどうかは知りませんが、まあ、そんなイメージでしょう。

蛍光の学理は私の手に余るので深入りせず、ここでは、「蛍光(フローレッセンス)」や、その元になった「蛍石(フローライト)」という<言葉>にこだわってみます。

   ★

「蛍光」という言葉は、文字通り「ホタルの光」ですから、あのホタルのお尻の光に由来する言葉だろうと、私は何の疑問も抱かずにいました。

(ホタル。ウィキペディア「ホタル」の項より)

でも、改めて考えてみると、「蛍光」は、「フローレッセンス(fluorescence)」を訳したもので、それは「フローライト(fluorite)」に由来する言葉です。

なるほど、たしかに「蛍石」という日本語は、ホタルに由来するのでしょう。
でも、「蛍光」の方は、直接ホタルから来ているわけではありません。「フローライトが発するからフローレッセンス」であり、「蛍石が発するから蛍光」なのです。つまり、「蛍光」という言葉は、本来「蛍石光」とでも書かれるべきところを、はしょって「蛍光」としているわけです。

(紫外線に照らされて蛍光を発する蛍石(下)。上は白色光で見たところ。ウィキペディア「蛍光」の項より)

ちなみに、「フローライト」の方は、英語の「flow (流れる)」と同根のラテン語から来ており、鉱石を加熱精錬する際、フローライトを融剤として加えると、不要成分が“溶けて流れ出る”ことに由来するそうです。要するに、西洋語のフローライトは、ホタルとは縁もゆかりもない言葉です。それを「蛍石」と呼び、そこから「蛍光」という語が生まれたのは、あくまでも日本独自の事情によるものです。

そうなると「蛍石」という日本語が、いつどこで生まれたかに、興味の焦点は移ってきます。

(この項つづく)