おらがコペルニクス2021年08月22日 11時08分58秒

ときに、昨日の写真撮影の小道具に使った絵葉書に目を向けてみます。


写っているのはもちろんコペルニクスです。
キャプションには「ニコラウス・コペルニクス 1543-1943 没後400年」とあって、これは同年(1943)発行された記念絵葉書です。そして上部には、同じ年に発行された記念切手が貼られ、彼の命日(5月24日)にちなんで、1943年5月24日の消印が押されています。こういう「葉書・切手・消印」の3点セットの記念グッズを、郵趣界隈では「マキシムカード」と呼ぶのだとか。

コペルニクスはポーランドの国民的英雄なので、その銅像は首都ワルシャワとか、トルンとか、あちこちにあるのですが、上の絵葉書は彼が学生生活を送ったクラクフの町にある銅像です。

(バルーンの位置がクラクフ)

背景は彼の母校、ヤギェウォ大学(クラクフ大学)のコレギウム・マイウスの中庭。ただし現在、像はそこにはなくて、戦後の1953年に、同大学のコレギウム・ウィトコフ正面にあるプランティー公園に移設されました(LINK)。

(現在のコレギウム・マイウス中庭。中央下の水盤?みたいな所に、かつて像が立っていました。ウィキペディアより)

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コペルニクスは後世に、もめ事の種を2つ残しました。

1つは言うまでもなく地動説です。これで世界中は大揉めに揉めました。
もう1つはコペルニクス自身のあずかり知らぬことで、揉めた範囲も局地的ですが、「コペルニクスはドイツ人かポーランド人か」という問題です。

上の絵葉書の消印を見て、その論争を思い出しました。


そこにははっきりと、「ドイツ人天文家(des Deutschen Astronomen)没後400年」と書かれています。消印の地は地元クラクフ(Krakau)なのに何故?…というのは愚問で、1943年当時、ここはドイツ軍の占領地域でした。しかも、ナチスのポーランド総督は、ここクラクフを拠点にして、領内に目を光らせていたのです(Krakauはクラクフのドイツ語表記です)。

ですから、ポーランドの人にしてみたら、このマキシムカードは忌むべき記憶に触れるものかもしれません。

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民族意識というのはなかなか厄介です。

日本語版ウィキペディアのコペルニクスの項(LINK)は、

 「19世紀後半から第二次世界大戦までのナショナリズムの時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが、国民国家の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。」

とあっさり書いていますが、そう簡単に割り切れないものがあって、実際ドイツとポーランドのWikipediaを見ると、その書きぶりから、この問題が今でもセンシティブであることがうかがえます。

 「ニコラウス・コペルニクス〔…〕はプロイセンのヴァルミア公国の聖堂参事会員であり天文学者」

 「ニコラウス・コペルニク〔…〕ポーランドの碩学。弁護士、書記官、外交官、医師および下級カトリック司祭、教会法博士」

(※ポーランド語版はさらに、「この『ポーランド人天文家(Polish astronomer)』という語は、『大英百科事典』も『ケンブリッジ伝記大百科』も採用している」…という趣旨の注を付けていて、相当こだわりを見せています。)

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広大な宇宙を相手に、普遍的真理を求める天文学にとって、こういうのは些事といえば些事です。でも人間は一面では卑小な存在なので、なかなかこういうのを超克しがたいです。むしろそういう卑小な存在でありながら、ここまで歩んできたことを褒めるべきかもしれません。