夜空の大四辺形(1)2024年06月02日 10時23分20秒

「星の文学者」を日本で挙げると、野尻抱影、宮沢賢治、稲垣足穂の3人にまず指を屈することになり、この3人をかつて「夜空の大三角」と呼んだことがあります。

(宮沢賢治(1896-1933)、野尻抱影(1885-1977)、稲垣足穂(1900-1977))

■夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(1)
 (記事の方はこのあと全5回にわたって続きました)

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この3人の中で、立ち位置がちょっと異なるのは賢治です。
彼の文名が上がったのは死後のことで、生前は目立たぬ地方詩人に過ぎなかったからです。言葉を変えると、抱影と足穂が“自らの作家像を自らの手で築いた人たち”であるのに対して、賢治の作家像は、その作品を他の人たちが読み込み、銘々がそこに多様なイメージを投影した結果の集積に他ならず、その意味で「作家・宮沢賢治」という存在は、後世の人たちが共同制作したひとつの“作品”なのだと思います。

もちろん「英雄は英雄を知る」で、繊細な詩心を持った人たちにとって、賢治は独特の魅力を放つ先人たりえたと思いますが、戦中・戦後の賢治評価を虚心に見るとき、賢治が『風の又三郎』的な「ほのぼの系童話作家」や、『雨ニモマケズ』の「通俗道徳の人」として受容され、単にそれだけで終わっていた可能性も十分にあった気がします。

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賢治が天才作家の列に加わったのは、そこに有能なプロモーターが存在したからだ…というと、賢治ファンに怒られるかもしれませんが、でも、賢治の才能に惚れぬいたプロモーターの純な心と、そのプロモーションの才能もまた正しく評価されねばなりません。

そのプロモーターとして外せないのが、草下英明(くさかひであき、1924-1991)氏です。草下氏は「科学ジャーナリスト」や「科学評論家」という肩書で語られることが多く、たしかにそうには違いありませんが、氏はそれだけにとどまらない異能の人です。賢治が「星の文学者」というイメージで語られるようになったのは、明確に草下氏の功績であり、氏がいなかったら、賢治イコール『銀河鉄道の夜』とはなっていなかったでしょう。

(「星の文学者、賢治」のイメージを決定づけた草下氏の『宮沢賢治と星』。初版は1953年に自費出版され、1975年に改稿版が学藝書林の「宮沢賢治研究叢書」に収められました。右は氏の回想録 『星日記―私の昭和天文史[1924~84]』

そして、草下氏は賢治のみならず、抱影や足穂とも密な関係を保っていました。以下、氏を夜空の大三角に輔(そ)え星して、「夜空の大四辺形」と呼びたいと思います。そして、この大四辺形は単に見かけ上の配位ではなく、重力的にも緊密に結びついた四重連星を構成しているのです。

(中央が草下英明氏)

草下氏のことはすでに「夜空の大三角」の連載の折にも触れましたが、なぜその名を今再び持ち出したか? かなりずっしりした話なので、その詳細は次回に回します。

(この項つづく)