明治の竹類標本と牧野富太郎 ― 2025年02月13日 17時42分08秒
(前回のつづき)
付属の解説書は『我日本の竹類』と題されています。
製作・販売を手掛けたのは島津製作所標本部(現・京都科学)で、標本の同定を行ったのは、当時、東京帝国大学理科大学講師の地位にあった牧野富太郎(1862-1957)。
表紙に押された印によれば、この標本セットは、石川県立第一高等女学校(現・金沢二水高校)の備品だったようです。後で見るように、ここに収められた竹類は、すべて1911年に採集されたものなので、標本が作られたのも同年であり、商品として一般に販売されたのは翌1912年(明治45年)のことと思います(こう断ずるのは、牧野が東大講師に任じられたのがちょうど1912年だからです)。
(解説冊子の裏表紙)
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各標本は一種ごとに台紙に貼られ、パラフィン紙のカバーがかかっています。
収録数は全部で42種。
No.1はマダケ。
ラベルには和名、学名、採集地、採集年が記載されていますが、採集地が旧国名になっているのが古風。42種の採集年はすべて1911年で、その採集地は、北は羽後から南は日向まで、全18か国に及んでいます(最も多いのが武蔵の16点)。
他にもいくつかサンプルを見てみます。
(No.2 カシロダケ、筑後)。
(No.7 ウンモンチク、近江)
(No.16 チゴザサ、駿河)
竹類といった場合、笹もそこに含まれるので、「〇〇ダケ」や「○○チク」ばかりでなく、このような「〇〇ザサ」の標本も当然あります。(なお、「牧野と笹」と聞くと、彼が愛妻に感謝して名付けた「スエコザサ」を連想しますが、これは昭和に入ってからのエピソードなので、この標本セットには含まれません。残念。)
竹類は基本、見た目の変化に乏しく、華やかさに欠けるのは否めませんが、一方で屋根材に使われるぐらい対腐朽性が高いので、標本はいずれもしっかりしており、中にかすかな緑色まで残っているのは、感動的ですらあります。114年前の歳月をよくぞ耐えてくれた…とねぎらいたい気分です。
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これらの標本を見てもうひとつ気づくのは、牧野富太郎、あるいは牧野と僚友・ 柴田桂太 (1877-1949)の連名で記載された種や変種が大半を占めることです(全体の約8割は、牧野が命名に関わっています)。この“牧野色”の濃さは、この標本セットが種の同定作業のみならず、採集から標本作製まですべて牧野に委嘱して作られたものではないか…という推測を生みます。
もちろん、これは牧野が一人でせっせと標本をこしらえたことを意味しません。
当時の状況を吟味しておくと、明治末年の牧野は、1909年(明治42)の横浜植物会を皮切りに、東京植物同好会や阪神植物同好会を組織して、広く全国に植物趣味のネットワークを作り上げつつありました。そのネットワークを活用して全国から標本を集め、それを牧野と弟子たちが整理し、島津に提供したのではないか…というのが、私の想像です。
上の想像が当たっているとすれば、この標本セットは牧野の体温をじかに伝えるものとして、その点でも貴重なものと思います。
(この項おわり)
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【おまけ1】
参考までに、この標本セット全種の和名を、ラベルNo.順に挙げておきます。
マダケ、カシロダケ、キンメイチク、シボチク、ホテイチク、ハチク、ウンモンチク、クロチク、ゴマダケ、マウサウチク(モウソウチク)、キツカフチク(キッコウチク)、オカメザサ、ヤダケ、メダケ、ハコネダケ、チゴザサ、ネザサ、ケネザサ、スダレヨシ、オロシマチク、カンザンチク、タイミンチク、タウチク(トウチク)、ナリヒラダケ、ヤシヤダケ(ヤシャダケ)、カンチク、シカクダケ、クマザサ、コクマザサ、ネマガリタケ、シヤコタンチク(シャコタンチク)、メクマイザサ、チシマザサ、ツボヰザサ(ツボイザサ)、ミヤコザサ、ミヤマスズ、アヅマザサ(アズマザサ)、スズタケ、ホウワウチク(ホウオウチク)、ホウライチク、スハウチク(スホウチク)、ダイサンチク <以上42種>
【おまけ2】
この標本セットに、1枚だけ他と異質な標本が紛れ込んでいました。
百年前の女学生が作った押し葉。
そこには牧野の標本とはまた別のロマンが宿っているような気もします。
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