星の豆皿を手に文人を気取る2022年02月20日 09時57分33秒

気分を変えて、ちょっと風雅な話題です。
天文和骨董を探しているときに、こういう染付の豆皿を見つけました。
時代的には江戸中~後期のものと思います。

(径8.5cm)

簡略化された絵柄ですが、目を凝らすと、船で川遊びをしている上に星が出ている場面のようです。しかし、それだけ分かっても、なんだかモヤモヤした気分が続きました。

(裏面)

考えてみると、こういう品は絵柄が分かっただけでは不十分で、その文化史的背景が分かって、初めてストンと肚(はら)に落ちるものです。(例えば、“お爺さんとお婆さんが掃除をしてる絵だなあ”…と思っても、「高砂」の伝承を知らなければ、その絵を十分理解したとは言えないでしょう。)

件の皿もしばらくそんな状態でしたが、あれこれ検索しているうちに、じきにその正体が知れました。これは「赤壁賦(せきへきのふ)」をテーマにした絵だそうです。

「赤壁」とは、三国志に出てくる「赤壁の戦い」の舞台。すなわち西暦208年に、劉備と孫権の連合軍が、長江(揚子江)中流域で曹操軍を迎え撃ち、劣勢を跳ね返して勝利を収めた故地です。

そして「赤壁賦」の方は、それから800年以上も経ってから――中国は実に歴史が長いです――、宋代の文人・蘇軾(そしょく、1037-1101)が、赤壁の地で舟遊びをした際に詠んだ詩の題名です。全体は、旧暦7月16日に詠んだ前編と、同じく10月15日に詠んだ後編から成ります。

その前編の一節を、マナペディア【LINK】から引用させていただきます。
(以下、原文読み下し現代語訳の順)

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壬戌之秋、七月既望、蘇子与客泛舟、遊於赤壁之下。 
清風徐来、水波不興。 
挙酒属客、誦明月之詩、歌窈窕之章。 
少焉、月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。 
白露横江、水光接天。

壬戌(じんじゅつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて、赤壁の下に遊ぶ。 
清風徐(おもむろ)に来たりて、水波興(おこ)らず。 
酒を挙げて客に属(すす)め、明月の詩を誦(しょう)し、窈窕(ようちょう)の章を歌ふ。 
少焉(しばらく)にして、月東山の上に出で、斗牛の間に徘徊す。 
白露江に横たはり、水光天に接す。

1082年の秋、7月16日、私は客人とともに舟を浮かべて赤壁の辺りで遊びました。 
すがすがしい風がゆっくりと吹いてきましたが、水面には波がたっていません。 
酒をあげて客人に勧め、「名月」の詩を唱えて、「窈窕」の詩を歌いました。 
しばらくして、月が東の山の上に出て、射手座と山羊座の間を動いていきます。 
きらきらと光る露が川面に広がり、水面の輝きは(水平線の彼方で)天と接しています。
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まさに清遊。当時の蘇軾は政争の果てに、左遷というか、事実上流罪の身でしたが、それだけに気の置けない友人との交流や、偽りのない自然の美しさに、一層感じるものがあったのでしょう。

ここで、「斗牛の間」というのが、天文史的に興味深いです。
これは、中国天文学でいう二十八宿のうちの「斗宿」「牛宿」を指します。二十八宿は天空全体を経度(赤経)に基づいて28に区分する座標システムで、これに従うと、月は毎日1つずつ隣の宿へと移動し、28日間でぐるっと天球を一周する計算になります。そして、これを黄道十二星座に当てはめると、今宵の月はいて座とやぎ座の間を移動中だ…と蘇軾は詠っているわけです。

   ★

この皿は雑器の類でしょうけれど、そんなところにまでこうした絵柄が登場するところに、江戸の文人趣味や中国趣味――いわば「江戸のハイカラ趣味」――の隆盛をうかがうことができます。「赤壁賦」は古来愛唱されたので、当時の識字層は、こうした器物を見ても、それが何なのかすぐに分かったのでしょう。

やむを得ないこととはいえ、こういう素養は、現代の我々にはうまく引き継がれませんでした。かくいう私にしても、最初はポカーンとしていたので、大いに恥じています。でも、天文和骨董というごく狭い切り口からでもその一端を覗き見て、文人の気分を味わえれば、それはそれで意味があることと思います。

星めぐりの青い夜2020年08月18日 05時45分02秒

天文アンティークの世界に分け入って、美しいモノや、変わったモノをずいぶん見てきましたが、その中でも、これはちょっと<別格>という品があります。
“これさえあれば、生きながらえることができる―。”
何だか大げさですが、確かにそう思えるような品がいくつかあるのです。

たとえば、この古い幻燈スライド。


木枠に取り付けたハンドルを回すと、ガラスに描かれた絵柄がくるくる回る「メカニカル・ランタン」の一種で、19世紀後半にイギリスで売り出されたものです。


メーカーはロンドンの John Browning 社。
これを光にかざせば、青く輝く夜空に一面の星が広がります。


その主役は大熊と小熊。


北斗七星を基準に、小熊のしっぽの先に光る北極星を探すという、星座学習の基礎を説くものですが、その絵柄の何と繊細なことか。森の上に悠然と浮かぶ熊もいいし、木立ちの描写も美しいです。そして、空の青と星の白の爽やかなコントラスト。いかにも星ごころに満ちています。


そして、ハンドルを回せば星がゆっくりと回転し、熊たちも空の散歩を始めるのです。微笑ましくもあり、なんだか切ないような気もします。

   ★

下界に暮らすことは辛いことです。でも、こういう品に心を慰め、頭上を振り仰げば、もうしばらくは頑張れそうです。

星座絵の系譜(6)…鯨と蟹は星図の素性を語る(下)2020年07月24日 10時25分55秒

(前回のつづき。今日は2連投です。)

しかし、16世紀のくじら座が「怪魚型」ばかりで占められていたとすると、バイエルはどこから「海獣型」を持ってきたのか?彼の異才が、オリジナルな像を作り上げたのか?…といえば、やっぱりお手本はありました。

   ★

それは、1600年にオランダのフーゴー・グロティウス(Hugo Grotius、1583-1645)が出版した『アラテア集成(Syntagma Arateorum)』で、これは非常に古い歴史的伝統を負った本です。

題名の「アラテア」とは、紀元前3世紀のギリシャの詩人、アラトスの名に由来します。アラトスが詠んだ『天象詩(ファイノメナ)』は、ローマ時代に入ってたびたびラテン語訳され、そこに注釈が施され、愛読されました。それらの総称が「アラテア」――「アラトスに由来するもの」の意――であり、一連のアラテアをグロティウスがさらに校訂・編纂したのが『アラテア集成』です。(以上は千葉市立郷土博物館発行『グロティウスの星座図帳』所収、伊藤博明氏の「「グロティウスの星座図帳」について」を参照しました。)

注目すべきは、そこに9世紀に遡ると推定される『アラテア』の古写本(現在はライデン大学が所蔵し、「ライデン・アラテア」と呼ばれます)から採った星座絵が、銅版画で翻刻されていることです。『アラテア集成』所収の図と、ライデン・アラテアの原図を以下に挙げます。

(1600年、グロティウス『アラテア集成』より)

(9世紀の写本、「ライデン・アラテア」より)

いかにも奇怪な絵です。そこに添えられた星座名は、かに座は普通に「Cancer」ですが、くじら座のほうは、現行の「Cetus」ではなく「Pistris」となっています。ピストリスとは、本来、鯨ではなくて鮫(サメ)を指すらしいのですが、サメにも全然見えないですね。海獣というより、まさに「怪獣」です。

そして、これがバイエルに衝撃とインスピレーションを与え、3年後に「海獣型」のくじら座が生まれたのだろうと想像します。

(画像再掲。1603年、バイエル『ウラノメトリア』)

さすがに「首の長い狼」的上半身だと、怪魚型との乖離が大きすぎるので、バイエルなりにドラゴン的な造形で、バランスをとろうとしたんじゃないでしょうか。(哺乳類と魚類のキメラ像としては、すでに「やぎ座」があるので、絵的に面白くない…というのもあったかもしれません。)

   ★

こうして俯瞰すると、海獣型のくじら座をポピュラーにしたのはバイエルの功績であり、直接それを模倣したわけではないにしろ、海獣型を採用したフラムスティードは、やっぱりその影響下にあります。そして19世紀の『ウラニアの鏡』からスタートした星座絵のルーツ探しの旅は、一気に中世前半にまで遡り、おそらく古代にまでその根は伸びているでしょう。文化の伝播とは、かくも悠遠なものです。

   ★

最後におまけ。ヘヴェリウスやヨアン・ブラウの「くじら」の鼻先が、マレーバクみたいにとがっているのが気になったのですが、あれにも理由がありそうです。

(左:ヘヴェリウス、右:ヨアン:ブラウ)

下は紀元前1世紀、ローマ時代の著述家ヒュギヌスによる『天文詩(Poeticon Astronomicon)』の刊本に載った挿図です。

(ヒュギヌス『天文詩』、1485年ベネチア版)

(同、1549年バーゼル版)

バーゼル版の方は『アラテア』と同様、「Pistrix(サメ)」となっていて、こちらは確かにサメに見えます。そして、デューラーの「怪魚型」のルーツも、おそらくはこうした刊本や、その元となった古写本でしょうし、この象の鼻のようにとがった口先が、後に海獣型に採り入れられて、あの不思議な鼻になったのだろうと推測します。

(この項おわり)

星座絵の系譜(5)…鯨と蟹は星図の素性を語る(上)2020年07月24日 10時15分18秒

1729年に出たフラムスティードの『天球図譜』。

(画像再掲。1766年、フォルタン版・フラムスティード『天球図譜』)

その星座絵の素性を、かに座とくじら座を手掛かりに探っていきます。
昨日も触れたように、ビッグフォーの残る2人では、この両星座がどうなっているか。まずはヘヴェリウスから。

(1687年、ヘヴェリウス『ソビエスキの蒼穹―ウラノグラフィア』)

投影法の違いで、向きが反転していますが、くじら座の方は「海獣型」で、フラムスティードとの類似が認められます。しかし、かに座の方は「ザリガニ型」で、タイプが異なります。もちろん、星座絵を描く際、「丸パクリ」ではなく、複数の資料を参照しながら、「いいとこどり」をする場合もあったでしょうから、かに座のスタイルが違うからといって、ヘヴェリウスを手本にしなかったことにはなりません。

しかしこの場合、ヘヴェリウスのくじら座そのものが、彼のオリジナルではなく、オランダの有名な地図製作者、ヨアン・ブラウ(Joan Blaeu、1596-1673)のコピーであり、ブラウの天球図では、かに座も「カニ型」ですから、実はブラウこそが、フラムスティードの「仏」だった可能性があります。

(1648年、ヨアン・ブラウ天球図)

   ★

では、ビッグフォーの最後の一人、バイエルはどうかというと、こんな絵柄です。

(1603年、バイエル『ウラノメトリア』)

うーん、これはどうでしょう。かに座は問題ないですが、くじら座の方は海獣は海獣でも、ドラゴンのような首長の姿で、フラムスティード(あるいはブラウやヘヴェリウス)のくじら座とは、異質な感じがします。ただ、フラムスティードが、バイエルを参照したのは確かですから、影響がなかったとも言い切れません。この点は、後ほどもう一度振り返ってみます。

   ★

さて、くじら座の表現として、これまでのところは「海獣型」ばかり登場していますが、バイエル以前の16世紀の星図になると、対照的にほんとんど「怪魚型」ばかりです。例えば、座標目盛が入った、近代的な意味での「星図」は、画家のデューラーが、1515年に出版したものが最初といわれますが、その星座絵が以下です。

(1515年、デューラー天球図)

その姿は「ザリガニ型」と「怪魚型」で、このデューラーの図は、出版物という形をとったせいで、後続の星図に非常に大きな影響を与えました。以下、その系譜をたどってみます。

(1540年、アピアヌス天球図/『皇帝天文学』所収。ただし、かに座は「カニ型」)

(1541年、ヨハネス・ホンター天球図)

(1590年、トーマス・フッド天球図)

(1596年、ジョン・ブラグレイヴ天球図/『Astrolabium Uranicum Generale』所収)

そして、この怪魚のイメージは、上記ヨアン・ブラウのお父さんである、ウィレム・ブラウ(Willem Janszoon Blaeu、1571-1638)によって決定版が作られました。

(1598年、ウィレム・ブラウ制作のゴア(天球儀原図))

この恐ろしい姿をしたくじら座は、あのセラリウスの極美の天体図集『大宇宙の調和(Harmonia Macrocosmica)』にも採り入れられ、海獣型と拮抗して、後の星図にも登場し続けたのです。

(1655年、ヴィルヘルム・シッカード天球図)

(1661年、アンドレアス・セラリウス天球図/『大宇宙の調和』所収)

(1790年、ジェームズ・バーロウ天球図)

(長くなったので、ここで記事を割ります)

星座絵の系譜(4)…フラムスティードのさらにその先へ2020年07月23日 20時25分11秒

星座絵は特殊なものですから、お手本なしに描くことは難しいでしょう。とすれば、フラムスティードの星座絵は、何を参考にして描かれたのか?まあ、描いたのはフラムスティード本人ではなくて絵師ですが、絵師がお手本にしたものが、きっとどこかにあるはずです。

フラムスティードの前には、「ビッグフォー」に属する2人の巨人、すなわちバイエルヘヴェリウスがいますから、その直接・間接の影響は、真っ先に検討しなければなりません。また、星座絵のアーティスティックな表現にかけては、天球儀に一日の長がありますから、そちらへの目配せも必要です。でも、まずは先人の言に耳を傾けて、ここでもデボラ・ワーナー氏の『The Sky Explored』(1979)を参照してみます(以下、適当訳)。

 「1696年までに、フラムスティードは自身の言葉によれば、『星座絵をデザインするため、画才に富む者を求めていた。何となれば、ほぼ100年になろうかという昔、ティコ〔・ブラーエ〕の時代以降、初めてそれを絵にしたバイエルは、あらゆる星表がそれを訳し、それに従ってきたところの、かのプトレマイオスの記述とは、明らかに矛盾する形で描いていたし、他のすべての星図作者はバイエルを所持しているからだ。

2,3人の計算役を我が身に授けてくれた天祐は、また才覚のある、だが病弱な若者(ウェストン氏)を私の元に送り届け、彼はこの仕事に没頭した。私の命により、彼は星座図を見事に描いた。ある優れたデザイナーの述べたところによると、ウェストン氏は何も指図を受けることなく、下図を完璧に描き上げたそうだ。』

トーマス・ウェストンによる星図は、実際に使われることはなかったが、その後の版の基礎となったことは間違いない。1703年から4年にかけて、フラムスティードは星図のうちの幾枚かを描き直そうと思い、ウェストンがそれを準備し、P.ヴァンサム(『卓越した、だが高齢の製図家』)が星座を描いた。」(p.82)

こうして準備が進められた星図出版ですが、ニュートンやハレーとのいさかいのせいで、実際の出版は遅れに遅れました。『天球図譜』が最終的に陽の目を見たのは1729年、フラムスティードの没後10年目のことです。この間、

 「フラムスティードの星表と草稿図に基づき、アブラハム・シャープが座標を描き、恒星をプロットした。その上にジェームズ・ソーンヒル卿が(そして彼が疲れると、他の逸名画家が)星座絵を描いた。最後に、あまり腕の良くないロンドンとアムステルダムの彫師に銅版を彫らせ――というのも、セネックス〔=当時一流の地図製作者〕は、ハレーの親友だったため、その任にふさわしくないと考えられたのだ――、星図印刷の首尾が整った。」(同)

フラムスティードがバイエルを意識し、星座絵の面でも、それを凌駕する作品を狙っていたことが分かります。ただ、結局のところ、彼が何を手本にしたかは不明のままで、フラムスティード星図のそのまた「仏」探しは、実物に当って考えるしかなさそうです。

   ★

AがBを模倣したかどうかを判断するには、白鳥のように変異に乏しく、実物を写せば自ずと似てしまうものを比べても、あまり役に立ちません。はくちょう座をたどる旅は、いったん打ち切りです。

代わりに、「ありふれているけれども、その姿が多様で、いろいろな表現を許容するもの」とか、「空想上の存在で、実物を見て描くことが不可能なもの」を採り上げることにします。ここで指標とするのは、「かに座」「くじら座」です(鯨は現実の生物ですが、当時はたぶんに空想的存在でした)。いずれも、図像学的にしばしば問題になる星座で、前者については「カニ型 vs.ザリガニ型」、後者については「怪魚型 vs.海獣型」の間で、長いこと表現が揺れてきました。

改めてジェミーソン『星図帳』(『ウラニアの鏡』もほぼ同じ)、ボーデ『ウラノグラフィア』、フォルタン版『天球図譜』(フラムスティードの原版もほぼ同じ)で、その姿を確認しておきます。(以下、星図の縮尺は不同です。)

(1822年、ジェミーソン『星図帳』)

(1801年、ボーデ『ウラノグラフィア』)

(1766年、フォルタン版・フラムスティード『天球図譜』)

いずれも「カニ型」と「海獣型」で、そのポーズからも、すべて同一系統に属するものと判断できます。「え、本当?ずいぶん違うんじゃないの?」と、思われるかもしれませんが、この後、いろいろなカニとクジラを見ていただくと、「なるほど、似ているね」と思っていただけるでしょう。

さて問題は、フラムスティードのさらにその先がどうなっているか?です。

(この項さらにつづく)

星座スタンプ2020年06月13日 08時34分36秒



星座にちなむ小物というと、こんなものを見つけました。
黄道12星座をデザインした、天球儀風の印刷ブロックです。


小物といっても、たてよこ8cm近くあって、印刷ブロックとしては結構大きいです。
おそらく1920~30年代の品。売ってくれたペンシルベニアの業者さんは、廃業した印刷屋の在庫をごそっと買い取ったらしく、他にもインクまみれの古い印刷ブロックを、たくさん売りに出していました。


刷り上がりのイメージ(左右とネガポジを反転)。

気になるのは、これを「何」に使ったかです。
もちろん印刷するために使ったわけですが、その刷ったものの用途は、はたして何であったか? まあ、普通に本の挿絵かもしれないんですが、ひょっとしたら、星占い用のシートを印刷するのに使ったのかな?…という想像もしています。


以前登場した、ホロスコープ用印刷ブロック【元記事】と似た感じを受けるからです。
(右側に写っているのがそれ。以前、記事を書いたときは、占星術師が手元でポンポンと捺して使うのだと考えましたが、これも町の印刷屋さんに一気に刷ってもらった方が便利そうです。)

上の想像の当否はしばし脇に置いて、なかなか素朴で愛らしい品です。

星座ボタン2020年06月12日 20時41分46秒



星座の範囲がカクカク定まって、科学がずんずん先に進んでも、人々の星座観は旧来のイメージを引きずっていて、その辺は今でもあまり変わりがなさそうです。(そもそも星座という存在が古代の残滓なので、古めかしくて当然です。)


上の写真に写っているのは、星座絵のガラスボタンです(直径2㎝)。
売ってくれたのはカリフォルニアの人ですが、ガラスボタンといえばチェコなので、元はチェコ製かもしれません。黒いプレスガラスに手彩色で仕上げてあります。

(ボタンの背面)

時代はよく分かりません。1930年代かもしれないし、1950年代と言われれば、そんな気もします。20世紀前半~半ばのものと言えば、大体当たっているでしょう。

それにしてもこのボタン、遠くから見たら何だかよく分からないし、近くから見てもやっぱり分かりません。至近距離でじっと見つめて、初めて星座の絵柄が分かるので、こうなると江戸小紋の美学みたいなものです。西洋の人も、こういうのを「粋」と思うんですかね。

空の土地公図(後編)2020年06月10日 06時41分18秒



これが本のタイトルページです。
イギリスで出た本ですが、言語はフランス語で、著者はベルギー人と、この本の国際的な性格がよく出ています。

左側に見えるコピーライト表示に目を向けると、


ケンブリッジ大学出版局のほか、アメリカ・インド・カナダに展開していたマクミラン社、そして日本の丸善が版権を共同保有していて、こちらも非常に国際的です。


本書は前半が土地台帳というか、星座境界線の位置を示す詳細データが、ずらずら続きます。ページ数にして35ページ。まあ、見て面白いことはないんですが、興味深くはあります。デルポルト博士が眉間にしわを寄せて、苦労しながら数字を書き出していった様が想像されます。

そして、後半がいわば土地公図に相当する図面。
南北両天各13図、計26図が収載されています。

上から見ても↓


横?から見ても↓


パキパキとまっすぐな線が、まさに新時代です。
まあ、この図だけだと普通の星図とあまり変わりませんが、


巻末折込の図はまさ公図。そこには星がいっさい描かれておらず、境界線だけがカクカク引かれ、座標値が書き込まれています。


野を駆ける狩人オリオンも、今やすっかり塀の中に囲い込まれた観あり。
振り上げた棍棒まわりの区画が、いかにも細かいですね。ご近所と土地をめぐる相論がいろいろあったのでしょう。


南半球の星座は、北半球の星座とちがって、さしたる歴史的因縁もないので、もっとスパスパ境界を決めればいいように思いますが、「みなみのさんかく座(Triangulum Australe)」なんか、無駄とも思えるほど細かいです。

なんだかせせこましいような、世知辛いような気がしますが、科学の世界では「一義的に決まる」ということが、すこぶる重要であり、そうするだけの価値があったのでしょう。

   ★


以下余談ですが、今回、改めてしげしげと見たら、手元の一冊は、かのアルゲランダー(Friedrich Wilhelm August Argelander、1799-1875)が、「ボン掃天星表」を作った、ボン大学付属天文台の旧蔵書と気付きました。

時代的にはアルゲランダーとは全然関係ないし、だからどうだという話なんですが、私はこういう学問の香気をむやみと有難がる癖があります。1冊の本からも、天文学の歴史がいろいろ偲ばれて、興味は尽きず、こういうのも古書の魅力の一つでしょう。

ちなみに、同天文台は戦後徐々に観測拠点を他所に移して、旧天文台の建物は、現在、歴史的遺産として保存されているとのこと。

(ボン大学旧天文台。Wikipediaより)

空の土地公図(前編)2020年06月09日 06時31分03秒

前回の記事に出てきた「空の土地公図」の中身を、参考のために見ておきます。


その名称を『Délimitation Scientifique des Constellations(諸星座の科学的分界)』と言います。後ほど見るように、その中身は地味ですが、その科学史上の意義は、はなはだ大なるものがあります。

   ★

そもそも、昔の星図における星座の扱いはどうだったか?
例えば1888年にドイツで出版された星図を見てみます。

(ヤコブ・メッサー著、『天体観測用星図帳(Stern-Atlas für Himmelsbeobachtungen)』表紙。貼り付けられた北天星図のうねうねした星座境界に注目)

(同書より、ふたご座付近)

昔も今も、星座の絵姿に関しては、一定の共通理解があったわけですが、その絵姿の「外側」の取り扱いがあいまいでした。言うなれば、星座の国土に付属する「領海」の範囲がはっきりしなかったのです。昔の星図で境界がうねうねしていたのは――そして、そのうねうね具合が、人によって違ったのは――その反映です。(しかも、星座の数自体一定していませんでした。メジャーな星座はいいとしても、過去の学者が提案した、様々なマイナー星座があって、その扱いが人によって違ったからです。)

   ★

それに対して、今の星図は、星座と星座の境界がかっちり決まっています。

(今のふたご座)

天文学者の国際組織、国際天文学連合(IAU)が、1920年代に、明確な意思を持ってそのように決めたからです。その具現化が、この『諸星座の科学的分界』なのです。

事の経緯を、手っ取り早くウィキペディアの「星座」【LINK】の項から転記してみます。

 「1922年にIAUの第1回総会がローマで開催された際、〔…〕ベルギーのウジェーヌ・デルポルトとカスティールズは、北天の星座に対して赤道座標の経線と緯線に平行な円弧で境界線を設けることを提案した。」

ここに登場するデルポルト(Eugène Joseph Delporte、1882-1955)というのが、星座画定の立役者で、『諸星座の科学的分界』の著者。

 「IAUは、1925年にケンブリッジで開催されたIAU総会で「星座の科学的表記」の分科会を設立し、デルポルトに赤緯-12.5°以北の天球上の境界線を策定するよう要請した。〔…〕IAUは、北天と同じく南天の星座の境界線も定めるように要請、これを受けたデルポルトは〔…〕境界線の改訂案を策定した。この案がIAUで承認され、1930年にケンブリッジ大学出版会から「Délimitation Scientifique des Constellations」と「Atlas Céleste」という2つの出版物として刊行されたことにより、現在の88の星座の境界線も確定された。」

こういうことは、得てして国家間の思惑が対立して紛糾しがちですが、この場合トントン拍子に事が運んだのは、誰しも不便を感じていたからでしょう。

「このようにして、各星座の名称と領域が厳密に決められたことによって、あらゆる太陽系外の天体は必ずどれか1つの星座に属することとな」り、まずはメデタシメデタシ。地上の国境線と違って、空の国境線はこうして無血確定したのでした。

…と前置きして、本の中身は次回に回します。

(この項つづく)

「星座」の誕生(後編)2020年06月07日 13時32分05秒

昨日のエピソードに似たことは、抱影の評伝を書いた石田五郎氏も自身の経験として述べています(『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』、リブロポート(1989)、p.186)。

「また東北地方の山奥にこけしを買いに入ったとき老木地師に尋ねても
 「サア、孫たちはオリオンとか北斗七星とかいってますが…」
という返事である。
小学校の天文教育やテレビの科学番組が、古きよき神々を追放したのであろう。」

公教育の普及によって、古い星名が消滅することは、ひとつの文化が消え去ることに等しく、それを惜しむ気持ちはよく分かります。そして消え去る前に、それを記録しておくことは、同時代人の責務だと思います。

とはいえ、民間語彙を駆逐する立場にある、科学のボキャブラリーにしたって、やっぱり消長と盛衰があって、一つの言葉が生まれれば、一つのことばが消えていくのが常でしょう。

   ★

今回のテーマは「星座」という言葉の誕生をめぐってです。

これは、5月31日の記事に対する、S.Uさんのコメントが元になっています。
その中で、S.Uさんは constellation という外国語が「星座」と訳された時期、そして個々の星座を「○○座」と呼ぶようになった時期を問題にされ、明治30年代に画期があったのでは?という仮説を述べられました。

   ★

ここでもう一度抱影に登場してもらって、彼のヒット作、『星座巡礼』(研究社、大正14/1925)を開くと、そこには「北冠座」とか「蛇遣座」とかの項目が並んでいます。

(手元にあるのは昭和6年(1931)の第7版です)

「北冠座」というのは、今でいう「かんむり座」のことで、後者も今は「へびつかい座」とかな書きすることになっているので、古風といえば古風ですが、そう違和感はありません。そして、抱影以後は、誰もがこういう言い方に親しんでいます。「おおぐま座」とか「オリオン座」とか、個別の星座を「○○座」と呼ぶのは、確かに便利な言い方で、コミュニケーションにおいて言葉の節約になります。

でも、昔はそうではありませんでした。

そもそも「コンステレーション」に伝統的な日本語を当てれば「星宿」であり、実際そのように呼ぶ人が、昔は大勢いたのです。そして「星座」の訳語が生まれても、そこからさらに「○○座」の表現が使われるまでには、結構タイムラグがありました。

   ★

さっそく実例を見てみます。

明治時代の天文書における表記の変遷(「星座」vs.「星宿」、および個々の星座の呼び方)をたどってみます。ここでは便宜的に、明治時代を3区分して、「前期」(鹿鳴館の時代まで、1868~1883)、「中期」(日清戦争を経て日英同盟まで、1884~1902)、「後期」(日露戦争と大正改元、1903~1912)とします。

【明治前期】
〇関藤成緒(訳)『星学捷径』(文部省、明治7/1874)
 「星座」(星座例:“「ヘルキュルス」星座”、“「オライオン」星座”)
〇西村茂樹(訳)『百科全書 天文学』(文部省、明治9/1876)
 「星宿 コンステルレーション」
 (星座例:“大熊 ウルサマジョル”、“阿良〔「オリオン」とルビ〕”
〇鈴木義宗(編)『新撰天文学』(耕文舎、明治12/1879)
 「星宿
〇内田正雄・木村一歩(訳)『洛氏天文学』(文部省、明治12/1879)
 「星座」〔「コンステレーション」と左ルビ〕
 (星座例:“ユルサマジョル グレートビール(大熊)”、“リブラ バランス(秤衡)”、“ヘルキュレス ヘルキュレス(神ノ名)”、“オリオン オリオン”)

(『洛氏天文学』より。下も同じ)


【明治中期】
〇渋江保(訳)『初等教育 小天文学』(博文館、明治24/1891)
 「星宿」(星座例:“グレート、ビーア(大熊星)”、“ヅラゴン(龍星)”、“オリオン”)
〇須藤伝治郎『星学』(博文館、明治33/1900)
 「星宿」(星座例:“ウルサメージョル(大熊)”、“シグナス”、“ライラ(織女)”、“ヲライヲン(参宿)”)
〇横山又次郎(著)『天文講話』(早稲田大学、明治35/1902)
 「星座」(星座例:“大熊宮”、“かしおぺや宮”、“獅子宮”、“おりよん宮”)

【明治後期】
〇一戸直蔵(訳)『宇宙研究 星辰天文学』(裳華房、明治39/1906)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“かっせおぺあ星座”)
〇本田親二(著)『最新天文講話』(文昌閣、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“獅子座”、“カシオペイア座”)
〇日本天文学会(編)『恒星解説』(三省堂、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“琴(こと)”、“琴座のα星”、“双子座β星”)

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こうして見ると、「星座」という言い方は結構古くて、明治の初めにはすでに使われていました。しかし、「星宿」も頑張っていて、最終的に「星座」で統一されたのは、明治も末になってからです。日本天文学会が創設され(明治41/1908)、用語が統一されたことが大きかったのでしょう。

「星座」vs.「星宿」に関しては、最終的に新語が勝ち残った形です。
単に明治人が新し物好きだから…ということなら、「Astronomy」も、古風な「天文学」ではなしに、新語の「星学」が採用されても良かったのですが、結果的に定着しませんでした。この辺はいろいろな力学が作用したのでしょう。

いっぽう「〇〇座」の言い方ですが、これもいろいろ試行錯誤があって、「○○星座」とか、「○○宮」とかを経て、最終的に「○○座」が定着したのは、これも明治の末になってからです。

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ときに先のコメント欄で、S.Uさんが「以下は私論ですが」と断られた上で、
「星座は境界のある「空の区域」を示すものですから、単に星座の絵柄の名前でなく「座」をつけるのが正式とされたのだと思います。」「少なくとも学術的には星座は常に空の区域の名称ですから、星座名としての「オリオン」は間違いではないとしても、正式名称は「オリオン座」でその省略形と見なされるのではないかと思います。」
と述べられたのを伺い、なるほどと思いました。

要は、棍棒を振り上げて、雄牛とにらみ合っているのは、たしかに空の狩人「オリオン」ですけれど、オリオンを含む空の一定エリアを指すときは「オリオン座」と呼ぶのだ…という理解です。たしかに、1930年に国際天文学連合が、星座間の境界を確定して以降は、このように星座のオリジナルキャラと、「○○座」という空域名は、明瞭に区別した方が便利で、実際そのように扱われることが多いのではないでしょうか。

(天界の土地公図。『Délimitation Scientifique des Constellations』(1930)表紙)

とはいえ、改めて考えてみると、東洋天文学で「参」と「参宿」を区別したように、現代の「空域としての星座」は、むしろ「星宿」の考え方に近く、オリオン座も「オリオン宿」と呼んだ方がしっくりするのですが、これはもうどうしようもないですね。