神保小虎・『鉱物界教科書』(3)2008年10月23日 19時16分25秒

(↑美麗なる輝安鉱の図)

鉱物趣味に関して言うと、この本ではズバリ鉱物の美を言葉で明示している箇所があります。

「アンチモニーは主として輝安鉱より製す。〔…〕特に市ノ川より出ずる輝安鉱は、其の形の大にして美なるが故に、世界に名高し。」

宝飾品としての美しさではなくて、結晶の美そのものを書いている点で、これは鉱物趣味の画期です。

同じ明治36年に出た、『女子化学鉱物教科書』(というのを現在読んでいます)にも、「水晶は、石英と同じく、無水珪酸より成り、透明にして美麗なる六角柱に結晶せり」とあります。まあ、これは水晶なので、宝飾品的要素があるのですが、それでも鉱物の結晶を、未加工の「素」の状態のままで美しいと認める態度では共通しています。

明治の後半―すなわち20世紀の初め―、鉱物の硬質な美を愛でる心性は、はっきりと日本に根付きつつありました。

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それと、つい忘れがちのことを、この本で思い出しました。

平成の現在、鉱物趣味に染まっている人は、鉱物を無条件で美しいものと見なし、また世間一般も、鉱物趣味をちょっと浮世離れした、小ぎれいなホビーと思っているかもしれませんが、明治の鉱物学はバリバリの実用の学で、富国強兵の要のような色彩があった…ということです。鳥や虫を愛玩するのとは、力の入れ方がまるで違ったのです。裏返せば「金になる学問」だったと言えるかもしれません。

当時の初学者向けの教科書に、各鉱物のこまごました用途、鉱山の様子、精錬の原理、溶鉱炉の構造など、今の鉱物趣味の本にはあまり出てこない記述がやけに多いのも、鉱物に向ける眼差しの向こうにあったものを感じさせます。

戦前、学校で盛んに鉱物学が講じられ、小学生向けの鉱物標本が大量に作られた時代と、現代の『鉱石アソビ(イシアソビ)』との間に、何か大きな空白と断絶があるように感じられるのは、この間、日本人と鉱物の関係性がガラリと変わったことに因るのではないでしょうか。