ハイボール片手に不思議な夜を… Black Comet Club2012年08月11日 11時07分38秒

こころの霧もはれ、ぼちぼち再開です。
(ちなみに、こころの霧というのは家族のことでした。さいわい何事もなくてよかったですが、天文古玩趣味などというのは、平凡な日常があってこそのものだなあ…と、つくづく感じました。まあ、何が起ころうと自分の世界を堅持できる強い人もいると思いますが、私は全然ダメです。)

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最近の記事の中に、サロン・ド・六甲昆虫館Lagado研究所鉱物BAR といった、一連の素敵スポット・素敵イベントがいくつか登場しました。
こういう素敵な場が、最近あちこちに増えているのは大いに喜ばしいことです。
そして、今日もまたとびきり素敵なお店のオープンをお伝えすることができます。


HIGHBALL BAR  Black Comet Club
 http://blackcometclub.com/
 福島市陣場町 8-11 茂木ビル 1F
 TEL 024-573-1325
 営業時間 18:00-24:00 (日曜・祝日定休 )

お店のロケーションが、関東でも関西でもなくて、ちょっと伏兵的な場所・福島だというのが、「ここではない何処か」への憧れを誘います。

   ★

Black Comet Club との出会いは、けっこう以前にさかのぼります。
きっかけは、鴨沢祐仁氏の「クシー君」について検索していて、店主・サイトウヒツジさんによる同名のブログに行き会ったのが最初だと記憶しています。その後、しばらく更新がないな…と思っていたら、突如こんな素敵なお店が誕生していました。本当に魔法を見るようです。

(クシー君とイオタ君の待ち合わせ場所は、高台にあるコメット・クラブ。今夜の合言葉は「ネオン!」「アルゴン!」。鴨沢祐仁、「流れ星整備工場」(1976)より。)

以下、同店トップページの自己紹介文より。

  月と星と押し入れの中の秘密。
  稲垣足穂・澁澤龍彦。
  QUEEN・The Beatles・David Sylvian・The Books。
  鉱物。クシー君。
  あがた森魚・矢野顕子・谷山浩子。
  土星の輪。すべての音楽。猫。
  髑髏。
  サーカス。
  夏祭り。
  化石。夕暮れの外灯の影に佇むヒト。蝙蝠。
  なんだかわからないけれど、懐かしいナニカ。
  
  僕の大好きなそんなものたちとともに飲むお酒はなんだろう?と考えたときに、
  やっぱり大好きなハイボールを選びました。
 
  落とした照明と、ほんのり灯油の香りがするランプ。
  出来たてのポップコーン。
  博物趣味を感じさせるモノたち。
  楽器たち。
  そんなモノたちの中で、お客様それぞれがいろいろな想いの中でお酒を
  楽しんでいただければ幸いです。

ああ!「なんだかわからないけれど、懐かしいナニカ」。
なんだかわからないけれど、本当によくわかる気がします。
この感覚、一言でいえば、やはり「郷愁」でしょうか。見たはずがないものへの郷愁。
…いや、やっぱりどこかで見たのかもしれません。自分が、かつて自分以外のものであった頃に見た記憶。

(稲垣足穂、「THE BLACK COMET CLUB」全文。『一千一秒物語』(1923)所収。)

空をゆく彗星を思いつつ、グラスの向こうに、その微かな記憶を追ってみたいです。
そしてふと気がつけば、隣でクシー君が咳払いをしている…とか。

(サイトウヒツジさんからのメールによると、右側に写っている土星のガラス模型は、拙ブログ経由でお知りになったそうで、ちょっと鼻が高いです。)

コメント

_ ヒツジ ― 2012年08月11日 12時29分10秒

玉青さん!
ご紹介いただき本当にありがとうございます!

まったく違った場所でまったく違った生き方をしているまったく違った年齢のひとたちの中にある同じモノに対する懐かしさ。
これってやっぱりどこかで同じモノの中で暮らしていたということでしょうか。
どこで見たのかは忘れてしまいましたが、我々はみんな産まれる前はブリキの月が浮かぶあの世界に居たのだというような事を荒俣宏さんが書いていたような。

これからも天文古玩にはお世話になります!
どうぞ末永く仲良くしてやってくださいませ。

_ 玉青 ― 2012年08月12日 00時14分43秒

こちらこそ画像使用をご快諾いただき、ありがとうございました。

「懐かしさ」って、本当に不思議な感覚ですね。
単なる「よお、久しぶり!」というのとはちょっと違います。
特にタルホがしきりに言う「懐かしさ」というのは、変化しつづける世界の中で、ふと変化しない何かに出会ったときに感じるもののような気もします。一瞬なんだけれども、永劫につながる感覚…とでも言えばいいでしょうか。
違った人生を送ってきた人が、同じものに懐かしさを感じるというのも不思議ですね。人々が共通して持つ、ある永劫の感覚を呼び覚ます鍵が、この世にはいくつかあるのかもしれません。
…というようなことを、缶ハイボールを飲みながら考えていますが、懐かしさの正体に迫るには、まだまだ時間がかかりそうです。

どうか、ヒツジさんのBLACK COMET CLUB が、タルホのそれとは違って、永く続きますように!そして、これからも末永いお付き合いを、どうぞよろしくお願いします。

_ S.U ― 2012年08月12日 10時04分55秒

>ハイボール
 ハイボールとはどういう飲み物を指すのか詳しくは知らないのですが、缶で売っているのを買って飲んでも特においしくはないので、自分で、炭酸水でウィスキーを割ってシークワーサ果汁を入れて飲んでいます。勝手に健康によいのではないかと思っています。アドバイスをご教示下されば幸いです。

>タルホがしきりに言う「懐かしさ」
 作品「弥勒」に「地上とは思い出ならずや」という有名なことばがありますが、これを若いときに読んで意味がさっぱりわからないのに妙に惹かれました。澁澤龍彦だったか忘れましたがこれを「天上界の思い出」と解釈していました。これでは、人間の精神は現在天上にあるということになり、決してわかりやすい説明ではありません。

 無難に解釈すれば、現在の我々が地上で感動する事物は、すでに天上にある我々の精神の思い出にあらかじめなっているものであり、タルホはその思い出になっている事物を抽出せよと主張しているのだと思われます。これで私は納得したつもりなのですが、通常は体験してしばらく経ってから思い出になるものが、あらかじめ思い出になっているとはどういうことなのでしょうか。
 物理学は自然哲学では、時間軸上の事象はすべて同等に規定されていると考えることがよくあるので、私はそのように理解しているのですが、タルホや他の立場の方々はどのように理解されているのでしょうか。これまたご教示下さい。

_ 玉青 ― 2012年08月12日 17時46分39秒

私はふだんハイボールを飲まないのですが、ヒツジさんへのお返事を書くのに、あにハイボールなかるべけんや…と、仕事帰りに(昨日は夕方から緊急の呼び出しがありました)コンビニで1本買って帰った次第です。ですから、ハイボールについて語る資格はゼロです。しかし、S.Uさんがハイボールを愛飲されているとは知りませんでした。意外な発見です。そのうち、福島で一杯どうですか?(^J^)

>地上とは思い出ならずや

さっき「弥勒」を走り読みして、その書かれた箇所を見つけられなかったので、彼が本来どんな文脈で言っているのか分からないのですが、このセリフは「宇宙的郷愁」と対で語られることが多いので、やはりどこかで「永遠」というキーワードと結びついているような気がします。

「弥勒」は、彼が少年時代から中年時代まで、常に「お終いの気分」の中で過ごしていたことを綴っています。少年時代には、無性に<墜落>やら<衝突>やら<自殺>やらに惹かれ、中年になってからは、現実的窮乏の中で「どん詰まりの感覚」「空中分解の予兆」に塗り込められて、<Devil>やら<鬼>やらに苦しめられていました。

そして、そうした終末の予感と表裏して、彼の心の内には、常に時空の構造への問いと、永遠への関心があり、そのパズルの最後のピースとして、弥勒仏の観念が彼の心にピタリとはまった…というふうに、私は「弥勒」を読みました。

>物理学…時間軸上の事象はすべて同等に規定

タルホの時間観念もまさにそうなのだと思います。
彼は時空連続体のような物理学的概念を摂取し、「終末などというものはない。時空に刻まれた世界線は永劫のものであり、過去・現在・未来は等しく常在するのだ」と思いたがっていた節があります。

そして、この「過去・現在・未来の常在」という考えを、彼は仏教的時間観念とも結びつけて捉えていた…というのが、「弥勒」執筆の背景にあったと私は思います。これは上の物理学的な意味での時間理解とは、かなり異質のものですが、タルホはその点にあまり矛盾を感じなかったのでしょう。

仏教は究極の相対主義ですから、現象世界はことごとく虚妄であり、真も偽もなく、存在・非在の区別も虚妄であり、過去・現在・未来の区別もまた迷いに過ぎないという、極端なことを主張します。裏返せば、過去は現在であり、未来であり、逆もまた然りということでしょう。と同時に、仏教では迷妄の中での輪廻転生ということを説きますから、自分という存在は過去にも未来にも遍在し、過去世・来世は現世とともに「今ここ」にあるのだと…という、奇怪な結論になります。

タルホがそういう奇怪な観念を本当に持っていたのかどうか、それは私の妄想にすぎないんじゃないか…という気もしますが、しかし、以下のような「弥勒」の文章を読むと、過去・現在・未来の区別が意味を失うような、不思議な「思い出」を、彼がしょっちゅう反芻していたのも確かだと思えます。

●「今夜こんなふうに自分が歩いているのは、実は杳(はる)かに遠い未来の夜であり、しかもそこは星の世界の都会ではなかろうかという気がするものだ。」

●(空想上の「赤色彗星倶楽部」の顛末を語るくだり)
「つまりポン彗星がやってきて、その尻尾が地球に触れた夜半に一種の蜃気楼が現れたのである。〔…〕これが快い淋しさをそそり立てて、我身はこのまま何処かへ消えてしまうのではないかと疑われるし、またこの瞬間にも無限単位の時間が経過しているような気持ちがする。…こうしてわずか数分間に覚えられたのが、実は数千年、数万年だったのかも知れない。」

●「ねえ、いつかもこうして貴女と一緒に歩いていたようです」
「そう、わたしもさっきから頻りにそう思っていました。―あれからいったいどれぐらいの時が流れたか知ら」
「それは大変なものでしょう」

●「曾てわれわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合ってから、そうれ、ここにちゃんと出ている。五十六億七千万年の時が経っているのです。弥陀の声が筬(おさ)のように行き交うている虚空の只中で、この銀河系は何十回も廻転しました。地球なんか勿論とっくの昔に消えてしまった。若しあの黄色の星が地球なら、それは何代目かの子孫―いや全く別な、新しいきょうだいなのだ、と云うべきなのです」


「地上とは思い出ならずや」の「思い出」とは、こういう過去・現在・未来にまたがる、重層的な「思い出」なのだろうというのが、私の捉え方です。
…と言いつつ、書いていて自分でもさっぱり訳がわかりません。長々と駄文をこねくり回して申し訳ありません。お目汚しご容赦ください。<(_ _)>

分からないついでに、もう1つ付け加えると、タルホが最後に「アゼンスの街」に触れていたので思うのですが、彼の脳裏には、仏説以外に実はプラトンのイデア論がちらついていたかもしれません。
すべての学習は、輪廻転生を繰り返す永遠不滅のプシュケーが、霊界で見知っていたイデアを、現世で「思い出す」ことにほかならない、経験とは想起だ…という考えも、「この地上とは思い出ならずや」という言葉にちょっと影響しているような気がします。

_ S.U ― 2012年08月12日 19時20分03秒

>「地上とは思い出ならずや」
 まず最初にお詫び申さねばなりません。これが載っている作品は「白昼見」でありました。「白昼見」の3節に載っております。特に「自解」は載っておりません。明石時代の描写のところに出ているので、「弥勒」のご引用のあたりに出ていなければ「弥勒」には出ていないと思います。申し訳ありませんでした。

 足穂の時間哲学についての分析をありがとうございました。仏教哲学もプラトンも私には縁遠い説なので、何とも申し上げられませんが、輪廻思想が根底にあって、足穂の脳裏には、この輪廻の環状図形がドカッと浮かんでいたと感じました。懐かしさとは、現在の地上とそれをみる我々の感性がその重層的な過去・未来を「記憶している」からなのでしょう。「環状の時間」は現代物理学にはないものなので、興味深いと思いました。

 ところで、「白昼見」とはなにかというと、これはフェヒナーの哲学だということになっていて、作品の最後に「解説」があるのですが、私には、かなり主観的なもので、近年流行ったスピリチュアルや自己啓発に似たもの見えて、わけがわかりません。私は足穂の研究家であり、また信仰者であらんとしてはいるのですが、彼の理解者にはとうていなれそうにはありません。

>ハイボール
 いいですねぇ。ぜひ、ごいっしょに。
 私のハイボールは、愛飲というほどのこともなく、またタルホや高貴な理科趣味も関係なく、炭酸水とウィスキーと柑橘系果汁がどれも好物なので混ぜているだけのことです。

_ 玉青 ― 2012年08月13日 10時53分02秒

あ、ありました、ありました。あそこに出ていたんですね。

●「地上とは思い出ならずや」―こんな言葉を曾てお昼の銭湯に浸りながら思い浮べて、何かしら愉しくなったことがありましたが、今度はそれとはうらはらの惨めさでした。

これだけだと、あの名セリフを、タルホ自身は「のんきな時代のおめでたい寝言」のように捉えていたようにも読め、すこぶる意外です。このセリフは、晩年になってからもよく揮毫していたようですが、もしかしたら周囲のタルホシンパが「タルホ経のお題目」として祭り上げたのを、タルホも訂正するのが面倒くさいので、乞われるままに書いていたのかも…と、ちらと思いました。

>「環状の時間」

環状の時間を考えると、いちばん遠い未来と、いちばん遠い過去が、現在でピタッと重なり合うので、そこにジワッと不思議な懐かしさが生じるんだ…ということで、話はきれいにまとまりそうですね。

まあ、実際タルホがどう考えていたかは、よく分かりませんが、そのヒントとして、引用ばかりで恐縮ですが、他者との対談のなかで述べている個所を見つけたので、ご参考までに下に掲げます。(いずれも『タルホ事典』・潮出版社からの再引用)

   +

○瀬戸内 そうしますと、先生、ご自分の死後の世界、つまり死んでも何かがどうかしてくれるというふうに、ある世界があるというふうに信じていらっしゃる。
○稲垣 ええ、ええ、ええ。
○瀬戸内 それで生命は永遠に、永劫回帰…。
○稲垣 実はそれをぶちこわしてしまえはいいんだけど、お釈迦さんなんか、涅槃とか天国なんかそれでしょうな。流転したらいけないということ、逃げ出すということであの天国というもの考えたんでしょうな。それから涅槃なんて。しかしそれはむずかしいですね。それです、問題は。死にぎわのことなんか考えてやしませんよ、お釈迦さんなんてのは。流転して、入れ替わり立ち替わり。だから死はその中途における一つの簡単なる生の姿だよね。われわれ、現にここにいるのは、無限に死んだり生きたりしてきたからここにいるんじゃありませんか。これが瞬時的にそう一朝一夕に消えると思いませんね。

(「エロス―愛―死」、『国文学』1970年8月号、対談者・瀬戸内晴美)

   +

○小潟 たいていのわれわれの世界というのは循環的世界ですね。めしを食ってるのも毎日三度三度。入れては出してという繰り返しですね。
○稲垣 そうそう。
○小潟 そういう繰り返しがいかに持続しているかと。
○稲垣 けど、そういうことを言うと、永劫流転になってくるでしょう。そんなことはないですね。やはりぼくは一方的時間変化というものがあると思いますね。それを考えてるんですけどね。何でも循環ですよ。循環やけど、前とは違う、二回目は。三回目はまた違う。その循環してるものが、輪がつながったようになって円周をつくっている。そういうものがほんとらしいね。
○小潟 ずっとこう何かつながってるわけですね。ぐるぐる回って。
○稲垣 一ぺん回ってきたって、真剣に考えても、前と同じじゃないかというけど、同じじゃないでしょう。同じじゃないから回ったということが言える。でないと、回ったということもわからない。タイムマシンに乗って、未来か過去のほうにハンドルを向けてごらんなさい。ハンドル動かしてる時間、何の時間を使ってるんですか。そこに一方的変化がある。経験流というのに乗ってるわけや。

(「わが思索のあと」、『三田文学』1973年7月号、対談者・小潟昭夫)

   +

これを読む限り、どうやらタルホは、ぐるっと回って戻ってくる単純なリング状の時間ではなしに、ぐるぐる循環しつつ進む螺旋状の時間をイメージしていたようですね。その中で我々は輪廻なり、存在の連鎖なりを繰り返しているという感じでしょうか。

こうしたタルホなりの時間論が、彼の「思い出」や「郷愁」と結びついているのは確実だと思いますが、その結びつき具合は、今一度ゆっくり考えてみたいです。まあ、その辺はおいおいと。。。

_ S.U ― 2012年08月13日 19時32分03秒

足穂先生の対談のご紹介ありがとうございます。これは、彼が螺旋状の時間論を持っていたことは明瞭ですね。小潟氏との対談を見ると、論理が現代物理学的というかSF的でちょっと驚きました。足穂は子どもの頃、光の吸収だったかについて先生と大議論をしたことを書いていますが、彼はそういう経験的科学感覚を持っている人だと思います。また、おいおいと考えてみましょう。

_ 玉青 ― 2012年08月14日 22時10分54秒

ええ、そういたしましょう。
タルホ氏にならって、我々も同じことを倦まず論じているように見えて、実は螺旋状に進んでいるのだ…という具合にいきたいですね。(^J^)

_ S.U ― 2012年08月15日 13時27分09秒

>螺旋状
 だといいですが、私は同じ議論を繰り返していることにすら気づいていないので、やはり同一平面上になっている危険があります。

_ 玉青 ― 2012年08月15日 21時16分29秒

「何でも循環ですよ。循環やけど、前とは違う、二回目は。三回目はまた違う。」
(おっと、ここでエンドレスになるといけませんので、この件はこれで打ち切りにしませう。)

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