さらに石の物語を追って2019年06月04日 20時42分26秒

「石の物語」ということから、A.E.フェルスマン『石の思い出』を連想し、再読していました。

(堀秀道・訳、草思社、2005)

この本のことは、ずいぶん前に取り上げた気がするのですが、探しても該当記事が見つかりません。どうやら、私の脳内だけの紹介にとどまっていたようです。そんなわけで、改めてフェルスマンの登場です。

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ずばり、これは良い本です。
こういうものを本と呼び、こういう体験こそ読書というのでしょう。もちろん、これはその人の感覚に合う/合わないにもよりますが、私の個人的要因を差し引いてもなお、これは良い本といって差し支えないです。

これがどういう種類の本か、それは冒頭の「著者のことば」に最もよく表れています。

 「興味深い小説を読むときのように、“先に終わりを見てから一気に読みくだす”――このようにはこの本をお読みにならないでください。
 仕事をしながら、新聞を読みながら、ラジオの音楽を聴きながら、電話や仕事の話の合間に、この本をお読みにならないでください。
 そのかわり、ちょっとひと休みしたいとき、目新しい興味を得たいとき、一般に知られていない珍しい分野に浸りたいとき、このようなときに、ぜひ読んでいただきたい。
 『石の思い出』は、ある人生の歴史であり、自然へ寄せた風変わりな愛情の記録であり、五十年もの長い時間をかけて探りつづけた自然の秘密でもあります。〔…〕」

この本は暇のあるときに、のんびり読むのがふさわしいです。でも、「暇つぶし」に読まれるべきではなく、心で味わわれるべき本です。

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アレキサンドル・エフゲニェビッチ・フェルスマンは、1883年にペテルブルグで生まれ、人生の前半を帝政ロシアで、後半を革命後のソビエト連邦で送った鉱物学者です。亡くなったのは1945年、第二次大戦終結の直前で、この『石の思い出』は、まさにその没年に出ています。 <6月6日訂正: 邦訳が底本にしたのは1945年版ですが、『石の思い出』自体は、1940年初版の由>

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一連の物語は、老学者が炉辺で物思いにふけるシーンから始まります。
外はしんしんと降る雪――。老学者はその気配にじっと耳を澄ませます。

そこに湧き上がる思い出の数々。
そこから展開するエピソードの主人公は、フェルスマン自身のこともあるし、彼が他の誰かから聞いた話の再録の場合もありますが、いずれも過去のある時点で、フェルスマンがじかに接した思い出の数々です。

岩石と鉱物は、この碩学の人生を常に彩ってきました。
北の果てに住む老女から聞いた「サアーミ人の血で赤く染まった石」の伝説。愉快な鉱物採集の旅が、突如暗転した人間の心の闇。イタリアのエルバ島で極上のピンクトルマリンが採れなくなった理由を悲しげに語る古老の顔。天青石の瞳を持つ女性を詠った革命詩人…。温暖な黒海沿岸で、雪で覆われた北のコラ半島で、さらに遠い異国で、フェルスマンは多くの石の思い出とともに日々を送ってきました。

彼の透徹した観察眼は、大地にも人間にも向けられ、そのペンが描き出す美しい自然と、奥行きのある心理描写は、この本を実に豊かなものにしています。

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この本に深い味わいを与えているのは、すぐれた訳文の手柄でもあります。
訳者の堀秀道氏(1934-2019)については、今さら言うまでもないでしょうが、在野で長く活躍し、日本の鉱物趣味の普及発展に大きな力のあった方です。惜しくも今年の1月に亡くなられました。

堀氏は、フェルスマンのこの本を、すでに20歳のときに初訳されています(理論社、1956)。それを50年後に再訳されたのは、多くの読者の声に応えるためもありましたが、堀氏自身、この書に深い愛着があったからでしょう。

旧訳と新訳の間で、当然ことばの彫琢も加わっているでしょうし、堀氏自身の人生経験も重なることで、この本の味わいをいっそう深めています。

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かつてこの本に強い感銘を受けた私は、フェルスマンに会いに行こうと思い立ち…といって別にロシア旅行を企画したわけではなくて、例によってディスプレイの前に陣取って、いろいろいじましい画策を始めたのですが、それはまた次回。

(この項つづく)