チューリングの死から思ったこと2019年06月17日 20時36分31秒

今日は天文趣味とも理科趣味とも関係ない“時事放談”です。

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飛び切り斬新な発想で電子計算機の原型を生み出し、ナチスのエニグマ暗号機を打ち負かした天才数学者、アラン・チューリング(1912-1954)。その生涯を描いたのが2014年公開の映画「イミテーション・ゲーム」でした。
 
(16歳のAlan Mathieson Turing,、1912-1954、ウィキペディアより)

映画というものの性質上、あの作品はチューリングの複雑な人生模様を、かなり単純化して描いていたと想像しますが、彼がその華やかな活躍の後、同性愛者として当局の取り調べを受け(当時のイギリスでは、同性愛それ自体が罪でした)、強制的な治療を迫られた末に死を選ぶ…という結末は、非常にビターな印象を与えるものでした。

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当時のイギリス社会では、同性愛はまぎれもなく「異常な傾向」であり、「治療を要する病気」であり、そこに疑問を感じる人はいなかったように見えます。同性愛の「治療者」の中に、「善意」の人が少なからずいたことは、疑うことができません。彼らは、「当人もそれで苦しんでいるのだから、当然救ってやらなければならない」という強い信念に燃えて、その「治療法」を熱心に探ったはずです。

しかし、今の我々から見ると、当時の「おかしさ」がよくわかります。
今の文化基準では、同性愛は何ら異常なものではなく、「正常さのヴァリアント」に過ぎないし、同性愛にネガティブな態度をとる人がいることは依然事実にしても、それはもはや社会的に容認されない態度だからです。したがって、当時の「善意」も、もはや無条件で善と見なすことはできません。

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なぜこんなことを改めて書いたかというと、現在メディアで沸き立っている「ひきこもり」の議論を見て、似たような感想を抱いたからです。

現在、行政も、支援団体も、多くは「ひきこもりは、それ自体異常な行動であり、治療・矯正の対象である」ことを暗黙の前提として、対象と向き合おうとしています。

そのスペクトルは、「焦らず待つことが大切です」というソフト路線から、「連れ出し屋」のような無茶なものまで様々ですが、前提にあるのは、突き詰めて言えば、「ひきこもりは異常だ」という観念に他なりません。そして、「当人もそれで苦しんでいる(はず)だから、当然救ってやらなければならない」という強い信念のもと、「善意」の人々が、今日も有効な「治療法」や「矯正法」を求めて、熱心に議論を続けているのです。

もちろん「ひきこもり」の人の中には、「社会参加したいけど、できずに苦しんでいる人」もいます。そういう人に、社会参加に向けた支援をすることは必要です。まさに「ニーズあるところに支援あり」です。

しかし、本人がひきこもることに何の問題も感じてないとしたら…。
あるいは、さらに積極的にひきこもることを望んでいるとしたら…。

これは症状の「自我親和性/自我違和性」として、昔から知られている問題でもあります。そして、自我親和的な症状(=自分がそれに苦しんでいない症状)は、基本的に治療の対象とはなりません。ただ、社会防衛的観点から、時にそれが政治的マターになるだけのことです。(そもそも、それを「症状」と呼ぶべきかは、大いに議論の余地があります。)

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こういうと、「じゃあ、ひきこもりは、そのままでいいと言うのか?ひきこもったまま、一体どうやって食っていくんだ?」…という意見が、必発でしょう。

しかし、本人がひきこもりの状態に悩んでおらず、将来の生活の糧だけが心配の種だとすれば、そこに必要なのは本来「ひきこもり支援」ではなく、経済支援のはずです。

この点では、いろいろデメリットが指摘されているにせよ、ベーシックインカムの議論は避けて通れないでしょう。少なくともベーシックインカムの拠って立つ思想は、今一度考える価値があると思います。

ここでさらに「働かざる者食うべからず」のスローガンが登場することは、火を見るよりも明らかですが、このスローガンは、よくよく考えねばなりません。「働かざる者食うべからず」というのは、我々の常識に深く組み込まれているので、こう言われると、そこで思考停止状態になりがちです。でも、このスローガンには無数の例外があります。

働かなくても食べてる人、働いても食べられない人、働きたくても働けない人は、世の中に無数にいます。そもそも今の世の中、労働量と収入がまったく比例しないのは何故なのか、それはいかなる理由で正当化されるのか…とか、論点はいくらでもあります。

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いずれにしても、冒頭にかえって、同性愛をめぐる過去の軋轢と、現在進行中のひきこもりをめぐる軋轢の類似性に注目すると、この問題を考える上で、いろいろ見えてくるものがあるよ…というのが、私の個人的意見です。

もちろん、当事者の家族は苦しんでいると思います。そして支援を必要としています。
でも、それはかつての同性愛者の家族の苦しみと同質のものであり、その苦しみを生んでいる社会規範への批判を抜きに、単に苦しんでいるからと言う理由で、その苦しみを正当なものとすることはできないと思います。