夏至の夜、現実は溶け出す2019年06月22日 17時34分45秒



先日話題にした、フェルスマンの『おもしろい鉱物学』
堀秀道さんが訳された日本語版のコピー本を、せっせと作っていました。
これで、いつでも読めると一安心。

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最近はどうもボーっとしがちです。
ボーっとしているときは、考えがまとまらないので、記事も書けません。こういう心の流れに逆らうのは良くないので、こんなときは唯々ボーっとしているに限ります。

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でも、ボーっとしながらも、考えることがあります。


最近机の上に載っている2冊の本。

1冊はコマツシンヤさんの『午后のあくび』
帯を見ると、「ヘンテコなことがあぶくのように湧いてくる、ここは白玉町。この街に住むOLのひび野あわこさんの“うたかたの日々”を綴った、心にすっとしみこむ、キュートなショートマンガです。」とあります。

もう1冊は倉橋正直さんの『日本の阿片戦略』
こちらは、「国際条約に違反して、一大麻薬帝国を形成し、莫大な利益を得ていた戦前の日本!和歌山県、大阪府を中心に国内でも大量になされていたケシ栽培、中国への密輸出、軍の関与…。丹念な調査にもとづき、日本の阿片・モルヒネ政策の実情に迫る!」とあります。

最近ボンヤリ考えるのは、「この2つの世界は、どんなふうにつながっているのかな?」ということです。確かにこの2つの世界は、私という一人の人間が興味を持って手繰り寄せた世界ですから、私を仲立ちにつながっているのは確かです。それにしたって、両者はかなり異質の世界です。ひび野あわこさんと、戦前の阿片王・二反長音蔵(にたんちょう・おとぞう)に何か関係があるとは思えません。

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まあ、ふつうに考えると、阿片政策は過去の<現実>であり、白玉町は<ファンタジー>です。そして、ファンタジーに没入することは、「現実逃避」と呼ばれます。

この「現実逃避」という言葉は、「目の前の嫌なことに目をそむけて、空想の世界に遊ぶ」みたいな意味だと思いますが、明らかに悪口として使われることが多く、私も少なからず現実逃避の癖があるので、耳が痛いです。

でも、ここで反論を試みると、「現実逃避」という言葉は、「唯一絶対の現実」を暗黙の裡に仮定している点で、薄っぺらい言い方だと感じます。そして、「現実から逃げてはいけない」というときの「現実」とは、結局そうやって相手を責める人の「俺様の現実」に過ぎないんじゃないかなあ…とも思います。

人の数だけ「現実」はあるので、声の大きい人の現実を一方的に押し付けられることには、素朴な反発を感じます。

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白玉町は別にどこにあるのでもない、我々の住む世界の一部です。
ただし、我々の世界そのままではなく、それをコンデンスしたものです。優しさも、不思議さも、美しさもこの世界に現にあるものであり、コマツシンヤさんは、それを巧みにすくい集めたに過ぎません。その意味で、白玉町も、あわこさんも、たしかな現実です。

この世には、醜いものも、恐ろしいものも、卑しいものもたくさんあります。
それと同時に、聖なるものも、光り輝くものもたくさんあります。
それら(醜いものや、聖なるもの)を好んですくい集める人も、また大勢います。

芸術家も、宗教家も、歴史家も、科学者も、我々の世界にないものを作ることはできません。皆、その一部をすくい上げて、並べて見せることしか出来ないのです。昔の人は、「地獄も極楽も、どこにあるのでもない、すべてはただ人の心のうちにあるのだ」と言いましたが、それはまったく正しいです。

となると、あわこさんと、二反長音蔵はやっぱり関係があるのです。
関係というか、「連関」と「連環」が、そこにはきっとあるはずです。

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ボーっとしているので、自分でも論旨が分かりにくいですが、ここでフェルスマンに加わってもらうと、多少は分かりやすくなるかも。


現実が、常に醜悪で俗悪なものというのは、ひどい決めつけです。
現実が、フシギでステキなものでもあるのは、フェルスマンを読めば明らかです。
フェルスマンは、たしかに両者をつなぐ環のひとつです。

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一生懸命書いても、やっぱり頭がボーっとして、フワフワします。
別に阿片を吸ったわけではないんですが、早くも夏バテなのかもしれません。
この状態で、内容のあることを書くのは難しいので、ブログの方は、当分暑中モードです。