死を憶えよ2020年02月23日 13時47分28秒

 「神の子の化肉の1347年の10月初旬、12隻のジェノーヴァのガレー船が、彼らの邪悪なる行ないのゆえに主の下し給うた報復を逃れて、メッシーナの港にはいった。彼らの髄には有毒な疫病が潜み、彼らと話しただけの者もすべて死病に犯され、いかにしても死を免れ得る者はなかった。

 …メッシーナ市民はこの突然の死がジェノーヴァの船から出ていることを発見して、急いで出港することを命じた。しかし病毒は残り、死の恐るべき突発の原因となった。間もなく人々は互いに憎み合うことはなはだしく、息子が疫病に襲われても、父親は看病しようともしなかったほどであった。もしそれでも患者に近づくことをあえてすれば、直ちに感染し、三日以内に死ぬべく運命づけられるのであった。そればかりではなかった。患者と同じ家に住むものは、猫やその他の家畜ですらもが、彼の後を追って死んでしまった。…」

 フランチェスコ会修道士ミケーレ・ディ・ピアッツァは、ペストのヨーロッパの地への初の上陸を以上のように記述している。

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以上は、木間瀬精三・著『死の舞踏』(中公新書)の第1章冒頭の抜粋です。
もちろん新型コロナは、「邪悪なる行ないのゆえに主の下し給うた報復」などではありませんし(ペストだってそうです)、両者の病相は大いに違うのでしょうが、突発的な事態を前に動揺する人々の恐怖は、700年近く経っても、似たところがあるなと思いました。

ペストの襲来によって、イタリア・トスカーナ地方では全人口の4分の3、ないし5分の4が失われ、ドイツの諸都市でも半数以上の市民が死ぬところが続出、これによって徐々に解体が始まっていた中世封建社会は、決定的な打撃を受けたことが、木間瀬氏の本には書かれています。

ペスト禍は、文学や美術にも当然影響を及ぼし、「死の勝利」や、死者が生者とともに踊る「死の舞踏」をテーマとした作品が盛行しました。そして、人々は口々に「メメント・モリ(死を憶えよ!)」を叫んだのです。

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コロナ騒動の前から、個人的に「死」を近しく感じることがあって、「死の舞踏」に関連する品を、いくつか手にしました。そうしたものは今も大量に作られていますが、この場合はちょっと昔の匂いが慕わしいので、古めのモノを探しました。


上に写っているのは、1900年ごろ刷られた「死の舞踏」のカード。フランス南部、ラ・シェーズ=デューの修道院の壁に描かれた15世紀のフレスコ画が元になっています。


同じ図柄の絵葉書はたくさん残っていますが、これは裏面がブランクの三つ折りカードで、やっぱり土産物として売られたのでしょう。


15世紀から16世紀にかけて版を重ねた『死の舞踏』の諸書は、生の無常と死の避けがたさを説く一種の訓諭書で、同時代の精神生活に大きな影響を及ぼしました。上の画像はけっこう真に迫っていますが、いずれもオリジナルではなくて、19世紀における復刻版です。


ときに死は猛々しく、まったく容赦がありません。

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まあ、こんなふうに死に思いをはせながらも、モノにとらわれて執着するのは、我ながら死の教訓が心底身に染みてないせいでしょう。それでも、こういうものを飽かず眺めていると、無常の風が肌に冷たく吹き付けるのを感じ、眼前の混乱の向こうに、遠い時代の騒擾がありありと浮かんできます。