ハレー彗星来たる(その2)2020年02月02日 11時18分29秒

17世紀は「科学革命の時代」と持ち上げられますが、その一方で魔女狩りもあり、ペスト禍もあり、地球規模で寒冷な時期だったせいで、人々は素寒貧だったし、ヨーロッパの王様は戦争ばかりやってたし、まるで中世の再来のように暗い面がありました。

ハレー彗星は17世紀に2回来ています。すなわち1607年と1682年です。
それが人々の心にどんなさざ波を立てたのか、詳らかには知りませんが、1607年の彗星は間違いなく超自然的な凶兆だったでしょうし、1682年のときだって、程度の差こそあれ、人々を不安にしたことは間違いありません。

それが1758年になると、さすがは啓蒙主義の時代、ハレー彗星も「単なる科学ニュース」になっていた…というのが、前回書いたことでした。

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さて、その次は1835年です。
この間に、ハレー彗星のイメージはどう変わったのか?

1835年も、ハレー彗星は立派な科学ニュースでした。その点はたぶん同じです。
でも、それだけではありません。

このとき、彗星は新たに「ファッション」になったのです。
言い換えると、ここにきて彗星はにわかに「カッコいいもの」になったのです。これこそが、19世紀の新潮流でした。

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ブローチのデザインの一種に、「彗星ブローチ」というのがあります。

ジュエリー関係の人は、しばしば1835年のハレー彗星こそ、そのきっかけになったと語ります(これは主にeBay業者の言い分ですが、ハレー彗星コレクターであるスチュアート・シュナイダー氏も、自身のサイト「ハレー彗星は1835年に、彗星を記念する新しいジュエリースタイルによって歓迎された」と書いているので、おそらくそうなのでしょう。)

手元にあるアメシストのブローチも、1835年当時のイギリス製と聞きました。


イギリスではヴィクトリア女王が即位(1837)をする直前で、「ヴィクトリアン様式」のひとつ前、「ジョージアン様式」に分類される古風な品です。

この形は、一見どっちが頭(コマ)で、どっちが尾っぽか分かりませんが、いろいろ見比べてみると、どうも大きい方が頭のようです。我々は、写真に納まった“長大な尾を引く彗星”のイメージに慣れすぎていますが、たいていの彗星は、尻尾よりも頭の方が明らかに目立ちますから、素直に造形すれば、確かにこうなるわけです。

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その後も彗星ブローチは作られ続けました。


特に意識して集めているわけではありませんが、しばしば目に付くものですから、小抽斗の中には、新古取り混ぜて彗星ブローチがいろいろたまっています。そのデザインは千差万別で、人間の想像力の豊かさを感じさせますが、これは実際に彗星の形が多様ということの反映でもあります。

天空を翔び、胸元を飾るそのフォルムに注目した「彗星誌(Cometography)」を、いつか書きたいと思っているので、彗星ブローチの件はしばらく寝かせておきます。

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話を元に戻して、19世紀に入って、彗星がなぜ「カッコいい」存在になったかですが、その理由はしごく単純で、19世紀の幕開けとともに、一般のホビーとして「天文趣味」が成立し、それがファッショナブルになったからじゃないかなあ…と思います。

市民社会の成立は、多くのホビーを生み出しましたが、その中でも科学的装備をこらして、遥か天界の奥を窺う天文趣味は、何となく高尚で「カッコいい」行為となり、暗夜にきらめく星空はロマンの尽きせぬ源泉となりました(その流れは今も続いていると思います)。

中でも変化と動きに富む彗星は、まさに夜空のヒーローであり、その天空ショーがまた新たな天文趣味人を生むという好循環によって、19世紀は天文趣味が大いに興起した100年となったのです。


(次の回帰は1910年、ハレー彗星はいよいよ時代の人気者となっていきます。この項つづく)

ハレー彗星来たる(その3)2020年02月08日 18時20分04秒

1758年のハレー彗星は、科学ニュースとなりました。
1835年のハレー彗星は、科学ニュースであると同時にファッションとなりました。
では、1910年のハレー彗星はどうなったか?

それは科学ニュースであり、ファッションであり、さらに「コミックとカリカチュア」になったのです。1910年のハレー彗星をネタにした漫画は、文字通り無数にあって、枚挙にいとまがありません。世の中は市民社会から、さらに大衆社会となり、享楽的な気分が漂っていたことの反映でしょう。

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ここで、ハレー彗星をネタにした、一寸変わった品を見てみます。
大衆社会は消費社会でもあって、その申し子である百貨店が作った宣伝用カードです。

パリの有名なボン・マルシェ百貨店は、1852年の創業。

(下に紹介する品の裏面に刷られたボン・マルシェの威容)

消費社会では宣伝戦略がものを言いますから、同社も余念なく広告に力を入れ、19世紀から20世紀にかけて、同社は広告文化の一翼を担う存在でした。

1910年のハレー彗星は、格好の時事ネタをボン・マルシェに提供しました。
同社は、これを7枚シリーズの大判の色刷りカード(24.5×18センチ、オフセット印刷)に仕立てました。たぶん、買い物のオマケとして配ったのでしょう。

その内容はまさに時代の鏡です。これを見ると、1910年のパリ人が、1835年の父祖と我が身を比べて、どのように自己規定していたかが如実に分かります。

以下、順々に内容を見ていきます。まずはシリーズの第1番。


「75年ぶりに現れた愛らしいハレー彗星がしずしずと歩み寄り、パリの都がお出迎えです。」

左側の青いドレスの貴婦人はパリの擬人化、そして長い裳裾を引く右のピンクの麗人がハレー彗星です。美しい両人が75年ぶりに出会った場面を、ドラマチックに描いているのですが、まあこんな甘いお菓子のような表現は、フランス以外では生まれようがないでしょう。

この後、パリの都がハレー彗星を、あちこち案内するという体でストーリーが展開しますが、長くなるので以下次回。

(この項つづく)

ハレー彗星来たる(その4)2020年02月09日 10時41分43秒

1835年のパリと1910年のパリ―。

どっちにしたって「昔のパリ」だから、そんなに違わないんじゃないか?…と、私なんかは思ってしまいますが、その場にいた人に言わせると、「いや、全然違う」ということになるようです。

そもそもフランスの近代史は、非常に錯綜しています。
年表を見ると、1835年の直前に「復古王政」から自由主義的な「七月王政」が誕生し、そこからまた革命を経て「第二共和政」に転じ、その反動で「第二帝政」となり、その揺り戻しで「第三共和政」へ…というふうに、政体が目まぐるしく変わっています。そして1910年当時は、この第三共和政の世の中です。

でも、ボン・マルシェの彗星カードを見ると、そんな歴史の荒波は脇に置いて、1910年のパリ人は、ひたすら物質面の繁栄を誇り、彗星にもっぱらそのことをアピールする姿勢が目に付きます。


「(No.2)パリの都は愛らしい彗星に、機関車や自動車や自転車、電信と電話、首都のありさまを、急ぎ足でお目にかけます。いずれも彗星が前回訪れた1835年にはなかったものばかりです。」


「(No.3)パリの都はゴンドラに乗って、アレクサンドル橋とトロカデロ広場、そしてエッフェル塔を望む、花盛りのセーヌ川のほとりへと愛らしい彗星を案内します。これらの偉観は75年前には存在しませんでした。」

こんな風に、カードはやたらと「75年前にはなかった」ものを強調し、そうした新機軸を全肯定するのです。あたかも、当時の大衆の脳裏には、「この75年間で失われたもの」への懐古や郷愁など、全く存在しないかのようです。(実際はそんなこともないのでしょうが、歴史好きのフランス人にしても、当時の目覚ましい技術革新に、大いに幻惑されたのでしょう。)


「(No.4)パリの都は愛らしいハレー彗星に、美しいフランスの兵士たちとともに、飛行艦隊と最新の航空機を誇らしげに紹介します。これまた75年前にはなかったものです。」


「(No.5)パリの都は、75年前にはなかった壮麗なオペラ座が誇らしく、愛らしいハレー彗星に敬意を表して祝賀演奏会を催します。」

オペラ座はパリの華やぎの象徴です。そして、ボン・マルシェ百貨店自体が、オペラ座の建物をモデルに改装を行ったので(1887年)、この文化の殿堂には一目置いていたのでしょう。(同時代の日本にも、「今日は帝劇、明日は三越」のコピーがあったことを思い出します。余談ながら、小説『オペラ座の怪人』が新聞連載されたのが1909年で、単行本化されたのが1910年だそうです。)

それと、空飛ぶ彗星に対して、人間側も航空機の発明を自慢する…というのも、時代の気分をよく表しています。ですから次のカードでは…


こんなふうに、彗星を無理やり飛行機に乗せて、遊覧飛行までしてしまうのです。
向かう先は、もちろん我らがボン・マルシェ。

「(No.6)愛らしい彗星はこの75年間のことを何も知らないので、パリの都は彼女を驚かせようと、急いでボン・マルシェ百貨店に案内します。」


最後のNo.7はスペシャルカードで、30.8×23センチと、他よりも一回り大きいサイズになっています。カードの裏面の説明を読むと、このカードシリーズは、1910年5月1日から18日(彗星の尾が地球に達すると言われた日)までの期間限定で買い物客に配布され、このNo.7はたぶん最終日に配ったのでしょう。

 「いよいよ運命の5月18日。街を覆う赤い夕闇は、地球が炎に焼かれる最後の災いを意味するのでしょうか?いえ、これこそ1910年の彗星がもたらす輝かしい栄光のしるしなのです!」

ちょっとキャプションの文意がとりにくいですが、たぶんこんなことが書いてあるようです。彗星の尾の中には、さらに有翼の車輪に乗った彗星の女神がいて、彼女がもたらす豊かな恵みに、農民たちが歓呼の声を上げている…そんな場面を描いて、1910年の彗星騒動は、大団円を迎えたのでした。

何だか能天気な気もしますが、これが1910年の世の中でした。

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お次は、私自身も体験した1986年ということになるのですが、このころになると彗星の意味が拡散しすぎて、天文ファンを除けば、世間一般の関心は、今一つだった印象があります(その見え方もたいそう貧弱でした)。

でも、1986年に「松明のように燃えている大きな星」が空から落ちてきて、人々を大いにおののかせたのは事実です。ただし、その名は「ハレー」ではなく、ウクライナ語で「苦よもぎ」を意味する「チェルノブイリ」でした。春先のハレー接近の報など、4月のチェルノブイリ事故によって、すっかり世間の記憶や関心から吹っ飛んだ…というのが、個人的実感です。

 「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」 (聖書「ヨハネの黙示録」第8章第10-11節)

1910年のあと、人類は2度の世界大戦を経て、さらに巨大技術が引き起こした惨禍を目の当たりにしました。だからこそ、ボン・マルシェのカードが、いっそう能天気っぽく思えるのですが、反面そこにまぶしさと羨ましさも感じます。でも、我々はもう後戻りはできないですね。

『北越雪譜』の世界2020年02月11日 15時12分07秒

昨日は遅い初雪でした。観測史上、最も遅い初雪だったそうです。今年はもう雪が降らないまま冬が終わってしまうのか…と思っていたので、少なからず嬉しかったです。

これも毎年の言い訳になりますが、雪国の苦労をよそに、あまり能天気なことを言ってはいけないと自戒しつつ、やっぱり天から舞い降りる雪は世界を清め、人の心を慰めてくれるような気がします。

今よりも格段に雪に悩んだ時代だって、都人士にとって雪は文句なく風雅なものでしたし、雪国にあっても、雪という存在に民俗学的関心を集中させる知識人が現れたりして、彼らは頻々とそれを筆にしました。

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その代表が越後の鈴木牧之(すずきぼくし、1770-1842)で、彼の代表作が、有名な『北越雪譜』(初編、1835年刊)です。


手元の岩波文庫は、奥付を見ると1983年発行になっています(初版は1936年)。
この年、私は大学に進学して、慣れない東北暮らしを始めたのですが、その年の冬は記録的な寒さで、一週間も真冬日(=最高気温が0℃以下)が続きました(※)。「これは大変なところに来た…」と思って、急ぎ牧之の本を買い求めたように記憶しています。まあ、宮城は東北の中でも雪の少ない土地ですが、部屋の中でも吐く息が白い中で読むその文章は、実に身に迫って感じられました。

(※)念のため記録を確認したら、これは1984年2月4日から9日までの6日間で、厳密には1週間に満たないですが、その前後も最高気温は1℃台で、非常に寒い日でした。

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『北越雪譜』は有名な本ですから、今さら私が何か書く必要もないのですが、昔の思いを新たにしたのは、文庫本の下に写っている本を見つけたからです。


秩入りの『北越雪譜』複製本。



昭和44(1969)に、地元・新潟の野島出版というところから出ています。



これは非常によくできた、ほぼ完璧な複製本で、これを手にすれば、江戸時代の北越の風土が一層身近に感じられます。



ページをめくれば、挿絵の向こうには、吹雪にかき消される人々の悲鳴が聞こえ…


氷よりも冷たい幽霊の衣を透かして、白一色の世界がどこまでも広がっているのが見えます。

余滴2020年02月13日 06時23分36秒

今朝、ふとんの中で考えたこと。

私は安倍晋三という人が嫌いなんですが、その嫌いという思いは、どこから来るのか?単に感情的に嫌うばかりでなく(もちろん嫌いというのは感情なので、感情的で当然なのですが)、もうちょっと考えてみると、そこに2つの思いがあることに気づきました。

ひとつは、民主主義というシステムの部品として、彼はあまりに粗悪で、役に立たないという思いです。役に立たないというか、積極的に害をなしている。

でも、自分の言葉を反芻して、これは良くないと思いました。
人間を役に立つ、立たないで選別して、立たない者をさげすむのは、私自身がかつて問題視した「生産性の議論」を、自ら進んで行うことになります。そして、たとえ制度疲労が言われたとしても、私は民主主義を支持するし、私が理解する限りにおいて、民主主義はそんなふうに人間を有用性で序列づけることを拒むはずですから、これは完全に自家撞着です。

ですから、私は安部という人を「無能力だから」という理由で責めることは、やめようと思います(もちろん、個々の政策に賛否を表明することはします。それは好悪や軽蔑とは次元の違う話です)。

では、「2つの思い」のもう1つとは何か?

もし、安部という人が、「私は自分の持てる力のすべてを使って、その使命を果たそうとした。でも、結果的に私の力では、十分その使命を果たすことができないと分かった。だから、私は、よりふさわしい人に職を引き継ぐべきだと思う」…そう述べたのであれば、私はその能力の不足をあげつらうことは勿論しませんし、その決断を、大いに尊敬できると思います。

でも、彼は決してそうではない。
我欲にとらわれ、権勢を欲し、そのために嘘を重ね、他を貶めることも平気でする。
この点において、安部という人を認めることはできません。彼は、清廉潔白な君子でないのはもちろん、世間一般の誠実さや真面目さを全く欠いています。およそ為政者の立場に身を置いてはならない人だと思います。この意味で、私はやっぱり安部という人が嫌いです。

塔のある小さな天文台2020年02月14日 06時35分06秒

昨日の今日ですが、どうも安倍氏の言動に「狂壊」の二文字を感じる…とごちつつ、本文に取り掛かります。

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小さな天文台への憧れが、自分に中にあります。

それは、自分がその天文台の主となって、現代の隠修士のように夜ごと空を眺めて、思索にふける…みたいな、何となく「中二病」的夢想が依然としてあるからです。一時は、それを実現可能の如く考えて、ドームメーカーの販促ビデオを取り寄せて、飽かず眺めるほど脳が沸き立っていました(ゼロ年代初頭の話です)。

冷静に考えれば、資金面ばかりでなく、それが不可能なことはよく分かります。ですから、憧れは憧れのままにして、今は「天文古玩」の看板を掲げて、星ごころを満足させる品をせっせと集めて、せいぜい思索だけは存分にふけることにしているわけです。思索はタダだし、どんなに珍妙な思索でも、一人でふける分には罪がありませんから。

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そんなわけで、天文台の絵葉書でも心を惹かれるのは、やっぱり小さな天文台です。


この天文台もいいですね。山荘風というか、山塞風というか、石造の塔のてっぺんに乗ったちょこんとしたドームもいいし、小窓をうがった大屋根もいいです。本当にこんなところで星を眺めたり、炉辺で本を読んだりできたらなあ…と思います。

ところで、この天文台の正体は、ついさっきまで知らずにいました(絵葉書の表面にも、裏面にも、それを示す文字はありません)。こうして記事を書くために、初めて調べる気になったので、これもブログの功徳のひとつです。

調べる前は、それこそディープな天文マニアか、地元の天文クラブが運営しているような施設かな?と思ったのですが、実際は違いました。


オーストリアの切手が貼られているのを唯一の手掛かりに検索したら、その正体はじきに知れました。すなわち、オーストリアの南部、イタリアやスロベニアとの国境に近いトレフェンの町にある、「カンツェルヘーヘ太陽観測所」。グラーツ大学に付属する施設です。


■Observatorium Kanzelhöhe公式サイト

ここはその名の通り、もっぱら太陽を観測対象としており、地球にまで影響が及ぶ太陽活動の変化を24時間体制で監視し、「宇宙天気予報(space weather forecasts)」を行っている施設だそうです。

上の切手の消印は、戦後の1947年7月付ですから、絵葉書の方もそんなに古いはずはありませんが、施設のたたずまいからして、その創設は19世紀に遡るんじゃないか…と漠然と想像していましたが、実際にオープンしたのは1943年で、割と新しい天文台。したがって、上の絵葉書はまだオープンして4年目に投函されたものです。

現在も、その愛らしい姿は変わりません。


まあ、当初夢想したような呑気な場所ではなくて、ここは非常に実際的な任務をこなす施設だったわけですが、私は気象観測に対する憧れも強いので、この「宇宙測候所」は二重の意味で素敵に感じられます。


【付記】

無邪気に「愛らしい」と言っても、創設された1943年は第二次大戦の真っ最中、そしてオーストリアはナチスの支配下にありましたから、ここにも何か戦争の影が差しているんじゃないか…と思って検索したら、果たして以下の記述に行き当たりました(適当訳)。

 「カンツェルヘーヘ天文台(KSO)は、第二次世界大戦中、ドイツ空軍によって観測所網を構成する一施設として設立され、電波伝搬に関連して、地球の電離層のリアルな状況をより的確に評価するため、太陽活動に関する情報を提供するものと期待された。」  (出典: https://arxiv.org/abs/1512.00270 )

呑気とはいよいよ遠ざかっていきますが、ここを積極的に呑気な(あるいはキナ臭さの感じられない)場所として維持することは、太陽観測と並び立つ重要な仕事だと思います。

何をどう正しく恐れるか2020年02月15日 10時53分43秒

新型肺炎、COVID-19との関連で、「正しく恐れよ」という言い回しを耳にすることが増えました。このフレーズは前から気になっていて、これって何か言っているようで、結局何も言ってないですよね。

その出典を探すと、ネットはたちどころに教えてくれて、これは寺田寅彦の言葉がもとになっているんだそうです。

ハザードラボ/防災用語集「正しく恐れる」とは

大元は雑誌『文学』の昭和10年11月号に掲載されたもので、岩波の『寺田寅彦随筆集』だと、第5巻に収録されている「小爆発二件」という短文がそれ。


内容は、同年(1935)8月に、浅間山で起きた二度の小噴火を見聞きした際の所感を記したもので、青空文庫から関連部分を転載させていただくと、以下の通り。

これは8月4日の朝、滞在先の軽井沢でその爆発音を耳にした直後、東京に戻ろうとした際、彼が駅で実際に経験したことです。

 「十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅間のふもとまでおりていたからなんのことはなかったそうである。その時別に四人連れの登山者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。

 ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。」 
(太字は引用者)


おっちょこちょいの学生と、思慮深い駅員の対比が印象的ですが、一読して分かるように、寺彦の主眼は「こわがらな過ぎ」ることへの戒めにあります。「こわがり過ぎ」ることへの注意喚起は、どちらかと言えば付けたりでしょう。ですから、最近ありがちな「無暗にこわがるな」という意味合いで、「正しく恐れよ」と言い立てることは、寅彦の本意から一寸ずれたことになります。単なるムードメーキングのために、「そうビクビクするな!」と言うだけなら、むしろそれは「こわがらな過ぎる」ことの例になってしまいます

このフレーズの最大の問題は、ではどうすれば「正しく恐れる」ことになるのか、さっぱりわからないことで、それ自体情報量はゼロです。そんな空疎な言葉よりも、具体的な事実を教えてくれた方が助かるし、それでこそ「専門家」の金看板が光ろうというものです。

(なお、引用文中の伏字は原文のまま。たぶん当局の対外政策に対する批判的言辞がダメ出しをくらったのでしょう。)

天文聖遺物2020年02月16日 12時21分29秒

一昨日の「カンツェルヘーヘ太陽観測所」でいちばん目立つ存在である「塔」。
あそこが太陽観測所ということは、これは要するに「太陽塔望遠鏡」なのかもしれません。太陽塔望遠鏡とは、塔自体が鏡筒の役割を果たし、複数のミラーによって塔の頂部から底部まで太陽光を導いて、そこで詳細な観測を行うというものです。

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東京天文台(現在は「国立天文台三鷹キャンパス」が正式名称)にも、昭和初期に完成した、立派な太陽塔望遠鏡がありました。「ありました」と過去形で書くのは、すでに望遠鏡としては運用を終えているからです。


■国立天文台:太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔)
 (動画のナレーションは三石琴乃さんで、妙に金がかかっています。)

濃い緑の中に経つレンガ色の建物は、実に風情があるものです。
当初は相対性理論の検証を目指して建てられたこの観測施設も、戦後は太陽磁場や太陽フレアの観測をもっぱら行っていたそうなので、カンツェルヘーヘとその役割は一緒です。


そこでかつて使われた碍子とタイルが、私の机辺にあります。
そこに往時の観測家の奮闘や、先賢の理知の営みを想像して随喜する…。

これらは文字通りの瓦礫ですから、それ自体美しいとも言いかねるし、モノ自体に星ごころがみなぎっているわけでもないんですが、こういうのは、キリスト磔刑の十字架の破片や、キリストの遺骸を包んだ布のきれっぱしなんかを、無暗に有難がる「聖遺物信仰」と同じです。

まあ、あまり意味のある行為ではないですが、私はこういうのが結構好きで、これぞ聖遺物という逸品が他にもあります。

(この項つづく)

ヤーキス天文台の聖骸布2020年02月17日 06時37分26秒

(昨日のつづき)

シカゴ郊外に聳え立つシカゴ大学・ヤーキス天文台


史上最大の屈折望遠鏡を備えた巨大な建物は、まさに近代を制覇したアメリカ帝国が、ウラニア女神にささげた壮麗な宮殿の趣があります。小さい天文台に憧れると言ったそばから何ですが、茶室の美を良しとする人が、同時に姫路城に感嘆してもいいわけで、ヤーキス天文台の偉容は、文句なしにすごいです。

しかし、この宮殿も老いは免れがたく、近年は閉鎖と存続の間を絶えず揺れ動き、それに関連したニュースを耳にすることが多いです。結局のところ、現在どうなっているのか、英語版Wikipediaをざっと見たんですが、やっぱりよく分かりませんでした。所有者であるシカゴ大学と、創設時に大枚を出資したヤーキス家、そしてヤーキス未来財団とが、存続に向けてややこしい交渉を今も続けているようです。

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1897年に献堂式を執り行ってから、ちょうど100年後―。
1997年の夏に、同天文台の大規模な改修が行われ、外壁のテラコッタ製タイルの交換が行われました。その際、古タイルの大半は捨てられてしまいましたが、完品のまま取り外された一部のタイルは、修理費用を寄付した人に、記念品として贈られました。(日本の大寺院の修復でも、似たようなことをやりますね。)

手元のタイルはその時のもので、これを譲ってくれたのは、同天文台のスタッフである Richard Dreiser 氏です(と言って、別に氏とは知り合いでも何でもなくて、氏がたまたまeBayに出品していたのです)。


タイルの長辺は20cm、短辺は14.5cmほどあります。肉厚の煉瓦質のタイルです。


上の写真だと、金属製ドームの直下にぐるっと手すりを巡らせ、壁に3つの正方形の窓が見えます。このタイルが取り付けられていたのは、この窓の上部、ちょうどドームと接する部分だ…というのが、ドレイサー氏の説明です。


裏面と側面には、製造時に押された数字と記号がくっきりと残っています。


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2018年、これがひょっとしたら、ヤーキス天文台を見学する最後のツアーになるのでは?…と、急ぎ記録されたのが以下のページです(実際、今もツアー中止状態が続いています)。ここでツアーの案内役をつとめているのが、ドレイサー氏本人。

■Yerkes Observatory in William’s Bay-Our Last Tour

ヤーキス天文台に行ったことはありませんが、リンク先の動画を見ると、まるでその場にいるような気分になります(ドームで音声が反響して、エコーがかかっているのがリアルに感じられます)。いえ、気分だけじゃありません。何せ「本物のヤーキス天文台」(の一部)が、今こうして手元にあるのですから、これはもう行かずして行ったようなものです。

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巨人望遠鏡は天文台をしろしめす聖なる主であり、建物はそれを包む布。
まあ、この場合、聖骸布の一部を無意味に有難がるよりも、巨人望遠鏡とその住居が、これからも長く地上に聳え続けることの方が大事なので、ぜひ交渉が円満にまとまってほしいです。

雪のヤーキス天文台2020年02月18日 20時44分28秒

今日はあちこちで雪が降ったそうですが、私の町は蚊帳の外でした。
そうなると、ちょっぴり残念な気持ちがします。


雪のヤーキス天文台。
一面の銀世界の中にそびえる大ドーム。
まだ完成間もない1900年代初頭の光景です。

石版手彩色の色も爽やかだし、なかなか絵になる光景ですね。そして、絵になるばかりでなく、実にすがすがしい。「雪ぐ」と書いて「すすぐ」と読むように、真っ白な雪は、濁世の汚れを洗い清めてくれるような気がします。


雪の林野は、静かなようでいて、にぎやかにも感じられます。
その奥に動・植物の息遣いを感じるし、雪を目にした幼い日の心の弾みが、なにがしか甦るからでしょう。