桜図譜のはなし(3)… 佐野藤右衛門『桜』(後編) ― 2020年04月08日 19時11分16秒
「畢生の大作」という言い回しがあります。
「生涯を通じて最高の大作」という意味です。
著者・佐野藤右衛門(以下、物故者は敬称略)にとって、本書がまさにそれだと思います。本書は著者の還暦記念出版であり、当時のことですから、60歳ともなれば、死をごく身近に感じて、その出版を急いだと想像します。
だからこそ、本書の完成は著者にとって格別喜びに満ちたものであり、政治家で旧子爵の岡部長景、ノーベル賞学者の湯川秀樹、京都市長の高山義三、造園界の大立者である丹羽鼎三や井下清…といった紳士貴顕の寄せた序文が、巻頭をずらっと飾るのも、その晴れやかさの表れでしょう。
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図鑑というのは、たいてい多くの人の協力によって出来上がるものですから、ふつうの本とは違って「誰それが著者だ」と、スパッと言い難いことがあります。この『桜』の場合も、桜の原図を描いたのは、日本画家の堀井香坡と小松春夫であり、本文の学術解説を書いたのは、当時国立科学博物館にいた大井次三郎(植物学)です。
では、著者とされる佐野藤右衛門はいったい何をしたのか、何もしてないじゃないか…と思ったら大間違いで、この本は、すべて彼の企画・発案になるものであり、掲載の桜は、ことごとく彼と、その父親である先代藤右衛門が、全国を桜行脚して収集し、手ずから育てた、我が子にも等しい木々なのです。本書は、多くの苦労を伴って成し遂げられた、その偉業の集大成であり、まさに記念碑的著作。
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「佐野藤右衛門」の名は、「現代の桜守」としてマスコミに登場することが多いようです。佐野家は「植藤(うえとう)」の屋号で、江戸時代から造園業を営む家で、マスコミで拝見することの多い当代の藤右衛門氏(1928-)はその16代目。御年90歳を越えて、なお壮健と聞き及びます。
そして、『桜』の著者である藤右衛門は、そのお父さんに当たる15代藤右衛門(1900-1981)です。
(左・15代、右・16代藤右衛門氏。父子だけあって面差しが似ていますね。左は『桜』掲載写真、右は講談社刊・『桜守のはなし』表紙より)
造園業者であれば、桜の木を扱うことも多いでしょうし、「桜守」の名も別に突飛な感じはしないのですが、佐野家が深く桜に関わるようになったのは、さらに一代遡って、14代藤右衛門(1874-1934)の代からで、その時期は大正15年ですから、「植藤」の家業の中では、わりと後発の仕事に属します。
(昭和5年(1930)、藤右衛門が育てた実生の山桜の中から見出された八重咲き品種。親交のあった牧野富太郎によって「佐野桜」と命名されました。)
そのきっかけは、大正6,7年ごろ、大典記念京都植物園(現・京都府立植物園)に、植藤から植木を納入した際、そこの主任技師であった寺崎良策と知己になったことです。寺崎はその後東京に転じて、荒川堤の桜育成に関わり、さらに日本の桜品を一か所に集めた名所作りに奔走していたのですが、人世無常なり。
「ところが、大正十五年はからずも寺崎氏の訃報に接し、父は急遽東上して良策氏の令兄新策氏に会った。新策氏は「弟は自分の遺志をつぐ者は京都の佐野しかいない」という遺言を父に伝えた。父は感激して必ず微力をつくすことを誓い京都に帰ると、私を呼んで「おれはこれから桜の蒐集をやる。お前はわしに代って家業のかたわら桜の栽培をやってくれ」と言った。
以来父は桜を尋ねて全国を歩き廻り、私は家業と共に桜の栽培に力をそそぐことになった。」 (本書巻末掲載の「さくら随想」より「桜を知る」の章より)
以来父は桜を尋ねて全国を歩き廻り、私は家業と共に桜の栽培に力をそそぐことになった。」 (本書巻末掲載の「さくら随想」より「桜を知る」の章より)
…という次第で、昭和9年(1934)に14代が亡くなると、こんどは当時34歳の次代が15代となり、内地はもちろん樺太、朝鮮、満州までも足を延ばし、蒐集行を続けました。
桜の蒐集というのは、既に知られた各地の名木を分けてもらうとか、そんな生易しいものばかりではなく、走る汽車やバスの中から、民家の軒先でもどこでも「これは!」という桜を見つけると、翌年二月ごろ、記憶をたどって再度尋ねていき、接ぎ木用の穂(枝先)を譲ってもらうという、大変手間のかかるものでした。1回の旅で5~6種の収穫があったそうですが、その接ぎ木にも家伝のコツがあって、
「接木は夫婦協力するのが、イキが合うといのかきわめて活着率がいい。あたかも子供を育てるようなものである。私は桜の接木には格別苦労しているが、接木を終ったあとで雨でも降ると、夜中であろうと一家中が飛び起きて、雨覆いをするやらいろいろと手配をする。第三者から見ると気狂い沙汰と思われるかも知れないが、それほどにしなければ最良の結果は挙がらぬものである。」 (同)
その後、まもなく戦争の時代がきて、当初こそ軍部の御用で、中国大陸への桜植樹に従事したりしたものの、戦況の悪化とともに「植木職人も続々と徴用され、桜などにうき身をやつす者は国賊呼ばわりされる世情」となり、言うに言われぬ苦労を重ねられた末、「敗戦後二年ばかりはそういう私すら桜に関心を失ったくらいである」と、15代は述懐しています(同・「戦争を中心として」より。余談ながら、この辺の心情は、敗戦とともに一時星への関心を失った野尻抱影のことを思い起こさせます。)
戦後、世の中に落ち着きが戻るとともに、再び桜蒐集に取り組んだ結果が、6千坪の土地に植わった250種、3万本の桜たち。その中から代表的なものを100種余り精選して編んだのが、この大著『桜』です。ここで冒頭に戻って、本書をあえて15代藤右衛門「畢生の大作」と呼ぶ理由もお分かりいただけるでしょう。
(大島桜)
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花あれば人あり。人あれば書物あり。
そして、そこにはまた歴史とドラマがあるわけです。
(この項つづく。閑語も弁ずべきこと多々。)
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