野間仁根とタコと星(前編)2024年09月27日 14時10分15秒

前回、野尻抱影の『星三百六十五夜』を採り上げた際、その挿画を担当した野間仁根(のまひとね/じんこん、1901―1979)の名前がチラッと出てきました。

(初版(1955)・表紙絵)

(同・タイトルページ挿画)

(その後、恒星社版の外函デザインにもなった双子座の図)

これら童画風の絵が上手いのかどうか、なんとなく素人目には下手にも見えますが、野間は専門的な画家修行を経て、独自の画風を追求した末に、こうした画境に到達したので、見る人が見れば、やはりそこに優れた芸術性があるのでしょう。

その経歴をウィキペディアの記述を切り貼りすれば、以下の通りです。

 「大正~昭和の洋画家。明るい色彩の瀬戸内海の油絵で知られる。愛媛県伊予大島の津倉村(現・今治市)で生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)に学ぶ。1928年(昭和3年)の第15回二科展に出品した『夜の床』で樗牛賞を受賞。1933年(昭和8年)に二科会へ入会。1955年(昭和30年)に二科会を去り、一陽会を創設。釣りと海を愛し、東京に転居後も故郷・瀬戸内の海を描き続けた。画業を通じて熊谷守一や藤田嗣治と、挿絵の仕事等を通じて井伏鱒二や川端康成などと交流があった。」

抱影が自著の挿絵を野間に依頼した事情は、『星三百六十五夜』の初版「あとがき」に簡潔に記されています。

 「野間仁根氏は瀬戸内海の魚介と、併せて星を描くことでは画壇第一人である。私は十年前、この書のプランと共に、氏を意中の人に選んでゐた。遂にその望みがかなって、十二ヶ月の扉画と美しい装幀もしていただけたことは喜びに堪へない。また、これによってこの著に海の星の新鮮な息吹をも加へることができた。」

さらに、『野尻抱影伝』には、抱影と野間の交友のきっかけを伝える私信が引用されており(p.226)、両者の出会いは、1950年(昭和25)にさかのぼるようです。

 「二、三日前、銀座へ出て、二科で星の画を多くかいている野間仁根といふ人の画会を見ました。瀬戸内の大島の人で、ぼくの本からその趣味に入ったさうで、ひどく喜んでくれ一時間近く話しました」(中野繁宛、昭和25年10月24日)

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そして野間は、抱影の『星三百六十五夜』ばかりでなく、賢治の『銀河鉄道の夜』初版本の装丁と挿絵も手がけています。


日本の天文趣味史における最重要著作2冊を、その筆で飾ったのですから、彼は海の画家であるばかりでなく、抱影も言うように「星の画家」と言って差し支えないでしょう。

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野間のことが気になったのは、草下資料にもその名を見出したからです。
些末な話題のような気もするのですが、ここは興味の赴くままに筆を進めます。

(この項つづく)