黒い太陽の幻 ― 2025年06月17日 19時19分37秒
今から27年前、1998年の8月11日。
イギリスの人たちは、92年ぶりに国内で皆既日食が見られるというので、大いに活気づいていました。下はそれを記念する絵皿。
(径20.5cm)
このときの皆既帯は、グレートブリテン島の西南端に位置するコーンウォール地方を通過しました。皆既帯の中心に位置するセント・モーズ村では、11時11分31秒から11時13分37秒まで、2分と6秒の天体ショーが見られることを、絵皿は詳細に告げています。
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(皿の裏面)
この皿を作ったのは、地元コーンウォールの陶磁器メーカー「Cornish Ceramics」社で、同社の所在するセント・アイヴスの町も皆既帯の中心に近かったので、絵皿づくりにも一層力がこもったことでしょう。(ちなみに、セント・アイヴスは古くから素朴な器が焼かれた土地で、濱田庄司とバーード・リーチが日本式の登り窯を築き、民藝的作品をせっせとこしらえたのもこの町です。)
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皆既日食はいつだって「ああ!」という嘆声に包まれています。
ひとつは、神秘の黒い太陽と壮麗なコロナに対する「ああ!」
もうひとつは、雲に隠れた太陽を見上げての「ああ!」
このときも、大勢の人がコーンウォールに詰めかけ、BBCも中継のため現地入りしたのに、非情な雲は人々の口から嘆きの「ああ!」を漏らさせるのみでした。コーンウォールの人も、こんな記念のお皿まで作って楽しみにしていたのに、まったく残念なことでした。
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雲は勝手気ままな気まぐれ者。
しかしその雲を生み出し、動かしているのは他ならぬ太陽ですから、太陽がそれを望んだのだ…と思って、ここは納得するしかないかもしれません。
あれがポラリス ― 2025年06月15日 11時47分54秒
昨日の品からの連想ですが、星石先生の蔵書印と一寸似たものが手元にあります。
(全長78mm。私の手と比べたら、ちょうど中指の長さと同じでした)
まあ、見た目はご覧のとおり全然似てないんですが、似ているのはその機能です。
このデコラティブな金属細工の先が、やっぱり印章になっているのでした。
これは書状を蝋封するためのシーリングスタンプで、たぶん19世紀の品でしょう。
スタンプのヘッドはオニキス(縞めのう)を陰刻したものですが、ここまで寄っても図柄が分かりにくいので、購入時の商品写真をお借りします。
(コントラスト調整+左右反転画像)
星を指し示す手と「Bear」の文字が、約1cm四方の石面にきっちり彫り込まれています。
何となく謎めいた図柄で、その意味するところは想像のほかありませんが、その文字はたぶん持ち主が「Bear」家の一員であることを示すものでしょう(Bear という姓は特に稀姓ではありません)。
そしてその名前から「天空の熊」、すなわちおおぐま座・こぐま座(英名は Great Bear と Little Bear)を連想し、それを北極星を指し示す手として表現したんじゃないでしょうか。そこからさらに、“我らBear一族は、常に志操の極北を示す指針たらん”…とまで説教臭い意味をこめたかどうかは分かりませんが、でもヴィクトリア朝の人だったら、それぐらいのことは考えたかもしれません。
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大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
上の想像の当否は不明ですが、賢治の「星めぐりの歌」を聞きながら眺めれば、ここにも天文古玩的情趣が流れるのを感じるし、そしてこの品もまた星と石の取り合わせであることを、天上の星石先生に報告したくなるのです。
星石先生の書斎へ ― 2025年06月14日 09時28分36秒
宋星石(1867-1923)にほれ込んだ結果として(ほれ込んだのはその作品というよりも名前ですが)、その後さらに星石の蔵書印を手にしました。
(持ち手を除く高さは52mm)
この小さな「岡持ち」のような木箱に入っているのがそれです。
蓋には 「山陽翁遺愛 印材」 の墨書があって、
けんどん式の蓋を開けると…
蓋の裏にも墨で箱書きがあります。
「壬寅春日贈呈 星石公以為好 頼潔(印)」
併せ読むと、この印は江戸時代の学者・文人である頼山陽(らい・さんよう、1781-1832)が大事にしていた印材を使ったもので、印材の贈り主は山陽の孫にあたる頼潔(らい・きよし、1860-1929)、贈ったのは壬寅の年、すなわち明治35年(1902)の春です。二人はほぼ同時代を生きた人で、生年は頼潔のほうが星石より7歳年上。「星石公以為好」とありますから、贈られた星石も大いに喜んだのでしょう。
もみ紙に包まれたその印は…
こうした不思議な形状のものです。
私は最初「印材」とあるので、「石印材」を想像したのですが、実際には印面も含め総体が金属製(古銅)です。雰囲気的には、骨董界隈でいう「糸印(いといん)」【LINK】に似ています。
あるいはこれはまさに糸印そのものであり、元の印面を磨りつぶして「印材」として山陽が手元に置いていたのかもしれません。
よく見ると印面の側面にも銘が彫ってあり、そこには
「山陽翁遺愛 星石先生得之蔵(1字不明)刻 時甲辰夏日」
とあります。これによれば、印が彫られたのは、甲辰=明治37年(1904)の夏、すなわち印材を贈られてから2年後に、星石はそこに刻を施したことになります(ここで星石が自ら「星石先生」と称するのは奇異な感じもしますが、「先生」には師匠や偉い人の意味のほか、「自ら号に連ねて用いる語」という用法があって(大修館『新漢和辞典』)、ここもおそらくそれでしょう)。
印に彫られた文字は「藏之名山」(之を名山に蔵す)。
司馬遷の『史記』冒頭の「太史公自序」(太史公とは司馬遷のこと)にある「藏之名山 副在京師 俟後世聖人君子」に由来する文句です、明治書院のサイト【LINK】によれば、「この書の正本は帝王の書府に収めて亡失に備え、副本は京師に留めおいて、後世の聖人君子の高覧を俟ちたいと思う」という意味だそうです。
今日の記事の冒頭、この品を「蔵書印」と呼びましたが、それは売り主の古書店主の言い方にならったもので、本当に蔵書印かどうかは分かりません。自作に捺す普通の引首印や落款印だったかもしれないんですが、印文の意味を考えると、まあ蔵書印とするのが妥当だろう…と推測されるわけです。
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この品を見ていて思い出すシーンがあります。
漱石の「草枕」(1906)で、主人公の画家が、逗留中の宿の隠居から茶を振る舞われる場面です。その場にいるのは、他に近所の禅寺の和尚と、隠居の甥にあたる20代半ばの若者、久一(きゅういち)の4人。
隠居は正統派の煎茶をたしなむらしく、上等の玉露を染付碗にごく少量注いで出し、その後は隠居と和尚の骨董談義がにぎやかに続きます。床の間には荻生徂徠の書、古銅の花器には大ぶりの木蓮、そして目玉は隠居が秘蔵する頼山陽遺愛の硯です。この「山陽遺愛」という点で、手元の品と連想がつながるのですが、ともあれ江戸の文人趣味が、明治の後半、日露戦争のころまでは、十分リアリティをもって人々に共有されていたことが分かるシーンです。
とはいえ、それもある一定の世代までです。
若者代表の久一は、隠居から「久一に、そんなものが解るかい」と聞かれて、「分りゃしません」とにべもなく言い放ち、日露戦争で出征が決まった彼を一同が見送る中、久一の死を暗示する描写で物語は終わります。
時代は容赦なくずんずん進み、日本も急速に重工業化し、頼山陽の時代は遠くに霞みつつありました。手元の印材に星石が熱心に印刀をふるったのも、ちょうど同時期です。
宋星石は夏目漱石と同い年になりますが(慶応3年=1867生まれ)、南画やら文人趣味というのも、彼らの世代をもって終焉を迎えたんじゃないかなあ…というのが、個人的想像です。
(星石と漱石)
もちろん今でも煎茶をたしなむ人や、文人趣味を標榜する人はいますけれど、その精神はともかく、肌感覚において往時とはずいぶん違ったものになっているはずです。ネット情報を切り貼りして、何となく文人を気取っている私にしても又然り。
寂しい気はしますが、それこそが抗い難い時代の変遷というものでしょう。
Once Upon a Time in America ― 2025年04月01日 21時28分15秒
年度替わりを口実にブログの更新をさぼっていましたが、更新が滞っていたのはそればかりではなく、和骨董に関心が向いていたというのも大きな理由です。というのも、ふとした出来心から七夕関連の品を探しはじめ、そこから「乞巧奠」の話題へ、さらに冷泉家の年中行事へと関心が横滑りして、しばし天文のことが頭から消えていたのでした。
とはいえ故郷忘じがたく、一通り外の世界を眺めれば、心はやはりなじみの世界に戻ってきます。
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上の写真は暗くてちょっと分かりにくいですが、
こうすれば一目瞭然ですね。
これは、パロマー天文台の200インチ望遠鏡を収めた大ドームをかたどった塩・コショウ入れです。
この品、小さいなりによく出来ていて、脇っちょには階段のついた出入り口もあるし、
かすかに覗く大望遠鏡の気配も、なかなか真に迫っています。
しかし、この品が興味深いのは、そうした造作ばかりではありません。
底面や側面に鋳込まれた「JAPAN」の文字が見えるでしょうか。
これはおそらく1950~60年代に日本の町工場からアメリカに輸出され、2025年に帰国したばかりの「里帰り品」なのです。
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1948年に完成し、その後も長く世界最大を誇ったパロマーの大望遠鏡。
それはアメリカが圧倒的な影響力を世界に及ぼしていた時代の象徴に他なりません。そして当時の日本は、こうしたこまごましたものを輸出して、必死に外貨を稼ぐ国であった…というのが、問わず語りに伝わってくるのが、この品のひとつの見どころじゃないでしょうか。
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トランプという人は盛んに「Make America Great Again!」と叫んでいますが、いかにも空しい気がします。むしろ彼がそう叫ぶたびに、どんどんアメリカは卑小な国になっている気すらします。
片や日本はといえば、なりふり構わず塩・コショウ入れで外貨を稼ぐ活力も失い、経済も文化もずるずる後退を続け、今や「撤退戦」の様相を呈しています。
小さなパロマーを見ながら、ぼんやり世界の来し方行く末に思いをはせる―。
今年はそんな年度はじめです。
青色彗星倶楽部 ― 2025年02月24日 21時50分53秒
足穂の作品に登場する「赤色彗星倶楽部」ならぬ「青色彗星倶楽部」のピンバッジ。
見るなり、「む、これはタルホチック…」と思いました。
でも実際には、「Blue Comet Motorcycle Club」すなわち「青色彗星オートバイ倶楽部」と呼んだほうが、より正確です。このクラブはペンシルバニアに実在しており、立派なサイトも開設しています。
■Blue Comet Motorcycle Club
1937年に結成された、全米で最も古いオートバイクラブのひとつで、さらに歴史をさかのぼれば、1913年結成の「Black Cats」というオートバイクラブがその前身だそうです。Black Cats から Blue Comet へ―。これまた実にタルホチックな話ではないでしょうか。
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足穂の「赤色彗星倶楽部」は、彼の自伝的小説『弥勒』の中で、主人公・江美留少年の脳内に萌した幻影として登場し、
またずばり『彗星倶楽部』と題された作品の中では、「「北郊の神怪」「山手通りの覆面団」として伝えられた赤色彗星倶楽部」として言及されています。
いずれもオートバイは出てきませんが、ではオートバイと彗星はまったく関係ないかといえば、なかなかどうして、『一千一秒物語』に出てくる「彗星を取りに行った話」の主人公は、モーターサイクルにまたがって彗星狩りに出かけるし、
現実の足穂氏もバイクを憎からず思っていた形跡があります。
(妙な着物姿でバイクにまたがる足穂。山科川堤防上にて。撮影・松村實。出典:『稲垣足穂の世界―タルホスコープ』、平凡社、2007より)
…というわけで、このバッジはやっぱり足穂氏に進呈するのが至当な気がします。
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今日は草団子を作るのに、よもぎを摘みに行きました。
うららかな陽射しの中、近所の土手で草摘みをしながら、「こういうのを平和というのだろうなあ」としみじみ思いました。
ウクライナに限らず、どうか世界に平安が訪れますように。
この願いが叶うことは、おそらく私が生きている間にはないでしょうが、だからこそ祈る意味があるし、祈らずにはいられないのです。
大きな太陽、小さな太陽 ― 2024年08月03日 07時17分43秒
連日酷暑が続きます。
なんだか太陽ばかりが元気で、少し憎らしい気もしますが、最近の炎暑はもっぱら地球側の要因によるものなので、太陽を恨むのは逆恨みのような。
ガラスキューブの内部に造形された太陽。この品は既出です。
ガス球内部で生じた膨大なエネルギーは、対流と輻射によって表面まで運ばれ、目のくらむような光となり、巨大なプロミネンスや爆発するフレア、そして無数の磁力線ループを生み出します。これらは太陽がまさに生きている証しです。
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一方、こちらは原生生物の仲間、タイヨウチュウ。
ウサギノネドコさんのSola cube Microシリーズの1つです。
「タイヨウチュウ」は、Helios(太陽)の名を負った欧名「Heliozoa」の直訳ですが、その姿を見れば、名前の意味するところは一目瞭然です。
球形の本体と、そこから伸びる無数の軸足。内部で絶えず生じる原形質流動。タイヨウチュウもまた、それを可能にするエネルギー代謝こそが、その生を支えています。
こうして比べてみると、自然とはつくづく不思議なものです。
でも、マクロとミクロの太陽が、いずれも<球体と中心からの放射>という共通の構造、ないし形態を持つのは、たぶん我々の宇宙の基本構造――様々なレベルでの対称性――に根差すものであって、そこには偶然以上のものがあるのかもしれんなあ…と思ったりもします。
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ところで、タイヨウチュウをあっさり「原生生物の仲間」と呼びましたが、分類学の発展に伴い、「原生生物」も、その一グループである「タイヨウチュウ」も、近年になってその位置づけにドラスティックな変化が生じているようです。
海産動物ならなんでも「魚」、けもの以外の小動物はすべて「虫」と呼んでいた状態から、昔の博物学者の努力によって、より緻密で洗練された分類体系が生まれたのと同じようなことが、今、ミクロの世界で起きているのでしょう。
生物が生きているのと同様、生物学もまた生きています。
でも、その生を支えるものは何でしょう?
月の風流を嗜む ― 2023年11月16日 18時40分58秒
昨年、ジャパン・ルナ・ソサエティ(JLS)のN市支部を設立し【参照】、その後も活動を続けています。
毎月の例会では、当番の会員が月に関する話題を提供し、みんなで意見交換しているうちに、いつのまにやら座は懇親の席となり、座が乱れる前に散会するという、まさにこれぞ清遊。しかも支部員は私一人なので、話題提供するのも、意見交換するのも、懇親を深めるのも、肝胆相照らすのも、常に一人という、気楽といえばこれほど気楽な会もなく、毎回お月様がゲストで参加されますから、座が白けるなんてことも決してありません。
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N市支部では会員の意向にもとづき、もっぱら月にちなむモノを披露し、それを品評するという趣向が多いのですが、最近登場した品はいつになく好評でした。
漢字の「月」の字をかたどった襖の引手金具です。
オリジナルは京都の桂離宮・新御殿一の間に使われたもので、“これは風流だ”というので、後世盛んに模倣されましたが、今回の品はその現代における写しで、真鍮の輝きを強調した磨き仕上げにより、本物の月のような光を放っています。
(出典:石元泰博・林屋辰三郎(著)『桂離宮』、岩波書店、1982)
(有名な「桂棚」のあるのが新御殿一の間です。出典:同上)
古風な姿でありながら、その質感はインダストリアルであり、風変わりなオブジェとして机辺に置くには恰好の品だと感じました。
七夕の雅を求めて(5)…琵琶の空音 ― 2023年07月05日 06時06分01秒
乞巧奠とは、読んで字のごとく「技芸の巧なることを星に乞う奠(まつり)」という意味で、もとは織物や針仕事の上達を願ったものでしょうが、時代と共に意味が広がって、後には書道や歌道の上達のほうがメインになった感があります。
また、古式の七夕の絵を見ると、乞巧奠の卓には、琵琶や琴が付き物で、たびたび話題にした冷泉家の例や、『七夕草露集』の挿絵にもそれが登場しています。これも星に音楽を捧げるというよりは、音楽のスキル向上を願うための工夫でしょう。
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ここで梶の葉に続いて、雅な楽器を用意することにしました。
いろいろ探した末に見つけたのは、琵琶をかたどった染付の水滴(水注)です。
琵琶の器形もさることながら、これは硯に水を入れるための道具ですから、音楽と書道のダブルで乞巧奠に関係があるし、染付というのも夏向きで、これは我ながら風流な趣向だと思いました。(自画自賛に眉をひそめる方もおられましょうが、今回の企画は私なりに相当力が入っているので、つまらない自慢も、どうかお目こぼしいただきたいです。)
だいぶ時代が付いており、文人趣味の殊に盛んだった天明前後、ないし文化文政期のものと想像するんですが、いずれにしても江戸時代の品であることは間違いないでしょう。
琵琶鳴りをしつつ七夕竹さやぐ 鈴木しどみ
(この連載もあと2回、ちょうど七夕当日に終了の予定です)
七夕の雅を求めて(4)…梶の葉の鏡 ― 2023年07月04日 19時22分33秒
昔から七夕には梶の葉が付き物で、「笹の葉に短冊」という子供向け(?)の行事に飽き足らない“本格派”は、今でも七夕になると、しきりに梶の葉を座敷に飾ったりします。ただし、梶の葉は単なる飾り物というよりは、本来そこに文字をしたためて星に捧げるための具であり、いわば短冊の古形です。先の冷泉家の場合もそうでした。
(画像再掲)
ただ、梶の葉と短冊とでちょっと違うのは、梶の葉の場合「水に浮かべる」行為と結びついていることです。

冷泉家の乞巧奠の場面だと、衣桁に掛けた五色の布にぶら下がった梶の葉にまず目がいきますが、よく見ると古風な角盥(つのだらい)にも梶の葉が浮かんでいます。
これは梶の葉に託した思いを天に届けるという意味らしく、そのことを説いた下のページには、旧加賀藩の七夕風俗の絵が参考として掲げられています。
■七夕のお願いは何に書くの?笹と梶の葉っぱのお話。
(巌如春(1868-1940)が、石川女子師範学校のために描いた歴史考証画。昭和8年(1933)制作。金沢大学所蔵。)
これは、七夕の晩には角盥に水を張って「水鏡」とし、そこに映った星を拝む習俗と対になったものでしょう。つまり水面に星を映し、梶の葉をそこに浮かべれば、星に直接願いが届くだろう…と、古人は考えたわけです。

(水鏡に映した七夕星。
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そんなわけで、我が家の七夕にも梶の葉があってほしく、またそれを水鏡に浮かべたいと思いました。でも、本物の梶の葉を本物の角盥に浮かべるのは、スペース的に無理なので、ここは「見立て」を利かせることにします。
見つけたのは、背面に梶の葉を鋳込んだ柄鏡。
鏡面の直径8cmという、ごく小さなものですが、これで「水鏡に浮かぶ梶の葉」の代用たらしめようというわけです。(それと「織姫さまは女性だから鏡のひとつも欲しかろう」という、これはまあ古川柳にありそうな“うがち”ですね。)
梶の葉は家紋としてもポピュラーなので、これも本来は梶の葉紋にゆかりのある女性が使ったのでしょう。「天下一藤原作」の銘は、当時のお約束みたいなもので、大抵の鏡に似たような銘が入っています。
この鏡は当然江戸時代のものでしょうが、もとの鏡材が優秀なのか、近年研ぎに出したのか、今でも良好な反射能を保っています。これなら、明るい星なら本当に映りそうです。19世紀前半まで、反射望遠鏡はもっぱら金属鏡を使っていたことを思い出します。
(この項まだまだ続く)
七夕の雅を求めて(3)…七夕香 ― 2023年07月03日 06時00分31秒
『七夕草露集』には、昨日の一文に続けて、
「香家米川流に星合香 七夕香の組香あり。其作前(さくまい)誠に高雅にて。二星(ふたほし)も感応(かんをう)あるべき弄(もてあそ)び也」
とあります。米川流は志野流から分かれた香道の一派で、今は廃絶の由ですが、ここにいう七夕香は「組香」とあるので、複数の香木の香りを順々に聞くことで七夕をイメージさせるもののようです。
あるいはそれとは別に、足利義政の時代に定められた六十一種名香(有名な蘭奢待もそのひとつ)のうちにも「七夕香」があると、『貞丈雑記』に書かれていました。こちらは単独の香木でしょう。
まことに雅なものですが、いずれも容易に経験し難いので、ここは別の「七夕香」の力を借ります。
商品の紹介ページには「仙台の夏の風物詩、仙台七夕祭りにちなんだ爽やかな香りです」とあります。仙台は学生時代を過ごした懐かしい街なので、一筋の香煙の向こうにいろいろな想念が次々と湧いてきます。そして、香煙の微粒子はそのまま時間も空間も超えて、私の思いを星まで届けてくれそうな気がします。
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