天文趣味を作った人、山本一清(8)2009年08月03日 22時14分05秒

ガラクマさんより、また新たな資料をご紹介いただきました(ありがとうございました)。
現・小川天文台(http://www.bekkoame.ne.jp/~masa-ki/ogawa_tenmondai/index.html)の前身、<斐太彦天文処>が、昭和56年頃に発行した冊子「星と人」が、山本一清の追悼特集を組んでいて、そこには彼の講演遺稿集と、天文界の人々の追想記が掲載されています。これは非常に貴重な資料だと思います。

これを読んで新たに知ったことが沢山あります。

講演記録では、「天文学者・山本一清」の誕生する前史が、自らの言葉で語られています。
明治28年、数え年で7歳の頃に見た月食が、天文に興味を持つきっかけであったこと。次いで明治33年に見た〔しし座〕流星群が、星への興味を高めていったこと。家業を継いで医師になるのが厭さに、三高では電気工学専攻を選択したこと。そこに前述のハレー彗星騒動があって、いよいよ天文熱が高まり、京大入学後に天文学専攻に転身したこと…等々。

(ちなみに「一清(かずきよ)」を、成人後「イッセイ」と読ませたのは、「ひとつ星、一星」に通じるからだ…と、上記・小川天文台のページには書かれていました。)

山本が京大を辞した顛末は、東京商船大(当時)名誉教授の渡辺敏夫氏が、次のように書かれているので、情報として追加しておきます。

「〔…〕昭和12年京都大学に起った事件で、数名の教授の辞任に伴い、先生もその中の一人として辞職されるという不幸な事件が起った。/私など末輩にはその真相を知る由もないが、先生自ら『南米へ日蝕観測に出かけた不在中に京都帝大で総長の改選期に当り、自分は図らずもその候補者の下馬評に上り、之れがために同学部中の対立者の陰謀によって、帰朝早々非常な災難に遭ったので、翌13年春断然其の職を棄て、ここに自由の身となった。この機会に、いよいよ宿望の観測室を建設するに至ったのである』と述懐されているが、このことは諺に禍を転じて福となるとあるように、考えようによっては却って先生の初志貫徹の良い機会となったのではないだろうか。」

こうして、野に下った彼は、東亜天文協会(現・東亜天文学会)の運営に心血を注ぎ、故郷に私設天文台(田上天文台、現・山本天文台)を建て、ここを拠点に活動を続けます。

前に引用した「天文月報」(59年3月号)には、「山本一清先生論文一覧」というのが載っています。彼が英文で発表した文献一覧ですが、そこには1919年から1937年までに発表した17編、そしてそれ以降に発表した2編が挙がっています。

1938年以降の寥々2編というのは、1951年にPopular Astronomy誌に載った「人を怪我させた最近の隕石落下」という論文と、没する前年の1958年に、長谷川一郎氏と連名でSmithonian Contributions to Astrophysics に発表した題名未詳の論文(天文月報の記事では題名が落ちています)。学問業績が論文だけで測れるとは思いませんが、しかしいわゆるアカデミズムの世界とは、京大退官を機にスパッと縁が切れたと見るべきでしょう。

いろいろ意見はあるでしょうが、日本のアマチュア天文学の歴史にとって、これは大いなる不幸だったと、私は思います。山本一清が京大にそのままとどまり、プロとアマの交流が太く長く続いていたら、日本の天文シーンはたぶん全く違ったものになっていたのではないでしょうか。

山本は戦後、衆院選や県知事選に出馬し、いずれも落選。
昭和28年頃には近江神宮に本部を置く日本暦学会を設立。
さらに晩年は、天文学を重視した神道系宗教団体・三五教(アナナイ教と読みます)の活動に深く関与するようになり、信徒の前で青年時代の回心体験を語ったりしました(大学生の頃、散歩中に「何とも言えぬヒラメキを感じ」、「大きな光を認めた」というのですが、これが後になって再構成された記憶でない保証はありません)。

その旺盛な活動意欲には敬服するものの、公平に見てどうでしょうか。将来を嘱望された俊才の後半生としては、寂しく、陰のあるものだったとは感じられないでしょうか。

★  ★

山本一清博士のことは、何だかうまくまとまらないまま(いつものことですが)、これでいったん終了です。ご教示により貴重な資料も見つかったので、また折を見て、取り上げたいと思います。
前にも書きましたが、今年は博士の没後50周年(そして生誕120周年)の節目です。世界天文年にあたり、この偉人の業績にもっと光が当たることを期待したいものです。

コメント

_ S.U ― 2009年08月05日 07時20分52秒

玉青様、おかげさまで、やはり私にとっては「難しい人」であった山本一清氏のことがちょっとわかったような気がします。僭越ですが、私の管見の範囲でのとりとめのないコメントをさせて下さい。

最近読み直した山本一清著『天体と宇宙』ですが、その内容は、おおざっぱに言って、星座→太陽系→恒星という順になっています。これには氏の強い「星座のロマン」への思いを感じます。なお、野尻抱影著の同題『天体と宇宙」では星座が最後になっています(天文学史が始め)。また、山本著では、かなり情緒的なところと科学的に厳密なところが同居していて、「オイオイ、科学者がそんな主観的なことを書いていいのかな」というところと「オイオイ、素人の読者にそんな難しいことを書いても仕方なかろう」というようなところが一冊の本にあり、これは山本氏の二重的な性格によるものと思ったのですが、今、玉青さんの解説を拝見するに、日本の天文普及はそもそもこの二重性に原点を持っているのでは、と思い直した次第です。それでも、天文学の未解決の問題に自説を述べているくだりがあり、そこは一流の学者であると感じさせてくれます。

 前に、同じ偕成社から同題の兄弟のような『天文と宇宙』が出ているのは何故か、という議論を少しいただきましたが、また、さらなる分析をいただければありがたいと存じます。内容の具体的な比較をすれば何らかの研究になるかもしれません。私の今後の課題と存じます。

もう一件は、本田実氏を抜擢したことです。当時、地方の無名の一アマチュアに過ぎなかったであろう本田氏を、1936年に観測員として採用したことは、非常に面倒見がよかったのか、それとも、人を見るものすごい先見性があったのか、ということが気になります。いずれにしても尋常ではないことのように思います。
http://www8.plala.or.jp/seijin/honda/ayumi.html

_ 玉青 ― 2009年08月05日 21時47分20秒

山本一清と野尻抱影。
同世代の天文オルグとして、互いをどう意識していたかは興味深いところです。両者は決して険悪な関係ではなく、普通に交際はしていたが、お互い心を許すというほどでもなかった…というようなことを、確か石田五郎氏が書いていたと思います。
即物的なレベルで言っても、徹底した東京嫌いの一清氏と、横浜生まれの東京人・抱影翁とは、肌が合わなくてもまあ当然という気がします。大胆な近江人と、勇みだがシャイな浜っ子。文学趣味の理学者と、理学趣味の文学者(これは抱影というより、むしろタルホでしょうか)。…いろいろ面白い比較ができそうですね。

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