科博へ(5)…続々・館内ひとめぐり2010年10月08日 22時30分05秒

趣を変えて、機械モノを見に行きます。


1階の半分を占めた理工学展示室より、「小型風洞と蒸気タービン」。
当時の科博の展示構成は、3階が動物学、2階が植物学、1階の半分が地学で、残り半分が理工学でした(10月4日の平面図参照)。
で、その理工学の展示ですが、絵葉書を見ていると、いわゆる物理・化学分野よりも、産業・技術的な展示が多かったのかなと、思えます。

2012年3月付記: 10月4日に掲出した平面図は、建築当時の展示構成ではなく、戦後のものなので、上記の記述は誤りです。本記事に頂戴したコメントもご参照ください。】


こちらは「新聞輪転機実演模型」。
うーん、確かにカッコいいような気もします。
でも、今の人が感じるカッコよさは、たぶん「鋼鉄の怪物」的な、前代のマシンが放つ独特の重厚さにあるのに対し、当時の人は「新時代のテクノロジー」という点に魅力を感じたはずで、魅力のポイントがちょっと違う気がします。(輪転機の向こうに過去を見るか、未来を見るか、視線の向きが真逆です。)


キャプションには「時計陳列室」とあります。これも理工学室の一部でしょうか。
科博の充実した和時計コレクションは、現在も日本館の1階で見ることができますが、開館当時はまだスカスカですね。

そんな中、圧倒的な迫力を見せているのが、画面右手の大時計。
東芝の始祖、田中久重(からくり儀右衛門)(1799-1881)が心血を注いだ傑作「万年時計(万年自鳴鐘)」です。その右上に見えるのは、やはり同人作の「太鼓時計」。

万年時計については、東芝のサイト「万年時計復活プロジェクト」(http://kagakukan.toshiba.co.jp/manabu/history/spirit/clock/project/index_j.html)に関連記述があります。それによると、この時計は1台で和刻も、西洋時刻も、日付も、七曜も、二十四節も、干支も表示でき、さらに太陽と月の動きを立体的に表現できるそうですから、まさに日本初の本格的なAstrnomical clock。

     ★

ゆっくり館内を見て回って外に出たら、外はもうすっかり暗くなっていました。
見上げれば、帝都の上には銀月が皓々と…


        (↑「本館備付の天体望遠鏡(口径20cm)で撮影した満月」)

コメント

_ Sora ― 2012年03月24日 21時16分28秒

「国立科学博物館」の理工学館で検索をかけていますと、やはりこちらのサイトにお邪魔してしまいます。
(実は先日かはくに行ったのですが、子供の頃の展示スタイルとだいぶ様変わりしているので、以前の展示はどうだったか、とWikiで検索かけてみたのですが、意外にも古い展示系に関しては何も記載されていない状態でして、思わず自分で調べて判る限りを編集している次第です。)

今回は東京科学博物館時代の絵はがきも含め拝見させて頂きました。
写真の「時計陳列室」は現在の日本館3階、飛行機の胴体部にあたる場所にあった陳列室の様です。
「科博の形は飛行機の形?」に掲載されています地図(『たぶん1931年当時のもの』と書かれておりましたが、理工学館が記載されているので1954年頃の地図と推測しています。)の3階胴体部分付近に「特別展示」と書かれた小さな部屋がありますが、開館当初は特別展示室とその向かいの部屋を隔てる壁は作られておらず、そこが「時計陳列室」だったようです。

そういえば先日の科博の形が飛行機の形になっているのは偶然だったのか、という案件で1つ面白いサイトを見つけました。
ttp://otakei.otakuma.net/archives/4111040.html
確かに秋保氏が考案したアシンメトリーな建物案が通っていれば、今現在、日本館は重要文化財として残っていなかったのかもしれません。

_ 玉青 ― 2012年03月25日 08時20分24秒

ご教示ありがとうございます。なるほど、例の平面図の左下には「理工学館 谷口吉郎 1954」という注記があるので、あの図は1954年(あるいはソースとなった本の出版された1965年?)当時の現況図にちがいありません。創建当初の姿からは、またいくぶん変化しているわけですね。

1931年当時の本当の平面図(ただし1階部分のみ)は、「アンサー編」に写っているものだと思いますが、上の図と比べると展示構成の違いが明らかで、上の記事は大幅な修正が必要です。しかし、今から手を入れるのも大変なので、簡単な注記のみでお茶を濁しました(汗)。

興味深いページをご紹介いただき、こちらもどうもありがとうございました。
リンク先のページの最後の方に、
「現在から見てみると、装飾を排したモダニズム建築は、その後現代建築の基礎となってしまった為に『ただの古ぼけた建物』としか認識されず、初期の貴重な物件も、その歴史的価値を理解されることが少なく、次々壊されてしまっています」
とあるのを拝見し、昨日自分が書いた記事の内容も連想されて、思わず膝を打ちました。

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